礼拝説教要旨 2025年6月15日

主の祈りの効用

ルカの福音書11:1-4

<はじめに>

今日の御言葉の箇所は、先ほども一同でお捧げしました主の祈りです。もう何百回、何千回と口にして、上の空でも言えるくらい、慣れ親しんでいる方もおられるかもしれません。上の空で言ってはいけないんですが。もっとも、良く見てみると、一般に「主の祈り」として親しまれているマタイ伝とは、若干違うところがあります。今、違いをいちいち挙げませんが、ルカ・バージョンの主の祈りはずいぶんと簡潔になっています。ルカは、主の祈りの概略を示すことを意図したのでしょうか。今朝は私たちも、主の祈りを一つ一つ詳しく見ていくというよりは、一回で全体を学んでいきたいと思います。

<① 「父よ」祈りの土台(1-2節)>

「イエスはある場所で祈っておられた」イエス様も祈っておられた。祈りは弱い者がすることというのは誤解。神の御子、罪なき完全な人となられた主ご自身、よくこうして祈っておられました。これは人としてあるべき姿です。というのは、人は神との交わりのうちに、魂の根源的な欲求を満たす存在として造られました。受け入れられること、認められること、かけがえのない存在と思われること、安心感など。ところが人が罪を犯して、神から断絶してしまったので、それらの必要を神から得ることができなくなった。しかし魂の欲求なので、それはなくなることはなく、人は神以外のところに求めるようになった。人との関係、富、成功等々。しかしそれらが魂の根源的な欲求を満たすことはありません。魂の根源的な欲求は、ただ神によってのみ、満たされるものとして、最初から人は造られているからです。イエス様も地上にいる間、人として、父なる神の御前に祈りのときをもつことによって、魂の必要を満たされていたのだと思います。それが人間の本来のあり方ですから。

そのことは、最初の「父よ」という呼びかけにもあらわれていると思います。イエス様が話されたアラム語では「アバ」。これは、幼い子が父親を呼ぶ時に普通に使う言葉で、「お父さん」というようなありふれた言葉だそうです。堅苦しい、よそ行きの言葉でなくて、親しく、普通に呼びかけるときの言葉。イエス様は、聖なる天地の造り主を、「おとうさん」と呼びかけていい、いや、そう呼びかけなさい、と教えられたのです。悔い改めて、キリストを信じ、従うあなたがたは、神の子どもとされているのですよ、ということです。神と、父と子で表されるような関係に入れられているということです。受け入れられていること、認められること、かけがえのない存在と思われること、安心感といった魂の根源的な欲求は、この父なる神に愛されている子どもであるということを深く確信するにつれて、ますます満たされていくのでしょう。そういう意味で、祈りは、願い事をするだけではなく、神と自分の関係を確かめ、味わうときでもあります。

私たちが神の子どもであるということは、ただキリストがなしてくださったみわざにのみ、基づいています。私たちが頑張って、認められたら、子どもとして受け入れるとか、失敗したら、役に立たなかったら、子どもではない、と拒まれることは決してありません。私たちの行いには一切よらず、ただキリストが成し遂げて下さった身代わりの十字架の死による罪の赦しと、キリストが私たちの代わりに完全な心からの従順を神にささげてくださった、その完全な義のゆえに、私たちは神に無条件に愛されている子どもとして受け入れられています。神の子どもという表現は、神の限りないご愛、無条件のご愛、この上ないご愛を注がれているということ、神にとってあなたは、この上なく大切な存在だということを表すのでしょう。また、それは永遠の愛で、永遠のいのち、永遠の御国を受け継ぐことを保証することでもあります。聖なる、義なる神が、罪ある私たちをそのような者として受け入れて下さることができるのは、ただただ神の御子キリストが私たちのためになしてくださったことのおかげです。幼子のように、キリストを信じて、受け入れる者は誰でも、神の子どもの立場を、身分を与えられて、誰もそれをおびやかすことはできない。キリストが、その神との関係を私たちのために作って下さいました。私たちはそれを受けとるだけです。

主の祈りに限らず、私たちの祈りはすべて、この神との親しい関係を土台としてなされるものです。また父と子としての信頼関係、愛情関係の中で祈るものです。祈るときには、いつも、自分が神の子どもだと自覚して祈るべきです。何と幸いなことでしょうか。

<② 「御名が、御国が」天の父のために生きる(2節)>

呼びかけの次に祈る内容に入ります。祈りの内容の、前半は「神の御名」「神の御国」のことを祈る。神を第一にすることが、人間にとって本来の順番である、優先順位を教えるものです。そして後半が、自分たちの事に関する祈りとなります。この全体の構成からも、人は何のために造られたか、何のために生かされているか、と言ったら、神のためであるということを教えています。言われてみれば当然のことなのですが。神は造り主なのですから。それだけでなく、私たちにとっては、私たちを愛してやまない天の父のみこころを行うために、この地上に生かされているということです。不思議におもわれるかもしれませんが、自分のために生きているときは喜びがなかったけれども、神のために生きるとわかって、喜びがわいてきたという方もおられます。

さて、一番最初に祈ること。それは「あなたのお名前が聖なるものとされますように」ということでした。私たちの父なる神は、聖なる方ですから、それにふさわしく神の御名が聖なるものとされるように。このことが第一の願いであるようにというんですね。神が軽んじられたり、悪く言われたりするのでなく、神にふさわしい尊敬、崇拝を帰されるように。これに関しては、私たちも、神の御名が冒涜されると、穏やかではいられないのではないでしょうか。私たちにとって一番大切なお方のお名前が、悪く言われたり、汚されたりすると、心が痛むのではないでしょうか。自分がそのように扱われることでなく、神がそのように扱われることに、心を痛める者に、いつしかなっていたとしたら、それは聖霊が私たちのうちに形作ってくださったものです。それは、子どもが、お父さんのことを悪く言われるといやな気持がするように、私たちが神の子どもの心を与えられていることのあかしです。

そして2番目の祈願「御国が来ますように」「国」と訳された元のギリシャ語は、「王の支配」をあらわす語です。神が王として支配する神の国が来ますように。天の父の支配を慕い求める祈りです。天の父の御国をもたらすために、私たちはこの地に置かれています。良い王は、人民の幸せを願って、良い法を作ります。王自身の人格が反映される法を制定します。神の国の法とは、たとえば、先ほど読んだ十戒であり、その根底に流れている精神は、神を愛し、隣人を愛することです。

もしこれが本当に実現したら、それを想像したら、こんなに素晴らしい世界はないでしょう。犯罪(いじめを含む)が一つもない世界。だれもが安心して、喜んで生きる世界。御国を求める祈りは、私たち自身の幸福を求める祈りでもありました。それを私たちは身近なところから、実現したいと願っています。まずは家庭だったり、教会だったり。しかしながら、そう願って始めても、現実はなかなか簡単ではない。自分自身の心の固さ、冷たさにぶち当たることもあるのではないでしょうか。でも、だからこそ「来ますように」なのでしょう。自分の力でやるのでなく-心を変えることは自分の力でもできませんから-神から来るもの。神が聖霊を与えてくださって、私たちの心を神の愛で満たしてくださることによって、可能になるのでしょう。人はまず自分が愛で満たされて、はじめて、人を愛することもできるのではないでしょうか。「御国が来ますように」は他人事のように唱えるものではなくて、自分自身も神のみこころが行える心にしてくださいと、聖霊を乞い求める祈りに通じているのだと思います(5-13節)。それはつまり、神に愛されている子どもであるとの確信が深められることを求める祈りでもあります。

そのようにして、神の栄光をあらわす者として、私たちは造られています。

<③ 「私たちの、私たちを」私たちに必要なこと(3-4節)>

主の祈りの後半は、私たちの側の必要を求める祈りとなります。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与え下さい。」私たちの地上での生活の必要のためにも祈って良い。むしろ、こう祈ることによって、それが天の父から来るものだということを思い起こしなさいというのでしょうか。与えられていることを当たり前と思わず、神への感謝を絶やさないとともに、経済的な不安を和らげるものでもあるように思います。「日ごとの糧を」です。もちろん、将来に備えて蓄えることはよいことですが、ただ、何らかの事情でそれができないとしても、そのためにあまりにも取り乱して、平安を失ってしまったり、しなくていい。すべてを支配なさっている天のお父さんが、ご自分の愛する子どもたちの必要を備えておられることを忘れないように。ここでも、神との親子関係、信頼関係をベースとしてこう祈るのです。これは、天の父が「あなたには、わたしがついているのだよ」と語っておられるのを覚えるようなもの。自分が神の子どもであることを確かめさせられるものです。

「私たちの罪をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」すでに「父よ」と呼んでいるのですから、すでにキリストの十字架の贖いによって神に受け入れられている事が前提です。その意味では罪は赦されています。十字架の贖いは、私たちの一生涯すべての罪に対して有効で、私たちのすべての罪を覆ってあまりあるものです。ただ、私たちの側では、気づいた罪は神の御前に告白し、良心をきよめられなければいけません。

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

こうすることで、私たちは平安を保ち、神との間に妨げのない交わりをもつことができる。

で、この自分自身が赦されたことがまずあって、私たちも、他の人を赦すことができるようにされます。天のお父さんの御心は、お互いが赦し合うこと。そして平和と一致を保つことです。サタンの国であっても、分裂していては立ち行かないとイエス様は言われました。ましてや神の国にはなおさら、ふさわしくありません。また、これは私たちを赦せないという呪縛から解放するために言われていることでもあります。そして忘れてはならないのは、赦しを促すこの祈りは、私たちをイエス様の似姿に近づかせる祈りだということです。その意味で、これは、もっとも神の子どもにふさわしい崇高な祈りだということです。

「私たちを試みに会わせないでください。」こう祈る事によって、この地上の旅路には、試練や誘惑があることに気づかされて、気を引き締め、目を覚まさせられます。それとともに、こう祈ってもなお、与えられる試練は、どうしても私たちに必要な試練だと受け止めることができるでしょう。もちろん、その試練の中でも放っておかれるのではなく、天の父が見えない御手をもって守り、導いて、必ず試練を通り過ぎさせてくださると信頼するのです。その後には恵みを用意しておられると信じて。私たちを愛してやまない天の父は、意味もなく試練を通らせることはないのですから。

「 静けき祈りの 時はいと楽し 」新聖歌 190番

今日は「主の祈りの効用」という題でした。こうして見てきて、全体を貫いているのは、私たちが神の子どもであるという自覚または確信を強めてくれるということです。そして私たちが神の子どもとして御子の似姿に変えられるために有益なのだと思います。日曜日だけでなく毎朝、主の祈りを祈りましょう。特に、「父よ」という呼びかけ、ただキリストのゆえに、揺るがない、永遠の親子関係に入れられているということを思い巡らすことをお勧めします。そこに聖霊が働いてくださり、そこから神の国の祝福が始まるでしょう。