礼拝説教要旨 2025年8月17日

神の前に富む

ルカの福音書12:13-21

<はじめに>

16節以下は「愚かな金持ちのたとえ」として有名なところです。私たちが生きていくために、もちろん、お金は必要だけれども、さりとて、お金がいのちを支えているわけではない。当たり前と言えば当たり前ですが、折りに触れて思い起こすべき教えです。そして、私たちのいのちが財産のうちにあるのではないというのはいいとして、では、どうしたらいいのか。結論を先に言えば、私たちのいのちは、神に支えられているのだから、神のために生きるということです。

<① イエス様に求めるべきものは?(13-14節)>

このとき、集まっていた群衆の中から、一人の人が遺産の分けるように兄弟に言ってくれと、イエス様に言いました。遺産相続でもめることがあるのは、古今東西、変わらないようです。彼はイエス様を「先生」(ラビ)と呼んでいますが、当時、遺産相続については律法に定められていて、実際に律法の専門家はそのような、弁護士のようなことをしていました。ですから彼らに求めればいいのです。イエス様に求めるべき事柄は、他にあるでしょう?魂の救い。罪の赦し。永遠のいのち。神の国です。イエス様は、私たちに永遠の神の国を、それこそ相続財産として与えるために、神に任命された救い主です。この人には、そのようなことなど眼中になく、ただ財産のことで心が占められていたのでしょうか。

これを見てイエス様は、人間の貪欲がいかに魂にとって有害か、霊的な目をふさいで、本当に必要なことを見えなくさせてしまうか、を見て取られたのでしょう。それで15節以下、集まっていた人々に向って語り出されました。

<② いのちは財産にあるのではない(15-21節)>

主は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」と言われました。気をつけ、警戒しなさい、と似たような言葉を重ねて強調しています。「貪欲」と訳された語は、手元の辞書によると「もっと、もっと、自分のものとして取り込もうとする欲望。人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やそうとする欲望。取ってはならないものまで、無理に手を伸ばして取ろうとする欲望。むさぼり、貪欲」とありました。昔、ロッキード事件にかかわったある人が、当時で何兆円か財産を持っていたそうですが、最期を迎えたときに何と言ったか。「あともう少し、お金があったら…」笑い話みたいな話です。

続けて主は、なぜ、貪欲に警戒しなければならないか、理由を言われました。「人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」生活するためにお金は必要ですが、さりとて、お金があればいのちが保証されているわけでもない。言われてみれば、当たり前のことですが、しかし、人は時にその事を忘れて、お金がたくさんあることで、まるで将来の生活が保証されたかのように勘違いしてしまうことがあります。そんな、ありがちな誤解を、わかりやすいたとえで教えて下さったのが16節以下です。

ある金持ちの畑が大豊作も大豊作で、収穫したものをしまっておく場所がないと、うれしい悲鳴。どうしたらいいかと考えた末、今ある倉を壊して、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や財産をしまっておくことにしました。費用をかけて倉を建て替える大工事をしてもいいだけの大豊作だったのでしょう。今で言えば、商売が大繁盛して、巨万の富を得たとかでしょうか。そうなったら、皆さんは、どういうことを考えるでしょうか。この金持ちはこう考えました。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、休め、食べて、飲んで、楽しめ。」一読して、ここには神への感謝の言葉が一言も、見えません。収穫は神の祝福なしにありえないのに。そして、彼には小作人がいたはずですが、彼らの労をねぎらうという発想もない。お給金をはずんであげようとか、一部を分けてあげるとか。それどころか、もしかしたら、これから先、何年も休もうというのですから、小作人にいとまを出すことさえ、考えていたかもしれません。また、貧しい人に分けるということも、夢にも思わなかった。神も、隣人も彼の眼中にはないのです。そう言えば、彼が心の中で言った言葉を改めて見てみると、17節「私の作物」、18節「私の倉」、「私の穀物や財産」、19節「自分のたましい」は原文は「私のたましい」となっています。私の、私の、私の。私、私、私。あるのは私だけ。神も隣人も彼の心の中には存在しないようです。感謝もなければ、与えられたものを分け合うという発想もない。「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。」(詩14:1、旧約p944)。これが神の前に貧しい者の姿でしょう。

そんな彼に神は言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。」あまりにも自己中な彼の計画通りにはならない。いのちは財産のうちにあるのではないのです。神の御手の中にあるのです。神のお許しなしには雀一羽、地に落ちることなく、その逆もまた真なりなのです。

<③ 神の前に富むとは?>

最初に誤解のないように、神の前に富む者はみな、長生きするということではありません。愚かな金持ちは自分の計画通りにいかず悔しい思いをしましたが、神の前に富む者は、生涯の長短に関わらず、満ち足りた、感謝の人生を恵まれるということでしょう。長さより質の問題です。もちろん、意味もなく、人生の途中で取り上げられることもありません。

では、この神の前に富むとは、どういうことでしょうか。一言で言うと、神のみこころを行うことです。つまり、神への愛と隣人への愛を行うことです。ただし、その前に、悔い改めて、キリストを信じて、罪の赦しにあずかり、ただキリストによって、神に受け入れられているということがあった上でのことです。ただキリストによって、いっさい私たちの行いによらず、100%キリストがしてくださったことのゆえに、神との関係が回復しているという、その土台があってのことです。キリストへの信仰なしには、神の前に富むどころか、罪という負債、それも莫大な負債を負っている状態なのですから。聖書のほかの個所のたとえによると、その負債額は何千億円か、個人では到底ありえない額です。そのあり得ない巨額な罪の負債を、人は神に対して負っているということです。これはどうがんばっても返済することはできません。しかし、その私たちの山ほどもある負債をすべて、私たちのために、肩代わりしてくださったのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪に対するさばきを、十字架の上で、全部、引き受けてくださった。私たちが支払わなければならなかった罪の負債は、全部、イエス様が身代わりに払いきってくださったのです。ですから、キリストを信じている者には、神に対する負債は一つもありません。一円もありません。すべて払われました。それで、神との関係は回復して、神の子として受け入れられました。まず、この神との関係回復があって、はじめて、神の前に富むということが可能になります。ですから、神の御前に富むために、まず、必要なことは、これからは神を信じて、従って生きます、と悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。

そして、その神との愛の関係に入れて頂いたあとで、神に信頼して、神を見上げて、神のみこころを行う歩みをすることが、神の前に富むということです。もちろん、キリストを信じたからと言って、完全な行いができるわけではありませんが、私たちの欠けや汚れも、キリストの血潮で覆われて、あたかもきよいものであるかのように、神は見て下さり、受け入れてくださいます。ただキリストにあってです。私たちがささげる最善の良いわざも、聖なる神の御前には、あたかも、洗濯物を干しているお母さんのお手伝いをしようとしてくれる幼子が、その気持ちはいいんだけれども、ついさっきまで泥遊びをしていた、その手で手伝ってくれるようなもの。それでもその汚れは、キリストによってきよめられて、神は受け入れてくださる。だから、恐れなく神に仕えることができるのです。

神のみこころは、神への愛と隣人への愛です。まず後者から。箴言 19:17 旧約p.1117

貧しい者に施しをするのは、【主】に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。

主に貸すとは、大胆な表現です。もちろんこれは、神がその施しのわざに豊かに報いて下さることを表すものです。こう言ってまで、私たちを貧しい人への隣人愛のわざへと促しておられるのです。また、このあと33節には「自分の財産を売って施しなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。…」とも。人の生涯の価値は、どれだけ集めたか、ではなく、どれだけ与えたか、で測られると言います。もちろん、お金のことだけではなく、誰かのことを心にかけて、ちょっとした気遣いをする、手助けする、手紙を出す、電話をかける、その人のために祈る等々、隣人愛を行うことです。

そして神への愛。貧しいやもめがささげた献金の例があります。まわりではジャラジャラとこれ見よがしにお金を投げ入れていた金持ちたちにまぎれて、一人の貧しいやもめが数十円か百円くらいを握りしめてやってきて、それが彼女の全財産だったけれども、それをささげた。それをご覧になったイエス様は、ほかのどんな金持ちよりも、彼女がたくさんささげたと言われました。神は心をご覧になり、また信仰を喜ばれるからです。黙示録をみると、スミルナというところにある教会は、信仰のゆえに、ある者は財産を没収され、ある者は投獄されて、と迫害を受けていました。そんな中で、イエス様を信じる信仰を捨てずに、従っていたスミルナの教会に、イエス様は「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。-しかしあなたは実際は富んでいるー」と御声をかけました。(黙示録2:9、第三版)。イエス様にお従いするがゆえにこうむる世的な損失は、むしろ神の御前では富だと。そうかと思うと、ラオデキヤにある教会に対しては、主はこう言われました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(3:15-17、第三版)。

私たちのために、ご自身の命を捨てて、私たちに永遠のいのちという相続財産を受け継がせてくださったイエス様のご愛、またイエス様を送って下さった神のご愛を受けて、イエス様のみあとに従わせて頂きたいものです。

「 すべてのものを 与えしすえ 」新聖歌 99番

興味深いことに、20節の「取り去られる」と訳された語は「返還するよう求められる」の意です。たましい(別訳 いのち)は神のもの。いわば、神から貸与されて、この地上にいる間、そのいのちを何に用いるか。そのいのちをもって、何をするか。神のために、隣人のために、何をしてきたか、最後に神の前に報告するときが来るのです。いのちだけでなく、私たちに与えられているもの、あずかっているものは、本当はすべて神のもの。神は私たちに楽しむようにとたくさんのよきものも与えておられると同時に、それを隣人のために用いるようにと願っておられます。その視点を見失ってはいけません。ひたすら自分のために蓄える生き方vs与える生き方。前者は愚か者と神に叱責された生き方であり、後者はイエス様の歩まれた道です。前者は滅びの道であり、後者はいのちの道です。気が向いたら、ディケンズの「クリスマスキャロル」を読んでもよいと思います。

主人公スクルージ。彼にとって、今日がクリスマスイブであることなど、どうでもよかった。

薄給で雇っているクラチットが、クリスマスだから早く仕事を切り上げたいと願い出ても、その分、翌日は早く出勤することを要求。さらに、寄付金集めにやってきた紳士には暴言を吐き、パーティへの招待に来た甥のフレッドを追い返した。嫌われ者の守銭奴である彼にとって、クリスマスは愚か者どもが散財し、騒ぐ不愉快な日でしかないのだ。

そんなスクルージが床につくと、かつての仕事仲間・マーレイの幽霊が出現する。マーレイの幽霊は鎖に縛られ、絶え間なく後悔に苦しめられているという。そして、これから3人の幽霊がスクルージのもとを訪れることを告げ、訪問を受けなければ自分と同じ道を踏むことになると言い残し、姿を消す。

過去を司る第1の幽霊は、夢と素朴な心を持っていた少年時代の光景を見せた。次に幽霊は、別の過去のクリスマスに連れていく。さらに成長したスクルージは、金の亡者になりつつあった。当時、スクルージには将来を約束した女性がいた。しかし、スクルージの変化に愛想を尽かした婚約者から別れを告げられた過去を見せられ、打ちひしがれるのであった。

現在を司る第2の幽霊は、知人たちがクリスマスを楽しむ光景を見せた。クラチット家の貧しいけれど楽しいクリスマスパーティの様子、甥のフレッドが愉快にクリスマスの食卓を囲む姿だった。そして、クラチットの子どもティムが病気で長く生きられないことを知る。以前「過剰な人口を減らした方がいい」と言ったことを思い出し、過去の自分の言動を後悔するようになる。

そして、未来を司る第3の幽霊が見せたものは、人間の浅ましい姿だった。未来では、ある男の死を皆が喜んでいて、暴言を吐いたり、死体から服をはぎ取ったり盗みを行う者までいた。その男の荒れ果て見捨てられた墓碑に刻まれていたのは、スクルージの名……。

スクルージが目覚めるとクリスマスの朝だった。マーレイと3人の幽霊に感謝し改心を誓ったスクルージは、クラチット家にごちそうを贈り、寄付を募る人々に多額の寄付をし、フレッドのパーティへと赴く。

神が、イエス様がどんなに素晴らしいことを、私にして下さったか、日々、思う時を持ちましょう。そして、愛する神のみこころ、イエス様のみこころを行う思いを新たにさせて頂けますように。私たちの内にはイエス様の御霊が住んでおられます。そのイエス様の御霊に導かれ、励まされて、イエス様にならう歩みを一歩ずつでも、進んでいけますように。