礼拝説教要旨 2025年6月8日

造り主の前にひれ伏す

ローマ人への手紙1:18-25

<はじめに>

ローマ人への手紙は、パウロが記した手紙の中で最も長い。特に、イエス・キリストを信じる信仰を体系的に説き明かす大事な手紙である。冒頭の挨拶の後に、この手紙を書き送るに至った心情を記している。パウロは自分が確信していることを、「私は福音を恥としません。福音は・・・信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」と言い切っている。(16節)また、「福音には神の義が啓示されていて・・・『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(17節)と、これから記すのは「神の義」について、すなわち神の前に義とされ、神との正しい関係に立ち返る道すじにあると語り、18節以下、一気に本論へと移る。(※10年前、この手紙全体を学んだ。今回は要点を絞りながら、改めて私たち人間の罪の事実の凄まじさをより深く自覚し、恵みによる救いの素晴らしさを知ることを願いつつ。)

1、

パウロが「神の義」を明らかにしようとしたのは、神が人に与えて下さる尊い「救い」を明らかに示すためである。「救い」を明らかにするには、神が「義」であるのに対して、人が決して「義ではない」こと、「不義」であって、「罪」ある存在であることを、先ず示さねばならなかった。そこで先ず、人の罪の事実がいかなるものかを鋭く語り始めた。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」と断言した。(21節)

その前に、「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」と切り出している。人間の現実は、不義をもって真理を阻んでいる状態であると。そこから、神へのあらゆる不敬虔がはびこり、社会にはおびただしい不義や不正が蔓延するのである。そこには、もうすでに神の怒りが下されている。神については、神ご自身が明らかにしておられ、人が努力さえすれば神を知り得るというのではなく、神がお造りになった世界、自然界を通して、全ての人に明らかにされている事実を語る。神を知らずに迷っている、その現実にすでに神の怒りと裁きが下されていると言う。迷路に陥っていること、闇の中に閉じ込められていることに・・・。(18~20節)この世になぜ悪が満ちるのか、なぜ不正が幅をきかせるのかと、多くの人が言うが、それは人が、神を神として認めず、奢り高ぶっている現実そのものである。この事実をこの世は見落としている。※「不義:アディキア:不正、誤り、悪:正しいことを捻じ曲げること」

2、

「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性」は、神ご自身の本質のこと、目には見えない神のご性質を指す。神は、永遠から永遠に到るまで、力ある方として存在しておられる。この神のご性質は、神がお造りになった被造物の内に込められ、人はその造られた物を通して、神がどのような方かを知ることができる。神はそのように世界をお造りになられたので、人に「弁解の余地はありません」とパウロは言う。神の無限にして永遠なる性質、また全知にして全能なる知恵と力は、自然界の雄大さ、その荘厳さの中に織り込まれている。(詩篇19:1以下)※知る人ぞ知る、あるいは気づく人ぞ気づく!! ※※NHKの特集「人体Ⅲ」4月27日から放映。

人間もまた神によって造られた存在であることを知って、造り主なる神が、大自然を通してご自身を顕しておられることを知る人は、真に幸いである。神はそのように世界を造り、人をお造りになられた。にも拘わらず、「自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えて」しまったのが、人間の罪の現実である。様々な形となって現れる偶像礼拝を、人類は世界の至るところで繰り広げている。人間をはじめとする万物を造られた神を認めず、その神を退け、神ならぬものを神として礼拝する人間の愚かさは、どんなにか神ご自身を悲しませていることになる。(22~23節)

3、

けれども、造り主なる神はいたずらに悲しんでおられるのではない。「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して」、神は怒りを下しておられる。罪に対しては必ず裁きをもって臨まれる。どのようにして・・・?「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」その結果、人は「互いに自分たちのからだを辱めています。」もはや自分ではその罠から逃れられなくなっている。全世界におよぶ道徳的な退廃、性の乱れとその汚れは想像を遥かに越えて深刻である。神が人をその罪のゆえに見離しておられるとすれば、なるほどと納得さえさせられる。「彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。」自業自得と言えるとしても、それは余りにも悲しい現実である。どこに救いを見出すことができるのか。(24~25節)

人が立ち返るべき所は、「神の真理」である。「造り主」のもとに立ち返るほかにない。造り主の代わりに造られた物を拝むことが、どれほど愚かしいか、そのことを説明するのに多くの言葉は不要であろう。「人間を造った神を礼拝する」のか、「人間が造った神を礼拝する」のか。どちらを尊いとするのか、どちらを選ぶのか、決して難しくはない。その選択を阻み、歪めるのは、造り主なる神を神としてあがめず、造られた人間が、自分を神とする不遜な心である。造り主を知り、この神に立ち返り、この方に仕えよう、この方をほめたたえようとする信仰に進むこと、この信仰に生きるよう、パウロは人々に心を込めて語る。「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

<結び>

「神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕え」る偶像礼拝が、新約聖書の時代、ギリシャやローマの社会にはびこっていた。それは人類の堕落以後、異邦人の世界では当たり前の姿であった。今日の日本の社会においても、造り主をあがめることなく、造られた物を礼拝することに、人々の罪は明々白々である。造り主なる神の存在を心に留めることなく、自分が神であるかのように人々は振る舞う。慎みを失った人の言動、そして倫理道徳の退廃は目に余る。私たち自身も造り主を真心から恐れているかが問われる。多様な価値観が入り乱れる現代社会において、信仰の有無に拘わらず、人の命だけでなく動物の命についても「命の尊さ」が叫ばれる。「命」が軽く扱われているからであろう。けれども、「命の源」を考えることなく「命の尊さ」を叫ぶことが、果たしてできるのだろうか。造り主を恐れない社会は、人の不敬虔や不義また不正を正しようのない社会となる。造り主を恐れることがなければ・・・。(伝道者の書12:1以下)聖書は、十字架の主イエス・キリストを通してのみ、造り主なる神に立ち返ることを教えている。キリストを知る以前も、自然界は神を指し示しており、人に弁解の余地はなかったが、キリストを知ってからは、いよいよ確かに神を知り、造り主をほめたたえることが可能となる。私たちは今こそ、感謝と喜びをもって神を賛美するように招かれている。造り主を知り、「命の源」である神に立ち返った者として、賛美の歌声を上げ、礼拝が益々造り主に喜ばれるものとなるように。