礼拝説教要旨 2025年8月10日

信仰によって義と認められる救い

ローマ人への手紙3:21-30

<はじめに>

二か月前、ローマ人への手紙1章18節以下に目を留めた。パウロは「私は福音を恥としません。福音は・・・信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」と語り、更に「福音には神の義が啓示されていて・・・『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と、これから記すのは「神の義」についてであり、神の前に義とされ、神との正しい関係に立ち返る道すじにあると語り始めた手紙を、要点を絞りながら学び直したいと触れた。私たち人間の罪の事実の凄まじさを自覚し、恵みによる救いの素晴らしさをより深く知ることを願ったからである。造り主なる神を退けて生きる人間の現実は、不義をもって真理を阻んでいる状態である。神へのあらゆる不敬虔がはびこり、社会におびただしい不義や不正が蔓延するのは、もうすでに神の怒りが下されていることに他ならないと、パウロは鋭く指摘していた。大事なのは、造り主なる神にこそ立ち返ることである。以下、パウロの指摘は、全人類が等しく神に背いて、罪の中に沈んだままにあること、自分からは神ご自身の前に立ち返ることのできないことを繰り返し説いて、神が備えてくださった救いの道を明らかにしてくれる。今朝は3章21節以下に目を留める。(※4年前の2021年12月12日「キリストを信じて義とされる幸い」との説教題にて話したことと重なる。何度でも学び直すべき大切な事柄と思いつつ、である。)

1、

使徒パウロが諸教会に書き送った手紙はどれも、イエス・キリストを救い主と信じること、信じて神の前に義と認められることを、決して見失うことのないよう心を込めて記されている。中でもこの手紙は、福音の核心が、より体系的に説かれている。1章から2章、造り主である神に造られた人間が神に背いて罪に堕ちた、その罪の悲惨さを説きながら、律法を与えられたユダヤ人と律法を持たない異邦人の違いを理解しつつ、罪ある人間の現実は、どちらも全く同じ悲惨の中にあると指摘する。生ける真の神の前に、全ての人は罪ある存在である。罪に対する神の怒り、そして神の裁きを免れる人は一人もいない事実を突き付ける。それが3章18節までの内容である。人の目に、どれだけ善良そうに見えても、反対に決して善良そうには見えなくても、神の目には、「義人はいない。一人もいない。」この厳然たる事実を決して見落としてはならない、とパウロは語る。「では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての人が離れて行き、だれもかれも無用な者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。』・・・」(9~18節)

2、

確かにユダヤ人たちに律法が与えられ、神の前に義とされる指針を与えられていた。けれども、それを行うことによって、神の前に義と認められることはなかったのである。罪のために、誰一人として律法を行うことはできないからである。(19~20節)その絶望的な罪ある全ての人のために、神が確かな救いの道、罪の赦しを与える救いの道を備えて下さった。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」(21~22節)罪ある人間自身ではどうすることもできないことを、神ご自身の側で成し遂げ、その成果を信じる一人一人に与えることを神が良しとされた。誰一人、決して差別されることのない尊い救い、確かな救いである。十字架で死なれたイエスを私の救い主、私の罪の身代わりとなって死んで下さった方と、心から信じる人が神の前に義と認められるのである。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として、公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。・・・ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(23~26節)

3、

この御言葉が語ることこそが、神の恵みによる救い、信仰によって義と認められるという、私たちの信じる福音の真髄、また中核である。その意味することを正確に捉えるには、私たち人間の罪の事実をはっきりと理解しなければならない。神への背きの罪に堕ちた人間には、罪を認めることが至難のこととなっている。神を神と思わず、罪を罪と認めない事実、それが罪に堕ちた人間である。誰も自分から進んで神の前に進み出ることはない。神への背きを罪とは認めず、自分の知恵や知識、また力によって、思いのままに生きて行こうとする。その姿は、人間の歴史を通じて明らかである。堕落した人間であっても、尚も善なる性質を保ち得ているのも事実である。それは神のかたちに似せて造られているからである。けれども、神が善しとされる善、そして義を、自分から選び取ることはしないし、できない。自ら神に立ち返ろうとはしない。聖霊なる神に導かれ、神が備えて下さった救いの道を、心から感謝して受け入れ、イエスをキリストと、私の救い主と信じることによってのみ、私たちは義と認められる。(コリント第一12:3)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」十字架のキリストを仰ぎ見る以外に、私たちに救いはない。それゆえに「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。・・・」(27~30節)ユダヤ人も異邦人も、何人であっても、信仰によって義と認められるという救いの道だけが、永遠のいのち、真の救いに至る幸いへの道なのである。

<結び>

それにしても、私たち人間はなかなか自分の罪を認めない。交通事故を起こした時、自分から謝らないように・・・という助言を聞いたことを忘れることができない。後々不利にならないようにとのことである。けれども、聖書は、罪を罪と認めること、罪を悔い改めて謝ることの尊さを教えてくれる。罪を言い表し、悔い改め、その罪を赦された後に、そこから立ち上がって前を向くこと、新たな歩みをすることこそが尊いと。生ける神の前に、罪を赦されて生きることが、真の幸いなのである。(ヨハネ第一 1:7-10)

私たちに罪を認める潔さ、素直さ、率直さがあるだろうか。私たちは、日頃のテレビや新聞のニュースで、人々の心の中の頑なさや、神を恐れない強情さを知らされる。他の人の姿から、罪を認めない、堕落した人間の姿が浮き彫りにされるが、自分の本当の姿に気づいているのか、よくよく思い返さねばならない。罪の赦し、たましいの救いは、神の恵みによる以外に、決してたどり着くことはできないと、今一度心に留めることが導かれるように。キリストを信じて義とされる救いの恵みは神の賜物と、心からの感謝をもって受け取り、その信仰を証しして歩めるように!