礼拝説教要旨 2025年7月13日

明かりをともして

ルカの福音書11:29-36

<はじめに>

悪霊につかれて苦しんでいた人から、イエス様が悪霊を追い出した。群衆は素直に喜び、驚いた。ところが、ねたみに駆られて、それに難癖をつけた人々がいた。難癖は二つあって、一つは前回見ました。今回はもう一つの方、16節「また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した。」に対するイエス様の答えです。悪霊追い出しだの何だのと、キリストでなくてもできそうなことでなく、もっとハッキリしたしるし、昔の偉大な預言者エリヤがやったみたいに、天から火を呼び下すとか、あるいはモーセのように、天からパンを降らせるとか、そういうのを見せてみろ、というのです。もちろん、イエス様がその気になれば、いくらでもおできになりますが、そんな安い挑発に乗るようなイエス様ではありません。群衆がますます集まってくる中、イエス様は彼らにも向けて、本当に必要な事、真に求めるべき事を間違えてはいけない、と教えられました。結論を言えば、それは福音です。そしてせっかく福音に目が開かれた者は、その救いの光を隠してはいけない。むしろますます福音の光に照らされて、光を放つ者となりなさい、と言われました。自分の力で、自分が輝くというより、上から与えられる福音の光が、私たちの内で輝くということです。それは聖霊によることですから、ここも聖霊を求めなさいという、これまでの流れを受けてのことになります。

<① なぜ、ヨナのしるしだけは別なのか(29-30節)>

この時代は悪い時代で、しるしを求めると主は言われました。本当に大切なことが分かっていないから、どうでもいいことに血眼になり、熱を上げる。そんな彼らの空虚な求めを満たすようなしるしは与えられない、ただヨナのしるしは別とイエス様は言われました。ヨナのしるしとは、旧約聖書に出て来る預言者ヨナが、大きな魚に飲まれてその腹の中に三日三晩閉じ込められ、その後、吐き出されたことを指しています。それは、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死んで下さって、よみに下り、その暗やみに三日間おられて、その後、復活されたことを指します(マタイ12:40)。しるしというなら、このキリストの十字架と復活。これです。これ以外に大切な、必要なしるしはありません。

彼らが本当に生きておられる主を恐れて、旧約聖書に教えられていたなら、自分の罪を自覚するはずでした。そして罪の結果は、神の御怒りであり、滅びであることを、真剣に受け止めるはずでした。神を侮っているから、それがわからない。認めようとしない。そして、恵み深くあわれみ豊かな神は、そんな彼らのために救済措置も用意しておられる。そのことも旧約聖書に繰り返し教えられていました。モーセの律法を通しても、預言者を通しても。もし彼らが本当に自分がいかに悲惨な状態かを知り、神が備えておられる救いを切に待ち望んでいるなら、彼らが求めるのは、彼らの罪のためにほふられる神の小羊だったでしょう。キリストの十字架と復活という福音、この救いの知識こそが、彼らにとって、また私たちにとって、どうしてもなくてはならないものです。悪い時代とは、神を侮る時代です。神などいない、神の裁きなどないとうそぶいて、そんなむなしい集団催眠に眠りこけようとする時代。良心が麻痺し、生きておられる神への恐れもないので、その聖書の本筋、神のみこころの中心である罪からの救いにも無頓着。私たちはどうでしょうか?

<② 求めるべきものを求めた人々(31-32節)>

31節「南の女王」はシェバの女王(第一列王記10章)。アラビア半島にあった国と言われます。彼女は知者の誉れ高いソロモン王に、その知恵を求めてはるばるやって来た。しかしここに、ソロモンの知恵よりはるかにすぐれている神の知恵がある。それなのに、あなたがたはその知恵を求めず、しるしなんかを求めている。だから、彼女の存在が、彼らの邪悪さを裁くことになるだろうというのです。これはもちろん、シェバの女王が裁判官の席についてさばくという意味でなく、裁きのときに、彼女の存在が、彼らの悪を立証するものとなるということです。彼女は、か弱い女性でありながら、知恵を求めて労をいとわず、はるばるとやってきたというのに、あなたがたは…と。ソロモンの知恵がどんなものであったか、詳しくはわかりませんが、彼女は「公正と正義」について聞き、感動したようです(第一列王10:9)。そしてソロモンが残したと言われる箴言には、その公正と正義が人々の間で確立されるために、「主を恐れること」を教えています。主を恐れることは知恵のはじめとは、有名な箴言のみことばです。これは主を侮ることの反対です。私たちも正しい意味で、主を恐れる心を失わないようにと肝に銘じる必要があるでしょう。

32節は、先ほども出てきたヨナにまつわること。当時のニネベ(アッシリヤ帝国の首都)は、言葉にするのもはばかられるような、私たちには考えられないほど残虐だったと言います。神を恐れるとか、良心とか、一ミリもない、残虐を喜ぶ人々。そんなところにあるとき、ヨナは預言者として遣わされました。ヨナはそんなところに行きたくありませんでした。神が彼を遣わすと言うことは、悔い改めを宣べ伝えるということ。そしてもし彼らが悔い改めたら、赦すということです。しかしヨナは、あんなやつらは神に裁かれて永遠に地獄の炎で焼かれ、苦しめばいいと思っていました。ですが神に遣わされたので(一度はイヤで逃げましたが)、行かざるを得ません。彼はおそらくヤケクソ気味に「あと40日したら、ニネベは滅ぼされる」と神の裁きを叫んで回りました。神の愛とか、恵み深さとか、赦しとかいっさい語らず、ただ裁きの宣告だけを触れ回った。そしたら何と、彼らは王からしもべに至るまで、荒布をまとい、断食して、一生懸命、悔い改めたのです。もしかしたら神は私たちをご覧になってあわれみ、私たちは滅びないで済むかもしれない、と。神はあなたを愛しておられますよ、などと耳ざわりのいいことは一言も言わない。ただ神の裁きを告げるだけの説教。もちろん奇跡も一つもなし。それでも彼らは心を刺され、神の裁きを恐れて、一生懸命、悔い改めた。とすれば、今、ヨナにまさるキリストの語られるみことばがあるのに、キリストのみことばを求めるのでなく、しるしを要求するばかりのあなたがたは、神の裁きを免れない、というのです。彼らに決定的に欠けていたのは、自らが罪びとであるという認識、それゆえ、神の裁きによって、滅びるべき者だという自覚です。それは彼らが神を侮っているから。神の裁きを恐れる心がないからです。

私たちも神の裁きがあることをキッチリと現実の事として認識する必要があります。そこがボンヤリしていると、キリストの十字架による救いもボンヤリして、感謝も感動もない。キリストが十字架にかかって下さったのは、単なる私たちの気休めのためではありません。想像してみてください。キリストは、事実、現実にある永遠の滅びから、御怒りから私たちを救い出して、神とともにある永遠のいのちに入れて下さいました。これをリアルに思えば思うほど、言葉に尽くせないほどありがたいと思うでしょう。キリストがいくら驚天動地のしるしをしたとしても、もし、私たちのために十字架にかかり、復活して下さらなければ、私たちは永遠に燃える業火の中で苦しみ続けなければなりませんでした。

私たちは、ヨナの説教にまさるキリストのみことばが与えられています。ただ裁きを告げるだけでなく、神の愛、慈しみ、恵み深さを教えられています。罪びとが悔い改めて、救われることを喜んで下さる父の愛を知っています。悔い改めて信じるなら、神の子どもとされ、永遠のいのちにあずかり、栄光の御国を受け継がせて頂けるという、目もくらむような約束まで頂いています。すべてが恵み、すべてがキリストのしてくださったことのおかげでで、です。私たちが信じるこの福音こそが、神が私たちに灯して下さった明かりです。

<③ 明かりをともし続ける(33-36節)>

ろうそくに明かりをともして、わざわざ升の下に隠すことはしない。周りを照らすように燭台の上に置く。当たり前すぎるほど当たり前の事です。だから、私たちにもそうしなさいと主は言われます。何のことか。34節以下、今度は目とからだのたとえで、「からだの明かりは目」と。ここの「目」は、霊的な目、霊的視力のこと。福音がハッキリとわかることです。その福音の光が、私たちの心を照らして明るくしてくれる。これは、天窓をイメージするとわかりやすいでしょうか。天窓とは、おもに採光のために作られる天井にある窓です。そこから光が差し込むと、部屋の中は明るくなります。それをカーテンで覆ったり、汚れがひどくなると、光が部屋の中に届かず、暗くなるでしょう。だからあなたがたの心の天窓をいつもクリアにしておきなさいというのです。この世の欲や思い煩いによって、曇らされていると、天からの光が届かず、くらがりになり、闇の中を生活するようになりますよ、と。それに対して、十分に福音の光を取り込んで、その光に照らされているなら、あたかも、からだが明かりに照らされているときのように、全身が光に満ちたものとなるというのです。ホタルのように、自分の力で発光するのではありません。上から、天から光を取り込んで、その福音の光が輝くのです。光は無色透明のように見えますが、プリズムを通すといろんな色に分かれるように、この福音の光にもいろんな色の光が混然一体となっているのでしょう。神のきよらかな光。それでいて慈しみに富み、主を慕う者にはどこまでも尽きないあわれみの光。そして永遠のいのちの希望の光。さらに栄光に満ちた永遠の御国の光。それらを信仰を働かせてリアルなものとして認識すればするほど、それは私たちの心を照らし、明るくしてくれるのだと思います。エペソ1:17-18、新約p.385。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(知ることができますように)
「 光に歩めよ 」新聖歌 335番

明かりをともすのは神です。私たちに聖霊を与え、福音が分かるようにし、天からの光で私たちの心を照らしてくださったのは神。それは、私たちにともされた福音の光を輝かせて周りを照らすためです。それは時所構わず、福音を語れということではありません。老使徒ペテロは、味のある勧めを言ってくれました。第一ペテロ 3:15、新約p. 469。

むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には」。ということは、口で言わなくても、周りから見て、何か希望を持っていることがわかる、そういう生き方をしていたということです。文脈を見ると、これは迫害でしょうか、人々から悪を受けても悪をもって返さず、かえって祝福し、善に熱心であるように、という勧めに続いて記されています。やられたらやり返す。倍返しにしてやり返すのが世のやり方だとしても、それに流されないで、あなたがたはすべてをご覧になり、すべてをご存じで、すべてのことに御国で報いてくださる方を信じているのだから、その希望によってその生き方を保ち、忍耐をもって続けなさい、というのです。私たちクリスチャンの究極の望みは、神が世のはじめから用意しておられた、永遠の祝福に満ちた栄光の御国を受け継ぐことです。これが、すべてのクリスチャンが掲げるべき共通の一つの望みです(エペソ4:4、新約p.388)。この希望を生きる力とし、生き方を強く指導する希望となっていたかな?と問われます。もし、そうなっていなかったら、悔い改めましょう。聖霊の目薬をさして頂いて、福音の視界良好。霊の目をこの世のあれやこれやで曇らされずに、栄光の御国の希望の光に照らされ、この光をたくさん取り込んで、御国の希望をもつ者にふさわしい歩みをと願います。