ウェルカム礼拝説教 2025年6月29日

わたしの平安を

ヨハネの福音書14:27

< はじめに >

昔、何かの本で「人間は心配する動物だ」とあるのを読みました。人はどうしても、先のことを考えてしまうので、状況によっては心配事が心から離れないということもあるかもしれません。みなさんはどうでしょう?また、そういう時は、どうしたらいいのでしょう?

今日は、イエス・キリストが「わたしの平安を与えます」と言われたことばについてお話させて頂きたいと思います。イエス様が与える平安とは、どんな平安なのでしょう。世が与えるのとは違う平安とありましたが、どういうふうに違うのでしょう。それを見る前に、どうして人は平安を失った状態になったのか、聖書からその原因を見、次にその解決法に進み、最後にイエス様の与える平安がどのようなものか、を見ていきたいと思います。

<① 何が問題なのか:人が神のもとから離れたこと>

聖書の神は、世界を造られた方です。創造主とも呼ばれます。もちろん、人間もお造りになりました。神は人に、あらゆる良いものを与えて、喜びのうちに日々、生きるように造られました。神が最初に世界を造られたときは、自然災害はありませんし、人々の間の(と言ってもアダムとエバだけでしたが)争いもなく、病もなく、死もありませんでした。何一つ、人に害を及ぼすものはありませんでした。そのとき、人は神に完全に信頼しきって、神を疑うことがチリほどもなかったと思います。考えてみてください。世界を造られた神、万物を支配している神に愛されているのです。全能の神が味方なのです。心配などみじんもあるはずがありません。そのように、人は元々、神とともにいて、神のもとで、心の底から満たされ、安心し、喜ぶものとして造られました。

ところが、ある時、人は神に背き、神に対して罪を犯してしまいました。その結果、人はもはや、神とともにいることができなくなりました。その結果、人は平安を失いました。それまでは神が味方だったのに、今は神から離れてしまったのですから。そしていろんな心配に悩まされるようになりました。自然は歯車が狂い、災いをもたらすようになり、人々の間にも不和、争いが蔓延し、病が入り、そして死がすべての人を支配するようになりました。死の影におびえて生きなければならなくなったのです。ハイデッガーという哲学者は「人はオギャーと生まれた瞬間から、死と隣り合わせなのさ」と言ったとか。

<② 神が与えた救済措置:イエス・キリスト>

人が平安を失った原因は、本来、ともにいるはずだった神から離れたことにありました。ですから、その解決法は、人が神のもとに帰ることです。神とともにいるようになることです。しかし人の側からは神のもとに帰ることはできません。人は神に罪を犯したからです。人の側には罪があるからです。しかしあわれみ深い神は、神の方から救いの手を差し伸べてくださいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、罪なき、きよい、永遠に生きておられる神の御子が、肉体をまとって、人となってくださった方です。そして、私たち信じるすべての者の代表として、私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの罪に対する刑罰を受けてくださいました。そして三日目に復活されました。このことを信じる者は誰でも、罪赦されて、神のもとに帰ることができます。神は喜んで迎えてくださいます。そのために神の方から尊い御子を救い主として送ってくださったのですから。また御子も、私たちを愛して、御自分から進んでこの役を引き受けてくださいました。ご自分から進んで、人となり、私たちのために十字架にかかってくださいました。神と御子がここまでしてくださったのは、なぜでしょうか?それはただ、私たちを愛してくださったからです。ほかに理由はありません。

神の側からは救済措置が与えられました。あとは、人の側がそのことを信じて、神のもとに帰る意思を持つことで、実際に神のもとに帰ることができます。イエス・キリストがそのための道となってくださったのです。この道を通って、神のもとに帰るならば、その瞬間から、その人は神の愛する子どもの立場を与えられます。ただ聞くだけでは何もなりません。この救いを実際に自分のものにするためには信仰が必要です。キリストを救い主と信じることで、神に受け入れられ、神のもとに帰ることができます。神が与えてくださった尊い救いを、絵に描いた餅で終わらせるか、それとも本物の餅にするかは、私たちが信じるか否かにかかっています。信じて、神のもとに帰りましょう。ペテロの手紙第一2:25

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

信じて、人間の本来いるべき魂の居場所に戻りましょう。

<③ イエス様が与える平安:神がともにおられる>

イエス様が与える平安は、世が与えるのとは違うと言われました。世が与える平安とは、目に見える状況が整って得られるものです。お金がたくさんあって、家があって…など。しかしこの世は、うつろいやすく、状況は変わっていくものです。昨日は思ってもみなかったことが、今日、起こることもあります。そういうものに安心のよりどころをおいていては、本当に心の安まることはないのではないでしょうか。またもし、目に見える頼みとしているものがすべて取り去られたら、その時になお、よりどころとするものはあるでしょうか。

それに対して、イエス様が与える平安とは、神がともにおられるという平安です。これは誰も取り去ることができません。また、昨日も今日もいつまでも、変わることがありません。太陽が西から昇ることがあっても、神がともにおられるという事実は変わることがありません。そして、全世界を造られ、支配している神が私とともにおられるのですから、これ以上安心なことはありません。神のお許しなしには雀一羽、地に落ちることがなく、髪の毛一筋すら失われることがないとも、イエス様は他の所で教えられました。

以前、ある場所で「平安」というテーマで展覧会が行われたそうです。のどかな田園風景、木漏れ日の下で戯れている子犬の絵、波一つない美しい水辺の絵、いかにも平安を思わせる様々な絵が出品されました。しかし、その中で最も多くの人の心をひきつけた作品は、嵐の海の様子を描いた絵でした。不気味などす黒い雲の下、荒れすさぶ風と高巻く波。そこにそそり立つ断崖絶壁の岩。波は勢いよく岩にぶつかり、しぶきをあげています。これのどこが平安なのか、と思ってよく見ると、その岩の割れ目に親鳥が翼で雛を覆って休んでいます。イエス様の与える平安というのも、こういうものなのかな、と思います。

神を信じたからといって、悩みや問題がまったくなくなるわけではありません。この世はお花畑ではありません。試練は他の人と同じように、信じる人にも襲ってくるでしょう。しかし、イエス様が約束された「平安」は、そんな嵐の中にあっても、神がともにいてくださって、守ってくださる平安。神が、岩となって私たちを嵐から守ってくださる平安。また親鳥となって守ってくださる平安です。しぶきくらいはかかるかもしれません。おびえさせる音くらいは聞こえてくるかもしれません。しかしそのまっただ中にあって、神がともにおられるという理屈を越えた平安、絶対的な存在がいつもそばにいて、守ってくださっている。そしてそれは、単なる気休めではなくて、目には見えないけれども確かな霊的な現実です。その霊的な現実に基づいた平安を、イエス様は与えることがおできになるのです。

東日本大震災で被災し、その後の原発事故で教会丸ごと流浪の民となった福島第一聖書バプテスト教会という教会があります。そこの佐藤彰牧師はその日、ちょうど東京の神学校の卒業式に出席しておられました。東京でも大きな地震でしたが、地元が大変なことになっているとわかって、胸が押しつぶされるような不安の中、すぐに車で福島へと向かいました。何しろ、福島第一原子力発電所から5キロほどの所にあった、原発に一番近い教会です。その時、奥様と話されたそうです。だれか一人くらいこう言うのではないか?「もう神は信じない」「神はよほど私たちが憎いのか、よほど福島の地がお嫌いなのか?」と。そのように詰め寄られても、返す言葉がないのではないか―佐藤先生はそう思われたそうです。しかし、実際にはそうではありませんでした。あるご夫人は膝まで津波につかり、あとは泳ぎながら必死に逃げました。ある40代の女性は、津波に追われながら車のアクセルを全開にしました。また、ある60代の女性は心臓に不調を来たし緊急手術をしましたが、手術直後に、医者から「申し訳ないけど、放射能がやってくるからすぐに逃げてください」と言われて、必死で逃げたそうです。みなひどい体験です。しかし、皆が口ぐちに言ったそうです。「先生、この時ほど神様を感じたことはありません」と。神様に救われたんだと、口をそろえて言ったそうです。そういう文字通り生きるか死ぬかの極限状態の中で、神様の守りをひしひしと感じたんですね。佐藤先生は言われます。「そうか、私の愛する教会員はどこへ行ったのかと心配していたが、違いました。彼らは神様に愛される一人ひとりでありました。今ごろ気づいたのか、と神様に言われた気がしました」と。一切合切が剥ぎ取られ、思い出から過去から、預金通帳から家から、すべてが剥ぎ取られ、揺すぶられ、家族もバラバラにさせられて、あらゆる安心の土台や条件が押し流されていく中で、なお、残るものがあった。決して変わらないものがそこにあった。主イエス・キリストにある神の愛、どんな時もともにいてくださる主の聖なる臨在だ、と言っておられました。

そしてもう一つ、大切な事。神は地上にいる間だけ、私たちとともにいて、守って下さるのではありません。私たちはやがて、いつかは、世を去る時が来ます。確実に来ます。みなさん、死んだらどうなるんだろう、死んだ後、どこに行くんだろうと、思ったことはないでしょうか。死んだ後の事、どうなっているか、わからないですから、不安や恐れを感じることはないでしょうか。死んだあと、どうなるか、わからないというのは、こわいことだと思うのですが。私は最近、自分が年を取ってきたせいか、時々、ニュースで事故や事件でなくなった方のことを聞いたときに、その人は今、どうしているんだろう、死んだ直後、どう思ったんだろう、と思うことがあります。聖書によると、イエス様を信じて、罪赦された人は、もう罪が赦されて帳消しにしてもらったので、天に上げられます。御使いが迎えに来て、迷わないように、天国に連れて行ってくれます。そして、神のみもとで完全に満たされて、安息を得られます。別な言い方をすると、イエス様を信じた人は、永遠のいのちを与えられます。永遠に神とともに、神を喜んで、生きることになります。そうでない人は、罪が残っているので、しかるべきところに連れて行かれます。これは、世が与えることのできないものです。イエス様が与える平安と世が与えるそれとの決定的な違いです。

「 驚くばかりの 恵みなりき 」新聖歌233番

すべてのものの造り主であられ、髪の毛一筋に至るまで治めておられ、すべてをご存じである方が、私たちの父となってくださったということ。これがイエス様が与えてくださる平安の基です。私たちの力は限られていますし、思い通りにはいかない、どうにもできないこともありますが、神にはそうではありません。そして私たちは、神を信頼して、神にお委ねすることができるという、ありがたい特権があります。ペテロの手紙第一5:7

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

人は、神とともにあって憩うようにと造られました。その本来の居場所に帰って来るようにと、イエス様は道を開いてくださいました。この世でも、その後も、永遠に神がともにいてくださる、永遠の平安をイエス様は用意してくださいました。信じて、神のもとに帰って、神がともにおられる平安を、一人でも多くの方に知って頂きたいと切に願います。