礼拝説教要旨 2025年6月1日

必要なことは一つだけ

ルカの福音書10:38-41

< はじめに >

先週は、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」という問いから始まって、途中、「隣人とは誰か」と問答があって有名な良きサマリヤ人のたとえがあり、最後27節「あなたも行って、同じようにしなさい。」で終わっていました。本当は、前回学んだ通り、律法は私たちが本来の神のみこころからかけ離れてしまって、永遠のいのちを受けるに値しない者となってしまったこと、それどころか、神の御怒りを受けるに値する者であることを教えるものでした。そしてそれは、私たちを絶望させるためではなくて、私たちをキリストに向かわせるためでした。私たちが救いを求めて、キリストのもとに来るためでした。キリストは救いを求める者たちを喜んで迎えてくださいます。神は、キリストに救いを求めて来る者を、喜んで受け入れて下さいます。キリストにおいて、キリストを通して、私たちを受け入れることが、神のみこころです。前回はそのことを学びました。

しかし、「どうしたら、永遠のいのちを得られるか」という問いに対して、最後に27節を見ると、まるで、律法を行うことによって、隣人愛のわざを行うことによって、永遠のいのちを得られるかのように、誤解する人もいるかもしれません。それで、ルカは今日の記事をここに置いたのではないか、と推測されているようです。どうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか。それは、何よりもイエス様のみことばに耳を傾けること。これがどうしても必要なただ一つのことです。

<① マルタとマリア(38-39節)>

イエス様一行が、エルサレムへ向かう旅の途中でしょう。「ある村」とは、マルタとその姉妹マリアが住んでいたベタニヤ村。エルサレムの南東約3キロにあった村です。この後のマルタの口ぶりから、おそらくマルタが姉でマリアが妹でしょう。もちろん、このマリアはイエス様の母マリアとは別人です。マルタは社交的、外向的、活動的なたちの人だったようです。人が来るのが、気疲れするというよりは、うれしいタイプ。しかもそれがイエス様一行ときたら、ウキウキ、ワクワク、喜んで腕まくりしておもてなしの準備を始めました。

ところが、マリアの方は、というと、どうしたことか、いっこうに手伝うそぶりもみせず、涼しい顔をして、というよりも真剣な顔をして、だったと思いますが、マルタには涼しい顔に見えたかも知れません。イエス様の足もとにじっと座って、イエス様のみことばに聞き入っていたのです。どんな話をしていたのでしょう。このあと、エルサレムで十字架にかかられることでしょうか(参考 ヨハネ12:1-7)。ともかく、彼女はイエス様の足もとでみことばに耳を傾けていました。これが他のお客さんだったら、マリアもいっしょにお手伝いしたでしょう。しかし、彼女はこのとき、何をおいても、イエス様からみことばを頂きたかったのでしょう。イエス様が来られたら、まっさきに御教えを受けたかった。みことばに対する飢え渇きがあったのだと思います。

この時点ではよかったのです。マルタはイエス様一行を歓迎し、食事の準備に精を出す。マリアはイエス様のみことばに、心を傾けて聞き入る。それぞれがなすべきことをなしていました。ところがやがて、問題が起こりました。

<② イエス様とマリアを責めるマルタ(40節)>

皆さんがこの時のマルタだったら、どう感じるでしょう。自分は、イエス様一行を迎えて、セッセと忙しくもてなしの準備をしている。他方、妹のマリアはイエス様の足もとに座って、お皿一つ運ぶでもなく、ただイエス様のみことばに耳を傾けている。「もてなし」と訳された語は、通常、奉仕と訳される語です。この時の状況を例えると、自分は忙しく奉仕をしている。猫の手も借りたいくらい。ところが、別の人たちはそのお手伝いをしようともせずに、聖書を開いてみことばの分かち合いをしている。よくわかっている人は、ああ、みことばを学んでいるんだな、それはよいことだ、とあまり気にしないで、というかむしろ喜んで、自分は自分のなすべき奉仕をするでしょう。ところがこの辺の優先順位がわかってないと、何、あの人たち!手伝いもしないで…とイライラをつのらせるかもしれません。

マルタがそうでした。最初は喜んでもてなしの支度をしていましたが、何しろ、家に迎えたのは大人数。イエス様と12使徒で少なくとも13人。もっといたかもしれません。思ったより準備が大変だったのでしょうか。そのうち、心に余裕がなくなって、イライラが高じて、ついにもてなすはずだったお客様のイエス様のところにツカツカとやって来て、不満をぶちまけた。「妹が私だけにもてなしをさせて…」喜んで、自分からイエス様をお迎えしたはずが、いつのまにか、私だけにやらせて…と不満になっていた。さらにはこのことを「何とも思わないのですか」とイエス様を詰問し、挙句の果ては「私の手伝いをするように言って下さい」とイエス様に指図までしていました。「忙しい」という字は心を亡ぼすとは、よく言ったもの。忙しいと、罪を犯しやすくなるのでご用心…。

マルタの名誉のために言っておくと、彼女もイエス様を「やがて来られる神の子キリストです」と立派な信仰告白をした女性です(ヨハネ11:27)。ですが、完璧な人はいません。ついイライラしてイエス様に文句を言ったマルタに、イエス様はやさしく諭されました。

<③ 必要なことは一つだけ(41-42節)>

マルタ、マルタと二回繰り返しています。親しみを込めて、愛情をもって、やさしく諭される様子が感じられます。イエス様は、マルタが失礼な態度をとったことには、何も言われませんでした。ただ、マリアがイエス様のみことばに耳を傾けているのを、取り上げてはいけないと言われました。

このとき、マルタ一人で準備をしていたとしたら、それは確かに大変な事だったでしょう。助けが必要というのは、その通りだったのだと思います。確かに助けが必要だった。しかしそうであっても、真剣にみことばを聞いている人から、それを取り上げてはいけない。みことばを聞くこと以上に、人にとって必要なことは何もないのです。

祈りとみことばと聖礼典(洗礼式、聖餐式)は、恵みの手段と言われます。聖霊がこれらを通して、私たちのうちに働かれるからです。私たちを新しく生まれさせ、まことのいのちをはぐくみ、私たちを造り変えてイエス様の似姿に近づけて下さるのは、聖霊です。また聖霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。これらのものを私たちに与えて下さるのも聖霊です。自分の肉の力の頑張りでは、これらの実を結ぶことはできません。そしてその聖霊は、祈りとみことばと聖礼典という手段を用いて、私たちのうちで働いて、みわざを行われるのです。聖霊は、これらから離れて働かれることも、ないわけではないと思いますが、通常はこれらのものを用いて働かれます。

あるとき、イエス様がどこかの家の中で人々にみことばを語っておられたとき、イエス様の母や兄弟たちが連れ戻しに来ました。イエス様の事を気が狂ったという人たちがいたからです。その時にイエス様は、「わたしの母とは、兄弟たちとは誰の事でしょう。わたしのことばを聞いて、それを行う人です。」と言われました。母親であっても、血を分けた兄弟であっても、どれほど人間的にはイエス様と親密な関係であっても、それで救われることはない。神の家族となることはない。ただみことばを聞いて、従う者が、イエス様の家族、神の家族。何年、何十年、教会に来ていても、みことばを信じ、従うことがなければ、どれほど仲良くしていても、神の国には入れない。いのちを与えるのはみことばであり、みことばと共に働かれる御霊です。

もちろん、奉仕も大切な事です。初代教会で、やもめたちの食糧の配給が問題になったときに、使徒たちは言いました。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務めを任せることにして、 私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:2-4)ここでも、食糧の配給は大切な働きとされています。それは良いこと、必要なことです。しかしそのために祈りとみことばの務めが、おろそかにされてはいけないということで、役割分担をすることにしました。両方を調和させて、秩序をもって行うことが大切です。ですから、奉仕はよいこと。神が与えておられる賜物を主のために、兄弟姉妹のために用いることは良いことです。奉仕を通して、自分が成長させていただくという面もあるでしょう。それは誤解しないように、弁えておきたいところです。

ここでも、マルタはイエス様を喜ばせようとあれこれと考えて、やろうとしていたのですから、それも良いことです。ただ、良いことだからと言って、やり過ぎには気を付けないといけない。ここの「いろいろなこと」と40節「いろいろな」は同じ語で「多くの、たくさんの」という意味の語です。サービス精神旺盛、ホリピタリティ豊かで、イエス様を喜ばせようとあれもこれもと手を広げ過ぎて、たくさんのことをしようとし過ぎて、思い煩い(「心が分かれる」の意)、心を乱すまでになっていたのでしょう。同様に、教会が良い活動を行うのは良いことですが、それも行き過ぎると、あれの手配はどうなってた?これはどうなってた?あれもやらないといけない、これもしなきゃ…。礼拝中も上の空になったり、聖書を読んだりお祈りしている時も、落ち着かなくなってしまいます。そしてやがて、このマルタのように、自分と一緒にやらない他の人を非難するようになり、挙句イエス様にまで文句を言い出す危険があります。秩序をもって、優先順位を守って行うことが大切です。

「 生命のみことば たえなるかな いのちの御言葉 くすしきかな」讃美歌 501番

42節に、マリアはその良いほうを「選んだ」とあります。選んだ。もしかしたら、マリアも、マルタといっしょにもてなしの準備をするべきか、どうするか、考えたのかもしれません。考えた結果、今、イエス様からみことばを聞くことを「選んだ」のです。

昔、「祈れないほど、忙しい?」という本がありました。忙しさは霊性の大敵として、主とたっぷり交わるためのスローライフを勧めるという本だったようです。デボーション―祈りと聖書のみことばによって、主との交わりを持つこと-も、私たちは意識して「選ぶ」ことをしないと、なかなか持てないと思います。それを少しでも補うために、「今日のみことば」を毎日、配信しています。みことばに触れる機会を増やすことは、それだけ聖霊が働かれる機会を増やすことです。聖書朗読、旧約聖書が難しかったら新約聖書だけでも通読することも、お勧めします。それも、聖霊が働かれる機会を持つということですから。

イエス様は今は天におられます。この時のマリアのように、私たちは、肉体においてイエス様の足もとに座って聞くことはできませんが、聖霊=イエス様の御霊が、私たちの心に御心を示し、教えて下さいます。イエス様が下さるみことばは、すべて恵みのみことばです。厳しい戒めの言葉であっても、恵み。私たちに必要な恵みのみことばです。みことばは、私たちの魂を力づけ、喜ばせ、いのちの道を示すものです。みことばを読んで、心に蓄えて、歩ませて頂くことの、何と幸いなことでしょうか。第一ペテロ2:2-3(第3版)

ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ピリピ 2:14-16a

すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。