礼拝説教要旨 2025年7月6日

幸いなのは、みことばを聞いて、守る人

ルカの福音書11:14-28

<はじめに:ここまでの流れ>

この15章は主の祈りから始まっていました(1—4節)。そして主の祈りの中心は「御国が来ますように」ということです(参考マタイ6:30)。御国とは神の国のことで、これは神のご支配を願う祈りになります。支配と言っても暴君のように力づくで、というのではなく、神のご愛、ご真実に触れて、感動し、一人ひとりが心から自ら進んで従う、そのような支配です。それを可能にするのは福音にあらわされた神のご愛です。王の王であられるお方が、私たちのために自ら進んで十字架にかかってくださったという、そのような王ですから、私たちもそのお方を心から信頼し、自ら進んで従いたいと思うのです。またその神のご支配の内容も、十戒にあらわされたようなことであり、私たちが神を愛し、お互いに隣人を愛するという二つに集約されるものです。人が神の賜物を喜び、神を喜び、神に信頼して心から従い、人々の間では愛と正義が支配して、争いや悪や悲惨が一つもない。平和で喜びに満ち、きよらかな神のご支配です。そんなところが本当に用意されているとは!とそのことを知るだけでも、喜びがわいてきます。それは本来、神がこの世界をお造りになったゴールでもあります。神は必ず最後にはそのことを実現されます。そして、神が設定しておられるその神の国の成就というゴールに私たちの願いを合わせるときに、私たちも本来のポジションにいることになります。それはまた、私たちが生かされている目的、存在する意義を自覚して生きるということです。神がこの世界を造られたゴールに私たちも心を合わせて向かっているのですから。神と心を合わせての共同作業に、私たちは召されているのです。

その神の国は、人間的な力で作り上げるものではなく、聖霊によってのみ、はじめて与えられるものです。なので、続く5-13節では、聖霊を求めなさい、切実に求め続けなさいと続きました。聖霊なくして、神の国なし。完全な神の国は世の終わりに実現するものですが、キリストを信じた者たちは、ある程度は神の国の前味を味わうことができる者とされています。キリストを信じて罪赦され、神に受け入れられて、聖霊を与えられているからです。聖霊とともに神の国が私たちのうちで始まっています。そして私たちは、さらに聖霊に満たされることを求めて、さらに神の国の豊かさを味わい、知るようにと召されています。とはいえ、もちろん完全な人はいません。教会というと、聖人君子の集まりみたいに、近寄りがたく感じる方がときどきおられますが、教会は霊的なリハビリセンターみたいなもので、罪びとが聖霊とみことばによってキリストの似姿へと回復していく途上の者たちの集まりです。みなリハビリ中です。失敗したり、転んだりしながらも、さばきあうのでなく、お互いに励まし合い、赦しあい、祈りあいながら、少しでも完成を目指して前に進んでいくところです。一人ひとりのキリストの似姿の回復が、全体としては神の国の回復となります。それは聖霊の働きです。

長くなりましたが、そのような流れを受けて、今日の所は神の国がどのように広がっていくかついて学んでみたいと思います。

<① サタンの国を打ちこわすために来たキリスト(14-23節)>

今日の場面。事の発端は、イエス様が、口をきけなくする悪霊につかれた人から、その悪霊を追い出して、その人が口がきけるようになった。それを見た群衆が驚いて、ますますイエス様に人々がなびいていきそうなのを見て、ねたみにかられたある者たちが、「あれは悪霊どものかしらによって追い出しているのだ。あやつは、神から遣わされた方ではない。悪霊使いだ」と難癖をつけたことでした。15節「ベルゼブル」は「家の主人」の意で、当時、悪霊どものかしらを指していたようです。ちなみに16節には別の人がイエス様に天からのしるしを求めたとありますが、それに対する答えは次回29節以下に記されています。

彼らの難癖に対するイエス様の答えは、まずは一般的な真理に基づくものでした。どんな国でも家でも仲間割れしたら、立ち行かない。たとえば、ヤクザの組でさえ、仲間割れしたら分裂か、なくなるかでしょう。組織である以上、どんな悪い者の組織であっても、仲間割れしたら続かないのは自明の理。だから、ベルゼブルによって悪霊を追い出すなどと、サタンの国の中で仲間割れしていたら、サタンの国でさえも立ち行かない、と。次に19節は、そう屁理屈をつけて来る彼らの仲間にも、実は、悪霊追い出しをしている者がいました。だから、イエス様に向けたその屁理屈は、彼らの仲間にも向けられることになり、それこそ仲間割れになってしまいます。

そして20節以下、イエス様が彼らの偽りに代えて、真理を教えられます。これは悪霊のかしらによるのではなく、聖霊によるわざなのだ、と。20節「神の指」は聖霊の事です(マタイ12:28)。聖霊によって悪霊を追い出しているなら、神の国があなたがたのところに、すでに来ているのです、と!聖霊の到来が神の国の到来。聖霊が来られたところから神の支配の始まります。神の国・神の支配は聖霊の到来とともに始まるのです。ですから、繰り返しになりますが、キリストを信じた者はすでに聖霊を頂いていますから、その人の内で神の国・神の支配が始まっています。パン種のたとえや、からし種のたとえのように、それは信じる者のうちで広がって、大きくなっていくのです。

21-22節は、ちょっと不思議な感じがするたとえです。まず、自分の家にドーンと構えている強い者がサタン。その財産とは、サタンに捕えられている人々の事。彼らは、力の強いサタンに支配され、苦しめられ、滅びに向っていますが、逃れることができません。しかしそこに、サタンよりはるかに強い方が乗り込んできて、サタンに打ち勝つと、サタンが頼みにしていた武具を奪い、分捕り品=捕らわれていた人々を取り返します。サタンよりはるかに強い方とはキリストです。

ここのサタンが頼みにしていた武具とは、罪と死でしょうか。サタンは人の罪を責め、苦しめます。また死によって人々を恐怖の奴隷とします。サタンは罪と死によって人を支配しています。しかし、イエス様はそれらに対して、完全に勝利されました。私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちにまったき罪の赦しを与えてくださったのですから!サタンの放つ火矢はすべて、イエス様の十字架の盾によってはじかれ、むなしく地に落ちるのみです。また、イエス様は私たちの初穂として、死者の中から復活されました。キリストを信じる者も、後に続いて栄光のからだに復活します。こうしてイエス様は、サタンの武具を無効にされました。第一ヨハネ3:8(第三版)

神の子(イエス・キリスト)が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

キリストは、サタンの王国を打ち壊すために来られました。サタンの家の家長ベルゼブルに勝って、捕えられていた人々を神のもとへと取り返すために。23節はそのことを言っています。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。」教会は、捕らわれ人を取り戻すために来られたイエス様の味方として、イエス様とともに、サタンに捕らわれている魂を福音によって神のもとへと集める者です。

<② 心に主をお迎えする(24-26節)>

さて、聖霊によって悪霊を追い出してもらった人のその後です。追い出された汚れた霊はしばらくその辺をウロウロしていたが、次に入り込む人が見つからないのでしょうか、休む所が見つからないので、元いたところに戻ろうと言い出す。帰ってみると、家は掃除されてキチンと片付いている。すると、その悪霊は自分よりも悪い7つの霊を連れ込んで、その人に住み着く。そうしたら、その人の状態は、最初よりももっと悪い状態になる…。昔、修行僧が山にこもって何日間か、禁酒禁欲の修行をすると、そのあと、下山するや、それまでの反動か、ふもとの遊郭などで乱れに乱れると言います。そんなことと似ているのでしょうか。だから、悪霊を追い出してもらった後、ちゃんとキリストを心にお迎えして、キリストに自分の心に住んでいていただく必要があるということです。そうすれば、悪霊など入れないし、近づくこともできない。私たちも心に隙を作らないように。悪霊に限らず、悪い思いが居座ることのないように、キリストをわが主として心にお迎えし、住んで頂きましょう。また、キリストのことばを住まわせましょう。コロサイ3:16

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

<③ 神のことばを(27-28節)>

ここまでイエス様が話されたときに、一人の女性が突然、叫びました。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」イエス様のような子を持った母親の幸いを言いたかったのでしょうか。しかし、イエス様は「いや」と言われます。そして「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と言われました。この世で華々しい活躍をしたとか、お金をもうけたとか、スターになったとか、そういうことが幸いなのではない。死んだ後、地獄に行ったら、何が幸いでしょう。真の幸いは何か。どこにあるか。それは、神のことばを聞いてそれを守ることとイエス様は教えました。

最初に主の祈りの中心は御国を求める願いと言いました。私たちが神のことばを守っているとき、その願いがかなえられているということです。神の国に生きているということです。それは、神が本来、定めておられた目的・ゴールに沿って歩んでいるということです。それは天国に通じる道を歩んでいるということです。そしてそれは、聖霊によって与えられている恵みです。

聖霊によって、悪霊を追い出すこともあるでしょう。しかしそれも何のためかと言えば、その人が神のもとに立ち返り、神のみことばを行う者となるためです。いわば、神の国の住人となるための大掃除です。大切なのは神のことばを行うこと。それがなければ、どれほど華々しい悪霊追い出しのわざをしても意味がありません。マタイ7:21-23

わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」

父のみこころを行う者が天の御国に入る。だから、神のことばを聞いて、守る者が幸い。そのために聖霊を求めなさい。

「 御言葉なる 光のうち 主と共に歩まば 」新聖歌 316番

幸いなのは、神のことばを聞いて守る人。聖書には、実際的、具体的な勧めや命令がたくさんあります。それらを実際に、具体的に、行うとき、そこに込められている神の知恵を体験するでしょう。神がみことばによって自分を導いておられること、育てて下さっていることを知るでしょう。みことばによって守られたという経験もするでしょう。そして、それらを通して、神を身近に感じるようになるでしょう。もちろん、神のことばを守るというときに、ただ○○してはいけない、△△しなさい、という戒律を守ることではありません。最も大切な戒めは神を愛し、隣人を愛すること。この精神が根底に流れてこそ、神の国の醍醐味を味わうことができるのでしょう。この後の聖餐式に、聖霊が豊かに臨んでくださって、福音の内にあらわれている神とキリストの御愛をますます知ることができますように。