福音のすばらしさの極みは、どのような人にも、どのような状況にあっても、変わることなく差し出されている点にある。
十字架上の二人の犯罪人は、共に同じような悪を行い、共に主イエスの驚くべきおことばを聞いた。しかし、彼らの心の行き着いた先は、まったく異なっていた。一人は、十字架の下でイエスをののしった者たちと同じ言葉をイエスに投げかけた。自ら犯した罪ゆえに十字架につけられているにもかかわらず、イエスが彼を救うように求めた。しかし、もしイエスが彼を救えば、それこそ神の正義を否定することになってしまうだろう。極刑に処されながらも、彼は悔い改めることなく、神の子を呪いながらその人生を終えた。
もう一方の犯罪人も最初はイエスをののしっていた(マタイ 27:44)。しかし次第に自らの罪を認め、へりくだり、すべてをキリストに託す心へと変えられていった。彼はおそらく、イエスについての噂や、十字架上でのイエスのおことばを通して、イエスこそ神の子であり、救い主であることを確信するに至ったのではないか。それも、ほんの短い時間のうちに。だが、それは何よりも、彼のたましいがその真理を受け入れる準備をすでにしていたからに他ならない。彼の言葉には、イエスが救い主であるという信仰だけでなく、復活や裁きに関する正確な知識も含まれていた。
私たちは、このような強盗にも天の恵みが及ぶことに驚く。しかし同時に、救いの道が狭き門であることも知らされている。後者の理由はいくつも考えられるが、本質的な原因は、人間に深く染みついた自己正当化の性質にある。あのアダムとエバがそうであったように、高慢になり、自らの罪を素直に認めず、環境のせいにし、果ては神のせいにし続けるのが人間の姿なのである。悔い改めた強盗は、いわば「立ち返ったアダム」であり、極めて希な存在である。
私たちもまた、主イエスを救い主として歩み始めた者たちである。しかし、信仰の道を歩む中で長い歳月が過ぎた。「先の者が後になる」ということが自らの身に起こることがあってはならない。だからこそ、私たちは毎朝、ひとりイエス・キリストと向き合い、救いの原点を思い起こし、謙虚な心を養い、さらに深く恵みを知る者へと変えられていかなければならない。