礼拝説教要旨 2025年6月22日

求める者に聖霊を

ルカの福音書11:5-13

< はじめに >

前回は主の祈りのルカ・バージョンを学びました。最初に、私たちの祈りは「父よ」という呼びかけにあらわれている、神と私たちの関係の中でなされるもの。愛と信頼に満ちた親子の関係の中に入れられているという、このことを土台として祈るということでした。そして、「御国が来ますように」すなわち、天の父のみこころが支配する神の国が来るように、という祈りですが、天の父のみこころとは、私たちが神を愛し、隣人を愛することに集約されました。神の国とは、人々がみな、神を愛し、お互いに愛し合う、そういう所でした。これを私たちはまず身近なところで実践したいと願っていますが、これを実現するために、私たちには聖霊が必要だということにも触れました。それで、今日の個所です。ここは13節の最後「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えて下さいます。」が結論です。

ところで、クリスチャンはすでに聖霊を与えられているではないか、と疑問に思う方もいるかもしれません。確かに、私たちは悔い改めてイエス様を信じた時に、すでに聖霊を与えられました(ローマ8:15、エペソ1:13-14)。ですが、常に聖霊に満たされているわけではありません。それで、御霊(=聖霊)に満たされなさいと命じられています(エペソ5:18)。今日の個所でも、クリスチャンたちに向けて、聖霊を求めなさいと、約束とともに勧められています。私たちが聖霊の実を結ぶ生活を送ることを願うなら-神の国の祝福の中に生きることを願うなら-聖霊に満たされることが必要不可欠です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。これらは聖霊の実です。でも、私たちは往々にして、聖霊を求めずして、自分の意志の力やがんばりでやろうとしてしまいがちかもしれません。完全な神の国は将来実現しますが、今、この地上で、不完全であっても神の国の生活を味わうことができるのは、聖霊が与えられる、新約の時代に生きる私たちの特権です。そして、それはただイエス・キリストが私たちのためにしてくださったことのおかげです。キリストに感謝して、聖霊に満たされることを求め、そして神の国の生活を味わわせて頂きましょう。

<① 聖霊を求める切実さ(5-8節)>

なかなかユニークなたとえです。真夜中に友人が来た。もしかしたら、夕方くらいに着く予定が、何かの事情でそんな時間になったのでしょうか。食べる物も持ち合わせておらず、フラフラの状態でたどり着いたのでしょう。すぐに何かを食べさせようと思ったけれども、あいにく家には何もなかった。それで近くの友人の家に行って、ドンドンドンと戸を叩き、パンを三つばかり貸してくれ、と頼んだ。ところが、家の中からその友人は、もう戸締りもしたし、子どもたちも一緒に寝てしまっているから、これから起きて、何かをしてやることはできない、と断りました。当時の戸締まりは、今のように簡単にカギをガチャとひねればいいのではなくて、大きな板や棒をかませたり、ネジを締めたりと、大がかりなものだったそうで、それをまた開けるとなると、ギーギー、ガタガタ大きな音がしてしまう。それこそ、せっかく寝た子を起こすことになってしまいます。それで断りました。

ここでイエス様は「あなたがたに言います」と改まって弟子たちに向かって言います。この人は友だちだからという理由だけでは、わざわざ起きてパンを与えることはしないが、しつこく求め続けるなら、そのしつこさのゆえに起き上がって、何でも必要なものをあげるでしょう、と。確かに、いつまでも続けられたら寝られませんから、最後にはあきらめて、渋々でも与える。たとえそのときは相手からどう思われようと、必要なものは手に入れることができる。8節「しつこさ」と訳された語、元は、恥知らずな、あつかましいという意味。そこから、恥知らずなほどしつこい、という意味が加わったようです。なりふり構わず、恥知らずなほど食い下がった結果、求めていたものを与えられる。そういえば、聖書にはほかにも、そういう場面があります。たとえば、ツロ・フェニキヤの女は、悪霊に憑かれて苦しむ娘のために、イエス様のあとを大声で「あわれんで下さい」と叫びながらついていきました。弟子たちに迷惑がられるほど。それだけ切実だったのです。必死だったのです。そしてついにイエス様から救いの言葉を頂き、娘は解放されました。

ここのたとえでも印象的なのは、真夜中に来た友人にパンを出すために、近所の友人の迷惑も顧みず、ここまで求めた、その切実さでしょう。イエス様の強調点もそこだと思います。私たちが神のみこころに従おうとするときに、自分のうちには神への愛も隣人愛もない、冷たく固い心に気づかされることがあるかもしれません。しかし、そこでだめだーとか、もしかして自分は救われていないんじゃないか…とあきらめるのでなく、神に求める。切実な思いで聖霊を求めるように、と教えているのではないかと思います。

アメリカ長老教会で、「神の子どもである」ことを深く学ぶサンシップ(Sonship)・コースを始めたジャック・ミラー師という方がいました。彼はある時までは神が聖霊を注いでくださるということについての理解が弱く、知的なものに留まっていたそうです。もちろん、教理的には聖霊が必要と信じて告白していたけれども、実際は、それほど切実に必要を感じておらず、聖霊は彼にとって、実際には、なければなくてもいいような、サプリメントのようなものに思っていたそうです。しかしある時、挫折を通して、このたとえの男のように、自分のうちには何もないことに気づきました。隣人の魂の飢えを満たすために与えることのできるものが、自分のうちには何もないことに気づいた。知識はあったのでしょうけれども。それで彼は、このたとえの男のように、神に向かって大胆に祈り求めるようになったそうです。それまでももちろん祈っていましたが、今度は切実さが違いました。それから、神は、彼にそれまでとは違う、新しい形で、聖霊を注ぎ始めたそうです。それがサンシップ・コースの働きにつながったのでしょうか。この働きはその後、アメリカ長老教会に非常に大きな影響を与え、多くの人々が確信を与えられ、癒され、力づけられたようです。

<② 求め、探し、たたきなさい(9-10節)>

有名なみことばです。少し説明を加えると、「求めなさい」は原語では、継続または反復をあらわす形で、求め続けなさい、何度でも繰り返し求めなさい、というニュアンスです。探しなさい、たたきなさいも同様です。そして、求めると言っても、漠然と求めるだけでなく、「探しなさい」と続きます。祈って、あとは受け身で待っているのでなく、自分から探す行動に出る。聖霊はみことばとともに働かれますから、みことばを読むとか、信仰書を読むなどして、自分から探し求める。そして壁にぶつかってもそこであきらめないで「たたきなさい」。必ず門は開かれると信じて、たたき続ける。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」あのたとえの男のように、どうしても必要で、何が何でも頂かなければ、と切実に求めて、探して、たたいて、聖霊を求めなさい。聖霊によって神の国が訪れるように。そうすれば与えられます、見出します、開かれます、とイエス様は保証して下さいました。

しかし求め始めても、すぐに与えられるとは限りません。それで、時間とともに、本当に与えられるのだろうか、と心細くなったり、疑ったりする人間の弱さをご存じのイエス様は、先回りして、励ましを与えて下さいます。ありがたいお心遣いです。

<③ 天の父は(11-13節)>

人間のお父さんでも、自分の子どもが魚をちょうだいという時に、魚の代わりに蛇を与えるようなことはしない。卵をちょうだいという時に、サソリを与えるようなことはしない。外見が魚に似た蛇や、尻尾を丸めると卵のような形になるサソリがいたと言いますが、形が似てるからといって、そんなものを与えるわけがない。「あなたがたは悪い者であっても」とは手厳しく感じますが、これはアダムの堕落以降、すべての人が自己中心の罪びとになったことを言っているのでしょう。それでも、大切なわが子には、そんなことはしない。ましてや、善そのものであられる天のお父さんが、求める者たちに聖霊を下さらないはずがないではありませんか。祈りは、天のお父さんとの愛と信頼の関係に立って、なされるものという大原則がここにも出てきます。ここの蛇とサソリは悪霊を表すのでしょうか(ルカ10:19)。聖霊を求めるときに、霊は霊でも、悪霊が来たらどうしよう、と不安、恐れを感じる人がいるかもしれません。でも、そんな心配は無用。聖霊を求めている子どもたちに、別の霊を与えることなど、あるわけがない。恐れずに天の父に聖霊を切実に求めなさいと。

天の父は、求める者たちに聖霊を与えるとあります。天の父は、私たちの人格を、意思を尊重しておられるので、私たちが求めるときに、聖霊をお与え下さいます。求めてもいないのに、押し売りのように押し付けたりしません。聖霊に対する飢え渇きは、私たちが主の祈りを心から祈るときに、特に御国がきますようにということを願うときに、起こるものだと思います。そして求める者たちに、天の父は喜んで聖霊を下さると約束されました。

「 代々にいます 御霊の神よ 今しもこの身に 満ちさせ給え 」新聖歌 136番

19世紀末-20世紀はじめ、南アフリカの教会で仕えた、改革派牧師アンドリュー・マーレーという人がいます。彼の「ペンテコステの祝福」という本より、以下、引用です。

⑴神の子どもは、誰でも、聖霊のご支配のもとに絶えず生活することが、神の御旨である。
⑵個々のクリスチャンの場合にしても、教会の場合にしても、御霊に満たされることがなければ、神が望まれるような生活や働きをすることはまったく不可能である。
⑶ところが、教会ではこの祝福がほとんど享受されていないばかりか、悲しいことに、クリスチャンの実際生活において、ほとんど求められてすらいない。
⑷この祝福は、私たちのために備えられており、神は、それを与えようとして待っておられる。私たちは、信仰により、大いなる確信を持って、それを期待することができる。

今日の個所のポイントの一つは、私たちが聖霊を切実に求めるということをしているか、忘れていないか、という点です。神を愛すること、隣人を愛すること。また自分に対して罪を犯す者を赦すこともそうですが、これらのことにおいて成長するために、自分の頑張りだけではできません。聖霊に満たされることが、どうしても必要です。聖霊だけが私たちの心を新しくし、イエス様の似姿へと造り変えて下さいます(第二コリント3:18、新約p.359)。また、まず自分自身が神の愛を確信し、満たされて、はじめて神を愛し、隣人を愛し、赦すべき人を赦すということが可能になるのだと思います。なので、聖霊によって、私たち自身がまず、神の愛を味わうこと、確信することが必要です。聖霊は神の愛を私たちに注いで下さる方(ローマ5:5 )、私たちに神の子どもである確信を与えて下さる方と聖書で言われています(ガラテヤ4:6、新約p. 379)。求め、探し、叩きましょう。

また、聖霊に満たされることは、瞬間的に完全になるということではありません。むしろ罪に気付かされて、悔い改めと信仰に導かれるということでもあります。私たちは悔い改めと信仰を通してきよめられていくのですから。聖霊に満たされたから、自分には罪がないと言っている人がいたとしたら、それは大変な間違いです。

聖霊に満たされるということは、何か特別な感情的な高揚が必ず伴うというものではありません。また感情と信仰は違うものです。私たちは人間ですから、感情の影響を受けますが、区別されるものです。気分が最悪の時でも、信仰によって、神の約束を信じて、聖霊を満たして下さると信じて、一日を始めることができます。そうすると、感情の起伏による生活の振幅が、少し小さくなるでしょう。

「天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」と主は言われました。求めない者には与えられません。御国が来ますようにと願いつつ、信じて、求めましょう。