「ちょうどそのとき」前回見た17-20節を受けてのことで、伝道旅行に遣わされた72人の弟子たちが、イエス様の御名を使うと、悪霊どもでさえ私たちに従うのです、と喜んで帰ってきた。それに対してイエス様が、悪霊があなたがたに服従するからと言って喜んではいけません、ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい、と言われた。その時のことです。名が天に書き記されているということは、救いにあずかっているということです。それが、いかに大きな恵みであったか。喜ぶべきことであったか。天にある「いのちの書」に名前がある者だけが、罪赦され、神の子どもとして受け入れられる。それは、永遠の御国で永遠に神と共に生きるという、目もくらむような祝福にあずかるということでもあります。神の子とされるということは、他のすべてにまさって尊いこと、価値あることでした。私たちが真に喜ぶべきことは、何だったのか。真に喜ぶべきこと、価値あることを、どうでもいいことのように扱い、反対に本当はガラクタのようなもの、ヘタをすると悪臭を放つゴミのようなものを喜んで、後生大事にしているということはなかったか。私たちが何を喜ぶかというのは、私たちが何に価値を置いているかが現れます。真に喜ぶべきこと、真に喜ぶべきお方を、すべてにまさって喜ぶ者でありたいものです。
さて、イエス様は、このことを言われた、ちょうどそのとき、聖霊によって喜びにあふれたと言います。どういう人が救いにあずかるのか。天に名が記されているのは、どういう人たちか。そこに現れている父のみこころを喜び、父をほめたたえたのでしょう。救いの内容そのもののすばらしさとは別に、私たちが救いにあずかったこと、そのこと自体が、実はいかに神の特別なご愛顧を受けていることなのかを、教えられました。
「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。…』」まず、イエス様は「天地の主である父よ」と言われました。天と地とはすべてということ。万物を無から造られた方。存在するすべてのものは、ただ神のご計画のうちに造られたし、今も神のみこころのゆえに存在しています。神こそは、万物の所有者であり、この世界の、歴史の主催者。世界は、神があらかじめお立てになったストーリーが展開するための舞台として造られました。そのストーリーの軸は神の栄光があらわされること。そしてキリストの栄光があらわされることです。その目的に従って、万物の主である方が、御心のままに、救いの知識を隠しもすれば、現しもする。人の側には、それを要求する権利もなければ、隠されていることを不当だと訴える権利もありません。すべての人が罪を犯して、滅んで当然の状態なのですから。救われることが恵みなのです。
「これらのこと」は、救いの知識のことでしょう。複数形なのは、救いに必要な諸々の知識という意味あいでしょうか。イエス様が救い主キリストであること、また神はすべての人に悔い改めを命じておられることなど。その救いに関わる真理を、知恵ある者、賢い者には隠して、幼子たちに現された。このことをイエス様は喜ばれました。これは、救いの知識は、人が自分の力で悟りを開いて得られるものではないし、この世の知恵、知識をいくらかき集めても、見出すことはできない。人の側から知恵や知識、思想を積み上げて天に届こうという、バベルの塔的な人間の努力はダメ。救いの知識は、ただ、神の側から、人に現してくださるのでなければ、誰も知ることができないということを示しています。幼子たちに現わすというのも、人間的な知恵や知識によらないということを示すのでしょう。と共に、幼子のように、へりくだって、素直に聞く心。また自分が無知であることをわきまえて、主に教えて頂くことを求める態度がよしとされるということでしょうか。幼子が、何でもかんでも、あれは何?これは?どうして?なぜ?ときいてきて、聞いたことを素直に受け取るように。つまりは、頭の問題ではなく、心の態度の問題。神はへりくだった者に恵みを与えられるともあります(箴言3:34、旧約p. 1096)。
もちろん知恵や賢さが悪いというわけではありません。知恵や知識に富むことはよいことです。ただ、その知識や知恵のゆえに高ぶって、神と神のみことばの前にひれ伏すことをしなくなるとき、神のことばよりも自分の方が正しいとか、神のことばがいいか悪いかを決めるのは自分だと、神のことばをさばく立場になってしまったら、最後には自分がさばかれることになります。知恵や知識に富んだ人であっても、神の前には幼子のように素直に、謙虚にみことばに耳を傾ける。みことばの権威を認めて聞く。読む。そういう姿勢が大切ということです。悟ったような顔をして、ふんぞり返った自称・知者、賢者は退けられ、幼子の心の人に、神は救いの知識を増し加えてくださるのでしょう。
すべてのことが、父なる神からイエス様に「渡されている」とは、「全権委任されている」ということでしょう。次がちょっと頭がこんがらがりそうなのですが、整理すると、父は子を知り、子は父を知るという関係があります。子が誰であるかは父だけが知っていて、父が誰であるかは、まず子が知っている。ここに父と子の密接な、親しい関係がまず語られます。ところがそこに、なんと、子が父を現そうと心に定めた人たちもまた、父を知る事を許されるというのです。あたかも、子どもが自分のお父さんを友だちに紹介するように、御子イエス様が、この人、あの人、と心に定めた人たちだけが、信仰を与えられて、御父を知るようになる。御父と御子の交わりの中に、入れて頂けるということになるのでしょうか(第一ヨハネ1:3、新約p. 478)。ですから、今、みなさんがイエス様を信じて、御父を知っているなら、それはほかならぬ、イエス様が、みなさん一人ひとりに目を留めて、この人に父を現そうと心に定めてくださったということです。十把一絡げでなく、個人的に、人格的に、この人、あの人と、誰それさん、誰それさんと名を呼んで。そうやってイエス様が選んで、心に定めてくださったから、私たちは天の父を知るようになったのです。もちろん、だからと言って、選ばれたことを誇ることはできません。すぐ前で言われた通り、イエス様は知恵ある者や賢者ではなく、幼子を選ぶことを喜ばれる方ですから。
実は、この「心に定める」と訳された語は、教理の用語で予定とか聖定を表す、とても重みのある語です。気軽に、気まぐれに、おたわむれに選んだのではありません。それもそのはず。御子は、その選んだ人たちのために、その罪をすべて背負って、身代わりに十字架にかかり、苦しみを受けられたのですから。ひとりでも二人も、どうせ十字架にかかるんだから、同じということはありません。信じる一人ひとりの罪の身代わりですから、一人増えれば、その分、イエス様が身代わりに背負う罪も増えて、刑罰もそれに応じて苦しみを増すはずです。イエス様が、この人に御父を現そうと心に定めると言うことは、そのような覚悟があってのことだということです。この人の罪を私が背負って、苦しみを引き受けようと。ですから、私たちの方も、そのような重みをもって福音を受けさせて頂くべきです。
イエス様が私たちのことを心に定めて下さらなかったら、私たちは御父を知ることもできず、永遠のいのちを頂くこともできませんでした。イエス様が、私たちのことを心にとめて下さったことを、心から感謝し、御名をほめたたえましょう。
旧約の時代の偉大な預言者、偉大な王たちは、神がお遣わし下さると遠い昔から約束しておられた救い主キリストを見たいと切に願っていました。なのに、見られなかった。彼らは、キリストを見られなかったし、キリストとともに神の国が来ている、その光景を見ることができませんでした。神から遣わされた救い主キリストが世に来られて、行くところ行くところで悪霊たちは追い出され、病人は癒され、神の支配・神の国がこの世に訪れている。その待ち望んでいた光景を見ることができなかった。彼らの中には、膨大な律法や預言書を熱心に調べて、キリストのことを尋ね求めた人たちもいました(第一ペテロ1:10-12)。あたかも坑夫が鉱脈に当たる事を信じて地中深く掘り進むように。けれども、彼らには、救い主の到来を、直接見聞きすることは許されませんでした。その彼らが切望していた救いを、この時の弟子たちは見ていた、また、そのみことばを聞いていたのです。それがどれほどの恵みであり、特権であることか。それも、その使徒たちはと言えば、お互いの間で誰が一番偉いか、なんてことで議論を白熱させるような俗物だったのに、です。これは、ただただ一方的な、神の側からのお恵みだということをあらわすのでしょう。
今も、恵みの時、救いの日です。肉眼でイエス様を見ることはできませんが、救いをもたらす福音、みことばを聞き、信じて、救いにあずかることができます。聖霊を頂き、ある意味では神の国に生きる者とされています。キリストのゆえに、神と共に、神の御前に生きる歩みをさせて頂いています。アダムから始まる人類の歴史の中で、この恵みの時代に生かされているということは、実はとても大きな恵みであり、特権だったのです。このことも感謝して、受けた恵みを無駄にしないように、恵みに応える歩みをさせて頂きたいものです。
以上、ここには、神が私たちをみこころにとめてくださって、救われたことが、いかに幸いなことであるかが教えられていました。ここで改めて、目を聖書以外にも向けてみると、異教徒と呼ばれる人々の中にも、真剣に魂の救いを求めた求道者たちがいました。秦の始皇帝は死を恐れて、本気で死なない薬を手に入れたいと願い、家来に世界中を探し回らせたといいます。仏陀こと、古代インドの一地方に生まれた釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタもそうです。王子の地位を捨て、妻子を捨てて、彼はいのちある者は必ず死ななければならないという、万人が直面する最大の苦に対する答えを求めて、求道の旅に出たといいます。時に29歳、それから6年間、断食苦行を続けてひたすら真理を悟るべく修行を積んだと言います。真剣です、命懸けです。日本でも、天台宗の比叡山では十二年籠山行という、12年間、山にこもって俗世間から隔絶し、最澄の霊に仕え、経文を読み、座禅を組み、食事はおかゆとお新香くらいのを一日二回…という修行があると言います。
そういう話を聞くと、ひょんなきっかけでキリスト教に触れ、教会に来るようになり、ついにはイエス様を信じて、彼らがそれほど渇望していた救いを頂いている事が、なんだか申し訳ない気になってきます。もし救いを受ける資格というものがあるとしたら、彼らこそ、その資格があるのではないかと思います。しかし天地の主は、ただただ一方的に、いっさい人間の側の熱心とか、功績によらず、まったく主権的に、まったく恵みとして、私たちにこの恵みの時代に生まれさせ、救いに至る信仰を与えてくださいました。神の子どもとしてくださいました。どこそこの家に生まれるというのは、自分で選ぶことができず、自分の努力でなることでもありません。ただそこの家に生まれるのです。そのように私たちも神の子どもとして生まれたのです。それはただラッキーなこととしか、言いようがない。
秦の始皇帝があれほど願っていた永遠のいのちを与えられ、最後には素晴らしい御国を継がせて頂ける。そこで神と兄弟姉妹と共に、永遠にまったき平安と喜びのうちに生きる。命がけで救いを求めてやまなかった多くの求道者たちが、知ったら泣いて喜んだに違いないこの尊い救いの恵みを与えられている幸いを、改めて、確かめさせて頂き、天の父への感謝を歌いたいと思います。