今日の個所は、イエス様が弟子たちに話されたところです(22節)。漁師だったペテロ、ヨハネ、ヤコブは、舟をあとにしてイエス様についてきていました。マタイ(レビ)は取税人でしたが、それもやめてイエス様についてきました。ほかにも仕事を離れて、イエス様の弟子として従っていた者たちが大勢いたのでしょう。そんな彼らにとって、口には出さないものの、実は内心、お金は大丈夫だろうか、と心配する者もいました。悪霊につかれた人や病人を癒しても、お金を取るわけでもない。何か商売をやっているわけでもないし、決まった収入があるわけでもない。こんなことを続けていて、いつまで、もつんだろうか…。そんな不安を抱えた弟子たちをイエス様がやさしく諭してくださいました。
22節「ですから」は前回見た愚かな金持ちのたとえを受けてのことです。畑が大豊作で、倉を建て替えて大きなのを作らないといけないくらい、この先何年分もの収穫を得た。それで、さあ、これからは休んで、食べて、飲んで、楽しめと言ったこの男は、その日の夜にいのちを取り上げられた。そして21節「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と言われました。生きていくのに、もちろん、お金は必要だけれども、かといって、お金がいのちを支えているわけではない。いのちを支えているのは、神ご自身。だから神のみこころを行う者であれ、と教えられました。それを受けての「ですから」です。
「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。 いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。」(22-23節)「心配する」と訳された語は、心が分かれるという意味の語です。何かをやっていても、いつもそのことが心にかかって、落ち着かない、頭から離れない、そんな状態でしょうか。それは精神衛生上もよろしくないし、そんな迷いを抱えていては、力も発揮できません。ですから、それに対して、イエス様は食べ物のこと、着る物のことで、そんなふうに心配はしてはいけない、と言われます。「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです」とは、私たちが求めるべき優先順位を言っているのだと思います。食べ物があっても、あの愚かな金持ちのように、いのちが取り上げられることもある。着る物があっても、からだの機能が停止したら、何にもならない。衣食はもちろん、必要なのだけれども、それよりも、いのちそのもの、また、いのちの宿っているからだそのものを支えているのは、神ご自身ではなかったか。そのことを忘れて、あたかも私たちの地上のいのちを支えているのは、食べ物や着る物であるかのように思っていたとしたら、それは、あの愚かな金持ちと同じこと…。私たちを生かしているのは神であること、ゆえに神のみこころを行うことが何よりも大切であることを、くれぐれも忘れないように。その視点を見失わないように、ということです。
そして、イエス様は、事実、神がいかに慈しみ深いか、自然を観察することで悟りなさいと言われます。「烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。」烏は当時、汚れた動物とされていました。雀は5羽で2アサリオンで売られましたが、烏は売り買いされることもありませんでした。そんなまったく人から顧みられない烏でさえ、神は養っておられる。当然、彼らは、種まき、刈り入れもせず、食糧を蓄えておく納屋も倉もない。あの金持ちは、大きな倉いっぱいの食べ物があれば、この先何年も安泰…と思いましたが、そんな倉などない烏を、神は日々、養っておられる。ここでも、生かしているのは神。父のお許しなしには、雀一羽、烏一羽、地に落ちることがないのです。そして当然、あなたがたはその烏よりも、はるかに価値がある存在なのだから、神が養わないはずがないでしょうと、イエス様は言われました。
しかし、「そう言われても、烏じゃないんだから、心配しちゃうんだよ」と言う向きに、イエス様は言います。「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。」(25-26節)いのちは神の御手の中にあります。人はそれをどうすることもできません。それは神の領域です。しかし神にとって人のいのちを延ばすことは「小さなこと」です。人間の分際というものをわきまえさせられます。私たちは神に生かされているから、生きている。そのことを忘れて、あたかも自分の力で生きているかのように、ほかのことまであれこれ心配することに意味があるのか。もしかしたら、身の程知らずだったのではないか…。
27-28節、今度は野の草花がどうして育つのか、よく考えなさいと言われます。働きもせず、紡ぎもしないではないか。それなのに、栄華を極めたソロモンでさえ、かなわないほど、神はこの花を装っておられる…。ソロモンは、イスラエル史上、最も栄えた王で、彼が使う杯はみな、金製、彼の時代には銀は価値あるものと見なされなかったと言います(第一列王記10:21、旧約p.616)。当然、衣装も高価な布に金の糸などで刺繍を施したような贅を尽くしたものだったでしょう。しかしイエス様は、神が装われた野の花には、そんなものはかなわないと見立てました。人間的な豪華絢爛さではなく、そこに込められている神の知恵のすばらしさのゆえでしょうか。花一つにもそれが咲くための仕組みが、細胞の一つ一つに至るまで精巧に造られていて、それは知れば知るほど、息を飲むほどの神の知恵があらわれているのではないでしょうか。今日は野にあっても、明日は炉に投げ込まれる草さえ、とは、たきぎのように火を燃やすのに使われる草だったのでしょうか、そんな草でさえ、神はこのようにみこころにかけてくださり、すばらしく装われるのだから、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。見る目さえあれば、空にも地にも、神の慈しみを教える教材はたくさんありました。それなのに、父の慈しみを信頼できないとは、何と信仰の薄いことか、とイエス様は信仰の奮起を促しました。
そして29-30節「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。しかし、これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。」「この世の異邦人」とは、神を父として知らない人のこと。彼らは天の父を知らないので、食べ物、着る物を第一に求める。それは仕方のないこと。しかしキリストによって、神の子どもとされた者は、神が父となっておられます。神との親子関係に入っています。幼子は、親と一緒にいれば安心です。明日のご飯はどうしようとか、月末までもつかなとか、心配せず、そんなことはどこ吹く風で、無邪気に走り回ったり、ひっくりかえったりして、遊んでいます。親が一緒にいるというだけで、いっさいの生活の思い煩いは無用。ならば、私たちも天に慈しみ深いお父さんがいらっしゃるのですから、そのような信頼を寄せていいはず、いや、寄せるべきでした。
ですから、そちらのほうの心配は天のお父さんにお委ねして、私たちが何よりも第一に求めるべきは、神の国ということになります。
「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。」御国は神の国のこと。神の国とは神が支配するところという意味です。ここでは、あなたがたの心を、神が支配するところとしなさい、ということでしょうか。お金が支配するところでなく。私たちの心は、誰が、何が支配しているでしょうか。イエス様は、私たちのいのちを支えておられるのは神であることを心をから確信して、何も心配せずに、あなたがたの心を神のご支配するところ、神の国として頂くことを求めなさいと言われました。そうすれば、それに加えて、必要なものはすべて与えられる、と。正しい優先順位。
さらに続けて「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」と仰いました。神の支配とは、神が力づくで従わせるのではなくて、私たちが神の尊い救いにあずかり、神の御愛を知り、自発的に神に従うようになることです。そのように神のみこころが行われることを神は望んでおられるのであって、それが神の国です。さて、私たちは神に支配して頂くことを望んでいるでしょうか。それともちょっと敬遠したいと思うでしょうか。神を信頼しきれない、神の愛を信じきれないで、神の支配を不自由なもの、窮屈なものと正直、思っていたら、心から神の支配、神の国を求めることはできないでしょう。それは永遠の神の国にも入れないということです。神ご自身を敬遠しているのですから、神とともに永遠に生きることは苦痛でしかないでしょう。もしそうだとしたら、悔い改めなければいけません。聖霊によって、私の心を造り変えて下さい、新しくして下さい、神がどんなに私を愛しておられるか、神がどんなに素晴らしいお方か、わかり、神を心からお慕いする心をお与え下さい、と。もし、私たちが神を愛して、神の支配を求めるなら、神は喜んで与えてくださいます。神の国は神と人との相思相愛の国です。神は良い方であり、従って、神の支配は良いものです。
ここは、地上で神の国に生きるということの、一つの方法を教えていると思います。「自分の財産を売ってでも施しをしなさい。」余ったら施しを、でなく、財産があるならそれを売ってでも、と積極的な姿勢を勧められます。それは、自分のために、天に、擦り切れない財布を作ることであり、尽きることのない宝を積むことだと言います。愚かな金持ちのたとえでは、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです」と言われましたが、ここでは「自分のために」天に宝を積むことは、むしろイエス様が勧めておられます。よく、あの世に財産を持って行くことはできないと言いますが、天国に財産を移す方法がありました。施しをすること、隣人愛のわざに用いること。地上の残高は減りますが、天の残高は増えます。そしてイエス様がこれを勧める理由は、「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」(34節)心の置き所が天ということは、神の近くに心があるということです。そして神に喜ばれるわざをセッセと積み上げることにいそしむなら、ますます天が慕わしく、また近く感じるのではないでしょうか。もちろん、私たちが天に迎えて頂けるのは、行いのゆえにではなく、ただキリストが成し遂げて下さったことのゆえということが前提としてあることは、前回申し上げた通りです。ただキリストによって、神との関係が回復した上で、では、どう生きるか、ということで、天に宝を積むことに励む生き方は、私たちの心を神に結びつける点で、私たちが地上にいながら神の国に生きることの一つのあり方なのだと思います。
私たちがお慕いするイエス様は、今は天におられます。それは私たちに天を慕わせます。そして私たちもやがていつかは、天に迎えられます。そのときに、天の自分の倉がからっぽだったということのありませんように。もちろん、施しと言っても、金額の大小ではなく、神は心をご覧になります。また施しだけでなく、神が喜ばれるのは隣人愛のわざすべてです。それらの良いわざに富む者でありますように。そして天の倉にたくさんの宝を積み上げることができますように。それは、御父とイエス様が喜ばれるのですから。