箴言29:25に「人を恐れると罠にかかる」というみことばがあります。人を恐れて、あとから、あんなことしなければ良かった、と後悔したことはないでしょうか。また、人を恐れて、本心を偽るのはイヤなものですし、ましてやそれが、信仰の良心を守れなかったとなれば、なおさらです。このときの弟子たちは、その危険に備える必要があったようです。
1節「数えきれないほどの群衆が集まって来て」群衆のあまりの多さに、弟子たちは恐れを感じたのでしょうか。これを見てイエス様は、「まず弟子たちに」話されました。その内容は「偽善」に陥るな、でした。1節の最後「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。」パリサイ人は、人々の前で、とても信仰深い者であるかのような演技をしていました。パン種はイースト菌のことで、それは周りを変質させ、全体を膨らませます。偽善も、最初は小さく始まっても、のちには全体を変質させてしまうということでしょうか。ところで、ここで「偽善」と訳された言葉は、原語でヒュポクリシスで、元々「役を演じる」、「演技する」の意。で、弟子たちも、人が集まってくるとパリサイ人のようになる危険があったのでしょう。と同時に、ここでは群衆を恐れて、本心を偽った行動を取ってしまうことへの戒めのようです。のちにペテロが、本当は自分たちユダヤ人も、異邦人と一緒に食事をしてよいと信じていたのに、ある人たちが来ると、その人たちを恐れて、異邦人との交わりから身を引いたことがありました。そのペテロの態度を責めるときに、パウロはこの同じ言葉を使っています。そこでは「本心を偽った行動を取り」と訳されています(ガラテヤ2:13)。本心・確信を偽って振る舞っている=演技している。ですから、日本語の「偽善」とちょっとニュアンスが違うかもしれません。特にここでは、やがてキリスト教に対する迫害が来ることを念頭に、そんな状況の中でも弟子たちが人を恐れず、本心を偽らないで、信仰をまっとうできるようにと、イエス様はここで、5つのアドバイスを下さいました。
第一は、真理はどのみち、やがて明らかになるのだから、最初から真理を語りなさいということ。3節の、暗闇でコソコソ言ったことが明るみで聞かれるとか、家の奥まった部屋でひそかに耳元で語ったことが屋上で言い広められるというと、陰口とか、何か悪いことを言っても、みな明らかになると取られがちと思いますが、このあとの文脈、それに並行箇所のマタイ10:27に照らすと、ここは、福音の真理が、やがて明らかになるという意味のようです。マタイの方では、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい」と、より趣旨が明確になっています。真理はいつまでも隠されたままではいない。必ず明らかになる。そういう定め、神の定めなのです。だから恐れずに、福音の真理を語りなさい、と。
二つめ。私たちが恐れるべきは人間ではなくて、神だということです。ここで「わたしの友であるあなたがたに」とあります。イエス様の友。良いときだけ寄ってきて、風向きが悪くなったら、サッといなくなる人。そういうのは友ではない。苦難を共にするのが真の友でしょう。イエス様は、弟子たちをご自分の友と呼んで、これから彼らに降りかかるであろう迫害を包み隠さず、語られました。「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。」キリスト教の歴史は殉教の歴史であり、現代も国によってはそのような状況にあります。日本でも豊臣秀吉によって殉教させられた26聖人がいます。彼らはただ単に自分の信念のために死んだのではありません。明確に来世の希望を持っていました。神とともに永遠に生きる栄光に輝く天の御国を仰ぎ見て、一心に見つめて、天に凱旋したのです。死んだら終わり、その後は何もない、と思ったら大間違い。歴史の最後にいわゆる「最後の審判」がある。5節「ゲヘナ」は、消えない火で燃えさかる地獄のこと。だから、そのゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方、すなわち神をこそ、恐れなさいというのです。それもイエス様はこのことを強調して、繰り返しています。「そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」と。私たちは、恐れなければならない方を恐れずに、恐れるべきでない相手を恐れてしまうサカサマをやっていることはないでしょうか。地獄と言うと、眉をひそめる向きもあるかもしれませんが、人間にはこういう教えが必要ではないかと思いますね。一定程度、悪を抑制する効果があると言いますか。
恐れると言っても、いつもビクビク・オドオドしていなければならないというのではなくて、神は私たちを愛しておられるのですから、基本は愛されていることを喜び、感謝をもって生活します。それが信仰生活のベースです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5:16-18)ただ、同時に、良い意味での、健全な恐れというものも失わないように。実際には、この神への恐れというのは、私たちが悪い方向に行きそうなときに、意識するべきものだと思います。そういうときに、悪に向かうのを思いとどまらせる効果がある。そういう意味で、人の見ていないところでも、また逆に、人の前でも、主への恐れを持っていたいものです。
三つ目。今言ったように、最も恐ろしいのはゲヘナ行きですが、そうは言っても、やっぱり迫害はイヤです。やっぱり、危険が迫ると恐ろしくなるもの。でも、実は、私たちの生き死にに関しても、完全に神の御手の中にある。だから、恐れるな、と言われます。1アサリオンは2~300円としておきましょう。雀は可食部が少ないからか、五羽とかまとめて売られたそうです。ちなみに現代では、ベトナム産の冷凍ものが24羽で4440円で売ってました。1羽185円、5羽で925円。そんなに安くない。イエス様の時代は安かった。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられていない。神は造り主として、雀の一羽さえも慈しんで御心をとめ、日々養い、命を支えておられる。あんな雀一羽も、生きているのも死ぬのも、決して偶然ではなく、神のみこころによる。
それどころか、あなたがたの髪の毛の数まで数えられていると言います。普通は、数えることもできないし、数えようとも思わない。どうでもいいことです。でも、そんなことまで、神は、私たちに関わるすべてのことを把握しておられる。親が、幼いわが子のことは、子ども自身以上にわかるように、神は私たちを愛しておられて、私たち自身以上に私たちのすべてをご存じ。ただすべてを知っているだけでなく、多くの雀よりも尊い者として覚えられている。だから、偶然とか、神のあずかり知らないところで、間違って命を落とすことは決してない。もし殉教するとしても、それは神がよしとされてのこと。だから、恐れるなと。
4番目。ここも最後の審判の光景でしょう。その時には、神の御使いたちが取り囲む中で、判決が言い渡されるのでしょう。その時、人の前でイエス様を認めた者は、イエス様にも認めて頂けます。しかし、人の前でイエス様のことを知らないと言った者は、その時に、その大勢の御使いたちが見詰める中、イエス様から、知らないと言われるというのです。今は日本は信教の自由がありますが、先の戦時中には、牧師が捕らえられて、「天皇とキリストとどっちが上か」などと詰められたと言います。時代が時代なら、そういうこともある。そういうときに、キリストは万物の上におられる神の御子であり、天皇は人である、と言える備えをしておきたいものです。しかし、ペテロがそうだったように、肉の力で奮い立っても、イザとなると、腰抜けになってしまう、自分でも気づかない弱さ、もろさというものが、私たちのうちにはあるのかもしれません。ですから、最後5番目に、最も必要なこととして、イエス様は、聖霊に信頼しなさいと教えられました。
キリストを信じた者のところには、聖霊なる神が来て、住んで下さいます。ここは、その、私たちの内で働かれる聖霊に信頼しなさいと強く命じているところです。10節は、イエス様ご自身を悪く言うことと、聖霊を冒瀆することと対比させることによって、決して聖霊を軽んじることのないように強調しているように思われます。
ここの聖霊を冒瀆するとは、具体的にどういう事か?それが11-12節からわかります。これは、のちに弟子たちが直面する迫害の状況。祭司長やローマ総督など権威者の前に立たされて、イエス様への信仰を問われる、そういう状況です。そういう時には、聖霊も特別に力強く臨み、語るべき事を教えるのでしょう。実際、ペテロやパウロは当局者に捕らえられ、裁判の席に連行されましたが、そのたびに聖霊によって言葉を与えられ、敵が地団駄を踏まされたことが、使徒の働きに記録されています。ですから、そういう信仰が試される状況では、聖霊が強く臨み、イエス様を告白するよう促し、力を与え、イエス様を適切にあかしする言葉も与えて下さる。それはあなたがた自身の強さとか力とか知恵というのではなく、聖霊から来る力です。だから、恐れずに聖霊に信頼しなさいというのが、このところの趣旨と思われます。その聖霊を軽んじ、まるで、あてにならないかのように、信頼しないことは、確かに聖霊に対する冒瀆です。また、非常事態に際して、聖霊が明らかに臨み、助けているのに、それをあえて不信仰に凝り固まり、頑なになって、自分の意志であくまでも聖霊を拒み続けるなら、赦されない。聖霊の迫りには、素直に従うべきです。
でも、ペテロはイエス様を否んだではないか、だけども後に赦されたではないか、と一瞬思いますが、よく考えてみると、ペテロがイエス様を否んだのは、ペンテコステの前、聖霊を受ける前です。聖霊を受ける前だから、聖霊に逆らったのではなくて、ただ自分の弱さのゆえに、主を否んでしまった。それは赦される。しかしのちに、ペテンコステの時に聖霊を受けてからは、ペテロは主を否みませんでした。大祭司や祭司たちが取り囲む中、聖霊に満たされたペテロは大胆に、恐れることなく、イエスこそ主である、この主をあなた方は十字架につけて殺したのだ、と言い放ちました。ですから、これは、ペテロ自身の力ではないのです。ペテロも私たちと同じ、弱い人間です。聖霊に満たされたから、できたのです。ペテロの力ではなくて聖霊の力なのです。聖霊に信頼しましょう。
最後に覚えたいのは、7節「あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。」のところ。私たちは神にとって価値のある者。この上なく価値のある者です。神は私たちを愛しておられるからです。私たちがどんな時でもイエス様を主と告白するのに、最も強い動機づけとなるのは、私たちが神の愛を知ることです。神がどれほど深く広い愛を私たちに注いでおられるか。全宇宙を造られた全能の神であられるお方が、これ以上ない、最高の、最大限の、至上の愛をもって、私たちを愛して下さった。そのことのあかしが、イエス・キリストです。神にとってこの上なく尊い最愛の独り子を、私たちを滅びから救うために与えて下さった。御子もまた、私たちを愛して、自ら進んで、私たちの罪を背負って身代わりに十字架にかかって下さった。そして三日目に、死者の中からの初穂として、復活されました。キリストを信じる者がみな、永遠のいのちにあずかり、神とともに住む、栄光の天の御国を受け継ぐためです。その神の愛を改めて心に刻みましょう。ローマ8:38-39。