今日の個所、29節以下は、有名な良きサマリヤ人のたとえと呼ばれるところです。助けを必要としている人を、見て見ぬふりをしないで、助けなさいと、隣人愛を促すお話として用いられているところです。ある方が、ここをやるなら、宮沢賢治の「アメニモマケズ」を紹介したらよいと言われました。「東に病気の子どもあれば行って看病してやり 西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくていいと言い…」そういう読み方もおおいにけっこうです。ただ、ここは元々は「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」という問いから始まっていて、永遠のいのちを受け継ぐ道ということが本来の主題です。ですので、今日はその線に沿って読んでいきます。
さて、今日の登場人物は、当時の聖書の専門家、律法学者です。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」表向き、先生と呼び、素直に永遠のいのちを得る方法を質問しているように見えますが、「試みようとして」とあるように、あわよくば、イエス様を陥れようという魂胆です。しかしそんな人の悪意からも、良きサマリヤ人のたとえのような珠玉のたとえを生み出すのですから、イエス様からは良いものしか出てこないと改めて思わされます。神は人の悪からさえ、良きものを生み出す方です。
「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるか」と聞かれて、イエス様は、律法には何と書いてありますか、あなたはどう読んでいますか、と応じられました。ここから2つの事がわかります。一つ、永遠のいのちを得るための方法は、律法、すなわち聖書に書いてあるということ。これは考えてみたら、すごいことです。永遠のいのちが得られる方法が、わずか数千円で手に入れられる。なんと恵まれた時代でしょう。この本の中に、永遠のいのちがあると、本当に知ったら、きっと聖書を読む目の色も変わってくるはずでした。ただ、それは読み方がありました。そこで、聖書をどう読むか、ということが、重要な二つめポイントになります。律法学者は「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」と答えました。つまり、これを行うことが、永遠のいのちを受け継ぐ道だと、そう読んでいたわけです。それは確かにそうです。もし、これを行うことができれば…。この条件をクリアできたら…。イエス様も「あなたの答えは正しい」と認めました。そして「それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と言われました。
しかしここで、この律法学者はニヤリとほくそえんで、用意していた質問をぶつけました。「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とはだれですか。』」隣人の定義を問う質問。いかにも律法学者らしい発想。しかしこれは、「自分が正しいことを示そうとして」した質問ですから、本当に知りたかったわけではなかったのでしょう。自分は、どこまでが隣人かを考える。ただ漠然と隣人を愛するなどと、ボーっとしていない。自分の方が正しいと、いわゆるマウントを取るつもりだったのでしょう。もし、イエス様が答えに詰まったら、「これだから学のない者は…」とでも言うつもりだったか。自分の方が正しいと、人よりすぐれていると、自分の義を誇りたがる、悲しい罪びとの性。こんな律法学者の姿も、実は、私たちの姿を映す鏡でもあります。こんな罪の呪縛から解放してくれるのは、福音です。「福音中心の人生」でそのことを学ぶことができます。
律法学者は「私の隣人とは誰か」と隣人の定義を問いました。一軒先までか、二軒先までか。何メートル先まで、半径何メートル以内か。あるいは親戚、友人、知人までか。あるいは同胞イスラエル人か。いろんなケースを想定して、こういう場合は、これこれこういう事を根拠として、隣人と見なす、こういう場合は、これこれこういう根拠から、隣人の範囲の外になる、という具合に隣人の範囲を決めていたのでしょう。何しろ安息日には何百メートルまでは歩いても良い、ということまで決めていましたから。しかしイエス様の答えは、そういう発想とは、まったく次元の違うものでした。
エルサレムからエリコへの険しい下り坂の道は、曲がりくねって視界が悪く、身を隠す岩も多かったので、強盗が出没したと言います。そこで一人の人が襲われた。息も絶え絶え、ほっといたら間違いなく死ぬような状態。そこにまず、一人の祭司が通りがかった。彼は、この瀕死の男を見ましたが、やっかいなことにかかわりたくない。まごまごしてると、自分も狙われるかも知れない、こんなところに長居は無用と急ぎ足で帰りました。彼らにはいい口実もありました。律法には、祭司は死体に触れてはいけないと書いてある。関わっている途中でその人が息絶えたら、神聖な律法に違反することになる。彼らはそういう律法の読み方をしていた。それで、半径何メートル以内に入らないようにか、助けてくださいと声をかけられないようにか、道の反対側、遠いところを通っていきました。次に通りかかったのは、これまた神に仕える部族とされていたレビ人。しかし彼もまた同じように、瀕死の男に近づこうともせず、道の反対側をそそくさと通り過ぎていきました。
ところが、あるサマリヤ人が通りがかった。当時、純血を誇るユダヤ人は、異邦人と混血のサマリヤ人を見下していました。当然、サマリヤ人もユダヤ人に反発して、互いに犬猿の仲でした。そのサマリヤ人が、あの瀕死の重傷の人を見て、かわいそうに思った。日頃のいがみ合いも何も吹っ飛んで、ただ目の前で倒れている人をかわいそうに思って、まず近寄っていった。自分の方から近寄っていった。そして当時の手当の仕方でしょう、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜にその人を載せて宿屋にまで連れて行き、介抱した。そして翌日、宿屋の主人にデナリ銀貨二つ(当時の労働者二日分の賃金)を惜しげもなく宿屋の主人に渡して、けが人の介抱を頼み、さらにもっと費用がかかったら帰りにそれも支払うと言い残して、旅を続けました。相手は見ず知らずの人。むしろ日頃、敵対していた相手だった。けれども、目の前で瀕死の状態になっているのを見て、かわいそうに思って、その人の回復のためにお金も時間も労力も惜しまずに世話をした。まるで自分自身の怪我を治す時のように。ほとんどの人は、自分の傷を治すためには、何か惜しいとは思わずに、当たり前に必要なことをするでしょう。そのように、このサマリヤ人は、見ず知らずの人のために、自分にするのと同じように惜しげなく使った。自分自身を愛するように、この人を愛したのです。これが、神が望んでおられる隣人愛でした。
ちなみに、ここから現実的な支援についていくつかヒントを得られると言います。このサマリヤ人は、宿屋の主人に2タラント渡した後で、旅を続けています。つまり、支援は個人プレーでなくチームでやること。継続性の点からも能力の点からも個人でできること限られていますから。彼自身はそのあと、旅を続けるだけのお金が残っていて、当初の目的を果たしに旅を続けています。自分のやるべきこと、仕事でしょうか、を続けた。つまり、自分の生活が成り立たなくなるようなやり方はしていない。自分の生活を継続していくことができてこそ、他の人を継続的に助けることもできる。聖書は現実的で、持っている力に応じて、困っている人を助けるようにと言っています(箴言3:27)。
さて、イエス様はこのたとえを話されて、くだんの律法学者に問いかけます。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」「なった」と言われました。隣人とは、二件隣までとか、半径何メートル以内とか線を引いてそれ以外の人は関係ないなどというものではない。自分の手に助ける力がある時に、助けを必要としている人がいたら、その人がどこの誰であろうと、神が、あなたにその人の隣人になりなさいと仰って、あなたの近くに置いておられる人ということでしょう。どこまでが私の隣人か、などと線引きすることだけを考えている、そんなあり方そのものが、あなたの隣人を愛しなさいという神のみこころに反したあり方と言えるのかもしれません。どこであろうと、誰であろうと、自分から隣人になろうとする心こそが、神が求めておられることではないか。そういえば、この個所を読んで、あの祭司とレビ人になくて、サマリヤ人にあったことがありました。それは「見てかわいそうに思った」ということです。かわいそうに思った。これです。この心です。あの2人の心からは「かわいそうに」という思いが出てこなかった。自己保身しかなかった。それは、彼らの心には、隣人を愛しなさいと言われたその愛が、決定的に欠けているということでした。決まりやルールは落ち度なく、誰からも非難されないように守っているけれども、あわれみの心がなく、石のように冷たく固い心。死んだような心。
最後に、誰が強盗にあった人の隣人になったか、というイエス様の質問に対して、律法学者は「その人にあわれみ深い行いをした人です。」と正確に答えました。単にお金を出して助けた人でなく、あわれみ深い行いをした人と。かわいそうに思った心、あわれみの心こそが本質であることを、彼は理解したのではないか。そして自分にも、そのあわれみ深い心がない、冷たい石のような心であることを、気づかされたのではないか。それで彼はチクリと心を痛めながら、答えたのではないかと想像します。そしてそんな彼にイエス様は言われたのです。「あなたも行って、同じようにしなさい。」。この律法学者がに、ハッキリと罪人であることを認めさせるために、トドメの一言を言われたのかもしれません。
ここの箇所は、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか」という問いから始まっていました。律法学者は、二つの戒めを行なうことと正解を答えましたが、結局、自分の心は、律法の要求するところとはかけ離れていると気づかされた。このように、律法は私たちに罪を示すためにあります。しかしそれは、私たちを絶望させるためではなくて、私たちの心をキリストに向かわせ、キリストにのみ、より頼ませるためです。そこで私たちは永遠のいのちと共に、神のあふれるばかりの祝福を見出します。ですから、罪を示されて、落ち込んだり怒ったりするのでなく、キリストに目を向けるのが、聖書の正しい読み方です。
イエス様は「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と問われました。私たちはこう答えます。「律法には、私たちが罪人であると書いてあります。私たちが、神から何ら良きものを要求する資格のない、神の御怒りに値する者だと書いてあります。そしてそれゆえ、私たちが、ただ、神がお遣わし下さった救い主を信じ、救い主により頼むようにと、教えています。なぜなら、私たちに注がれるべきその御怒りは、キリストが代わりに受けて下さったからです。私たちは、そう聖書を読んでいます。キリストは、まったくのお恵み、プレゼントとして、永遠のいのちを与えてくださいます。」と。新約の時代の私たちも、わかっているようでいて、案外、わかっていないことです。
最後に、この良きサマリヤ人は、イエス様のお姿を映し出しているようにも見えます。あの半殺しの目に遭っていた人は、私たち人類でした。サタンの犠牲となって、罪という傷を負い、霊的には死んでいた私たち人間をご覧になって、神の御子はあわれんでくださり、見て見ぬふりをすることなどできずに、ご自身の方から近づいてきてくださった。天から世に下ってくださった。そして必要なすべての費用を支払ってくださいました。すなわち私たちの罪の代価として、ご自身のいのちを犠牲にしてくださいました。そのおかげで、私たちはいのちを、永遠のいのちを得ました。ただ私たちをご覧になって、かわいそうにと思ってくださった、そのあわれみのゆえに、―あわれみに突き動かされて、私たちの救いのために必要なあらゆる事を、すべてのことをして下さいました。その神のご愛に気付くことが、永遠のいのちへの入り口です。