礼拝説教要旨 2025年7月20日

パリサイ人、律法の専門家

ルカの福音書11:37-54

<はじめに>

鏡は有用なものです。出かける前など鏡を見て、おかしなところはないか、チェックすると思います。寝癖がひどかったり、ひげが伸びていたりしたら、教えてくれます。便利なものです。聖書も、私たちの心の姿を映す貴重な鏡です。「鏡よ、鏡よ、鏡さん、ここに記されている人は、誰ですか?やたらとイエス様に絡んだり、怒ったり、心根の悪そうな感じですけど。」ときくと、次の瞬間「それは、あなたの姿ですよ」と応えられて、ハッとさせられることがあります。今日のところに出てくるパリサイ人、律法の専門家というのも、私たちの姿を映し出してくれる貴重な個所なのかもしれません。

<① パリサイ人:主を恐れることがなく、内面に無頓着な人々(37-44節)>

パリサイ人とは、いわゆる「宗教」に熱心な人たち。当時は宗教的な社会でしたから、それは人々から尊敬され、賞賛されることでした。彼らは旧約聖書にある戒め-と言っても、目に見える儀式や、安息日に100m以上歩かないといった彼らが作ったルール-を一つも落ち度なく守ることに情熱を傾けていた人たちです。我が輩は、そんじょそこらの者らとは違うと、宗教的エリート意識の固まり。そんなパリサイ人の一人が、何を思ってか、イエス様を食事に招いた。そしたら、イエス様が食事の前に「きよめの洗い」なるものをしなかったというので、そのパリサイ人は「驚いた」というのです。もちろんこの戒めは聖書にはないこと、彼らが勝手に作り上げたものです。ちなみに、ここの「きよめの洗い(をする)」と訳された語は、洗礼をあらわすバプティゾーという語。さすがに彼らも、毎回、食事前に全身を洗うことはせず、手を洗う儀式だったようですので(参考マタイ15:2)、バプティゾーは必ずしも全身を水に浸すことを表すものではなく、からだの一部を水につけることも表します。キリスト教会の中には、バプティゾーは全身を水に浸すことを表すから、洗礼は全身を浸さなければいけない(浸礼という)と主張するところもありますが、長老教会はそのような次第で、水を頭にちょこっとつけるだけの滴礼で行っています。

その「きよめの洗い」は、こんにちのように、衛生上の観点から食事の前に手を洗うという事ではなく、宗教上の汚れをきよめる儀式でした。町を歩いていて、間違って異邦人に触れたかも知れない、あるいは異邦人が触れたものに触れたかも知れない。そんな手でパンを食べれば、異邦人の汚れが入ってしまうと、自分のきよさということに神経質になった挙句、作った戒めでした。そんな彼らからすると、イエス様がきよめの儀式をしないで、食卓に着かれたのは、言語道断というか、考えられないことだったわけです。それに対してイエス様は、彼らが外側の、目に見えることには、そこまでこだわるのに、もっと大事な、本質的な、内面のことにはまるっきり無頓着で、強欲と邪悪で満ちているではないか、と言いました。強欲は、肉の欲のむさぼりでしょうか。お金、不品行、権力欲等々。邪悪はあらゆる悪意でしょうか。たとえるなら、外側が大変、立派な、美しい器があったとします。でも、その中に入っているのが生ゴミです。そんなものを差し出して、どうです、見て下さい、神様、私はきよいでしょう、立派でしょう、と膨れあがっていたのがパリサイ人でした。こんなものを差し出しても、神に鼻があったら、鼻をつまんで顔を背けるに違いありません。

それで40節「愚かな者たち。」と言われました。箴言に「主を恐れることは知識のはじめ」とありますが、彼らは生きておられる主を恐れるという、その知識のはじめを体得していなかったからでしょうか。主は心をご覧になっています。内面をこそ、評価されます。そこを無視していた。その視点が抜けていた。それで主は、あなたがたの内側を、心を施しに用いなさいと言われました。強欲が、自分の欲を満たすために得ること、かき集めることであるのに対して、施しは与えることです。隣人愛と言ってもいいでしょう。心の変革を求めました。そうすれば、その人にとって、すべてがきよくなるとは、彼らが固守していた儀式的な汚れに縛られる必要がなくなるという意味のようです(テトス1:15参照)。内面が新しくされるのは、キリストを信じて、聖霊が与えられることによります。そのとき、彼らは文字にではなく、御霊に仕える者になるからでしょうか。

続けてイエス様は、名医のように、悪いところを除去する時は徹底的に除去なさいます。42-44節で「わざわいだ」を三回もたたみかけるように言って、彼らの偽善を糾弾しました。ミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一云々は、庭に生えている薬味か薬草のような、細かなものに至るまで十分の一を捧げていると言って、彼らが自慢していたこと。神は収入・収穫の十分の一をささげなさいと命じておられたので、彼らはそこまで厳格にしていることを自慢していましたが、神がもっとも好まれるささげもの、すなわち正義と神への愛という、霊のささげものにはまったく無頓着でした。43節の会堂の上席は、特別席みたいなもの。ここには、長老や、訪問してきた祭司、レビ人、またラビが着席したそうです。要するに、彼らは人からあがめられたい。何をしに礼拝に行っているのか。広場で挨拶されることが好きだというのも、同じです。そして44節では、人目につかぬ墓と言われます。外から見た限りではわからないが、その下には汚れた死体が埋もれている。墓は汚れたものとされていて、パリサイ人たちは、墓の汚れに触れないようにと細心の注意を払っていましたが、実はそんな彼ら自身が、その忌まわしい墓そのものだと、痛烈でした。

誤解なきよう。イエス様は、私たちの内側が完全できよくなければダメだ、と仰っているのではないのです。そういうものでいっぱいなのは、罪人だから仕方ないのですが、問題なのは、その事実にまったく気づかず、まるで自分がきよくて、そのまま神に通用する者であるかのように思い込んでいたことです。そんなふうに思えたのは、やはり、心の中まで見ておられる、生きておられる主を恐れることがなかったから。主を侮っていたから。そこに、イエス様は気づいてほしかったのだと思います。自分の罪深さに気づくこと、それが救いの入り口、神の真実なご愛を知る始まりなのですから。

<② 律法の専門家:罪を認めず、預言者を迫害する人々(45-52節)>

当時、膨大な戒めがありましたが、その専門家です。彼らもまた、当時の、自他共に認めるエリートであり、専門家としてのプライドに凝り固まっていたようです。で、イエス様の言葉を脇で聞いて、彼ら律法の専門家はどう思ったか…。「侮辱」と取りました(45節)。せっかく、イエス様が彼らの闇に光を当ててくださったのに、「それは侮辱だ!」と怒った。罪を指摘するのは、イエス様の、罪人に対する愛から出ていることなのに、それを侮辱としか取れない律法の専門家。鏡よ、鏡よ、鏡さん、これはいったいだーれ?です。

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与える方です。こういう態度でいる彼らにも、先のパリサイ人に続いて、「わざわいだ」を三回も繰り返して、彼らを非難します。ありがたいことに。46節「人々には負いきれない荷物を負わせるが」当時のたくさんあった戒めのこともでしょうが、それを別としても、本来の律法そのものの教え方について言っているように思います。つまり、ただひたすら、律法を守ることを命じる。それができない者は罪人だと断罪する。赦しとか、恵みとか、そういうことは言わない。「自分はその荷物に指一本触れようとはしない」とは、人々が戒めを守れるように助けるということでしょうが、赦しとか恵みとかがあるからこそ、私たちは力を得て、励ましを得て、主のみこころに従おうと立ち上がることができる。なのに、それなしに、ただこうしろ、ああしろ、と命令を与えるだけ…。

47-51節。昔、彼らの先祖たちが迫害して、殉教した預言者のために墓を建てることが流行ったと言います。殉教した預言者を偲んで立派な墓を建てるのは、いかにも敬虔な信仰者の善行のようです。先祖たちは預言者を殺したが、自分は預言者を敬って、丁重に墓を建てている。自分は先祖とは違うというアピールだったのでしょう。実際、その墓の前で、彼らは何と言っていたか。「自分たちだったら、あんなことをしなかったのに」(マタイ23:30)。自分は違う。自分は神を敬う信仰者だ。あんな罪びとではない…とうぬぼれていた律法の専門家たち。預言者たちを殺したのは、まさに、そういう人たちでした。自分を義として、悔い改める気のない者たち。自分の心のうちを謙虚に、率直に、顧みることなく、罪や都合の悪いことには目をつぶって、自分は正しいと言い張る人たち。神から遣わされた預言者たちは、そういう人々の罪を責めました。それで彼らは腹を立てて、殺したのです。そしてその自分を正しいとする態度、悔い改めを拒むその先祖たちの態度は、この時代の律法の専門家たちにもしっかりと受け継がれていたのです。彼らの、その預言者の墓を建てて悦に入っているというその行為が、まさしく彼らが先祖たちの子孫であり、先祖と同じ思いを持っている者であることを証ししていたのでした。実際、彼らはこのあと、イエス様に激しい敵意を抱き(53節)、最後は十字架につけます。さらにそのあと、福音を宣べ伝える使徒たちを迫害しました。私たちも、こういう箇所を読んで、自分はこの律法の専門家とは違うなどと思ったとしたら、危ないかも知れません。

51節「アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまで」とは、聖書に出てくる最初の殉教者から、最後の殉教者に至るまで」ということです。それら、すべての殉教者に対して、世の人々が行ったその血の責任を、この時代が問われるといいました。何のことか。紀元70年、将軍ティトス率いるローマ軍によりエルサレムが完膚なきまでに破壊されたことでしょうか。あるいはイエス様が十字架にかけられて、その罪に対するさばきを受けたことでしょうか。神は、これまでは人々の罪を見逃してこられたが、これ以上、見逃さないと(参考ローマ3:25-26)。

最後に52節「知識のかぎ」とは、救いの知識の鍵のこと。それは、人はただキリストによる罪の赦しによって、救われるということです。彼らのように、自分の行いを積み上げて救いに至ろうとするのでなく、ただキリストによる罪の赦しによって救いを得るという、これが救いの知識の鍵です。しかし彼らは、その神のみこころを拒みました(7:30)。悔い改めることを拒んだ。それで自分も救いに入らず、入ろうとする民衆にも、その正しい救いの知識を教えずに、救いに入るのを妨げたのです。

このあと、パリサイ人、律法学者たちは、イエス様に対する激しい敵意を抱き、イエス様の言葉尻をとらえようと、しつこく質問攻めをしたそうです。これが一番、悪いこと、罪深いことでした。罪を指摘されたその時は、つい反射的にカチンときてしまったとしても、その後、冷静になって、へりくだって、思い直すならよかった。しかし彼らは逆に、ますます憎しみに凝り固まっていきました。悔い改める気がない。プライドだか意地だか、そんなもので救いの道を自ら閉ざしていたのです。認めたら負けと思っていたのかもしれません。

「 主によりて 贖わる わが身の幸は みな主にあり 」新聖歌 232番

「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)とイエス様は一般の群衆に言われました。パリサイ人の義にまさる義?彼らは週に二度断食していたと言いますから、三度することでしょうか?パリサイ人ならそう考えるでしょう。しかしそうではなく、罪を認める、弱さを認める、それがパリサイ人にまさる義です。それこそ神を恐れる、真実で、正しい心です。私たちは今、福音を信じていますから、ただキリストによって、完全に神に受け入れられています。ですから、安心して罪を認めることができます。だから真実な悔い改めをすることができます。救いが保証されているので、ああだこうだと言い訳し、自分を正当化しようとする必要がありません。ただキリストにのみ、望みを置いて、何度でも悔い改め、霊のリハビリをしながら、従う歩みができます。その素直な、やわらかい心を大切にしましょう。