礼拝説教要旨 2025年5月4日

天に書き記されて

ルカの福音書10:17-20

< はじめに >

キリスト教は、喜びの宗教とよく言われます。使徒パウロも「いつも喜んでいなさい。」とクリスチャンたちに言いました。言われるまでもなく、誰だって、いつも怒ってばかりとか、悲しんでばかりいたいとは思わないでしょう。いつも喜んでいられたら、その方がいいに決まっている。でも、世の中、そんな良いことばかりじゃない。思い通りにならないこともいっぱいある。だけども、そういうことに左右されない喜びというものが、クリスチャンにはあったはず。そのことに気づかせるために、パウロは「いつも喜んでいなさい。」と勧めたのでしょう。今日の所は、そのクリスチャンがもっとも喜ぶべきことについて、いつも喜んでいなさいとパウロが言った時の、そのいつも変わることのない喜びのもとについて、学んでみたいと思います。

<① 二種類の喜び(17-20節)>

ここには二種類の喜びが出てきます。まず、イエス様から遣わされて、福音を宣べ伝えてきた72人の弟子たちは、晴れやかに、嬉々として帰ってきました。彼らは、何を喜んでいたのか。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」無邪気というのか、何というのか。イエス様の御名によって、悪霊につかれている人に、悪霊よ、出て行け、と命じると、悪霊どもが出て行く。面白いように出ていく。行く先々で、次々と悪霊追い出しをしました。もちろん、解放された本人もその家族も大いに喜んだでしょう。彼らは確かに神のわざをしたのですし、よいことをしたのです。俗な言い方をすれば、彼らの伝道旅行は、大成功で凱旋してきたのです。それで大喜びで帰ってきたのです。

しかし成功した時は、危険な時でもあります。こういう喜びは、うまくいったらいったで、天狗になる危険もあります。それで、興奮冷めやらぬ彼らに、イエス様はサタンの例を出して戒められました。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。」この18節はいくつか解釈がありますが、ここでは、サタンが元は大きな力を与えられていた天使だったけれども、高慢のゆえに、天から投げ落とされたという事を引き合いに出して、戒められたと理解したいと思います。第一テモテ3:6、長老の条件として「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないように…」とあります。高ぶりは悪魔と同じ裁きを招く原因となります。

イエス様は続けて言われました。19-20節「確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」蛇、サソリは、サタンの手下どもの悪しき霊どものこと。それらに対して、弟子たちはものともせずに踏みつけることができる。敵であるサタンのあらゆる力に打ち勝つ権威が与えられている。だから、彼らに害を加えるものは何もない。恐れずにこれからも福音を宣べ伝えなさい。ただ、悪霊があなたがたに服従することを喜ぶのでなく、あなたがたの名が、天に書き記されていることを喜びなさい。クリスチャンがいつも、一番に喜んでいるべき喜びは、これでした。

聖書によると、天には「いのちの書」と呼ばれる書物があります(ピリピ4:3、黙示録20:12、15)。その書に名が記されている者は、一人も失われることなく救われる。すなわち罪赦されて、神の子どもの身分を与えられて、やがて天国に入れられます。神と共に永遠に生きる永遠のいのちが与えられます。天に名が記されているというのは、そのいのちの書に、自分の名前が登録されているということです。こんな重大なことはありません。永遠の運命がそこにかかっているのですから。この天の書物に誰の名前を記すか、決めるのは、神です。神が記したものは、誰も、サタンも、それを消したり、変更したりすることはできません。ですから、天に自分の名が記されているということは、その人の救いが定まっているということです。神が決めたことですから。ですから、誰しも、いつかは地上の旅路を終えるわけですが、その後のことを心配しなくていい。恐れなくていい。むしろ、パウロが地上にいるよりはるかにすばらしいと言った天に移されて、主とともにいるようになるのです。今、私たちは漠然と、ぼんやりとしか、神の事を知りませんが、そのときにはもっとはっきりと知ることになるのでしょう。神を知ることは、すべてに勝る感動、喜びなのだと思います。そのことの前には、地上のあらゆるもの、世の人々が望んで止まないものも、まったく輝きを失って、無に等しくなるのでしょう。

神は世界の始まる前から、このいのちの書に、ただみこころのままに、私たちの名を記して下さいました。神がそのように定めておられたので、私たちはこの世に生を享け、時至ってキリストを信じ、救われたのです。それは、ただ神の一方的な選びによって、またただキリストの一方的な恵みによって与えられている特権です。自分の力どうすることもできないことで、ただただラッキーとしか言いようがない。その救いにあずかっている。しかもその救いのために、御子が十字架にかかるという犠牲を払って下さった。

救われていることがどれほど素晴らしいことか、なかなかピンとこない私たちですが、だからこそ、イエス様は、あなたがたが喜ぶべきはこれです、と教えて下さったのでしょう。これ以上ないすばらしい天国の特権を、まったくの恵みとして神から頂いている。クリスチャンは果報者です。

<② ブルース・ヤング宣教師の証>

アメリカ長老教会のブルース・ヤング宣教師が、昔、この箇所から証をされました。先生は、勉強もできて、スポーツもできて、リーダーシップもあって、野球のチームのキャプテンをやっていたような人。宣教師になっても、ガンガン頑張ってやって、それなりに成果もあげていました。ところがある時、アメリカに一時帰国することになりました。そしたら、何だか元気が出ない。落ち込んでいる。何でだろう…と思っていました。それがまた日本に戻って仕事を始めたら、また元気が出てきた。これって何なんだろう、と思われたそうです。そして、気づきました。自分は仕事に自分の存在意義を置いていた。あるいは自分の価値が、仕事ができることにあると、無意識のうちに思っていた。だから仕事から離れると、なんだか元気がなくなってしまう。仕事を再開したら元気が出て来る。それは、ここで自分の活躍を喜んでいる弟子たちと同じだと思われたそうです。弟子たちは、これこれができたとか、何かをしたことを喜んで、自分も同じことをしていたと。それに対してイエス様は、そういう何をした、かにをしたでなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言われたことに、ハッと気づかされたそうです。それからヤング先生は、すばらしい福音の恵みを牧師や宣教師たちにわかちあうサンシップ(Sonship神の子どもであること)コースをライフワークとされました。

何ができた、かにをしたと行いに自分の存在価値を置くあり方は、うまくいっている時はいい気分ですが、思い通りにならないと、イライラしたり怒ったり、身近な人に当たったり、苦々しくなったり、誰かを憎んだり、非常に激しい波のある状態になる場合があります。そうならない場合もあります。思い通りにならなくて残年は残念だけれども、そこまでひどくない。基本的に安定している人もいます。どこからそういう違いが来るのかというと、自分の存在価値をどこに置いているかという場合があるのかもしれません。仕事でも奉仕でも、自分の行いに自分の価値を置いていると、それがうまくいくと、自分の価値も上がったように感じる。それがうまくいかないと、自分の価値がないかのように感じる。だから、それによる浮き沈みがものすごく激しいわけです。そこに自分の価値がかかっているように感じているから。あるいは人からの評価、評判に自分の価値を置くと、それにものすごく振り回されてしまうわけです。

イエス様はそれではなくて、自分の名が天に記されていることを喜びなさいと仰った。自分の価値は、神に受け入れられて、神の子どもとされていることにあるのだから、そのことを喜びなさいと。今月の主題聖句「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)のとおりです。

パウロは誰よりも広範囲に多くの人々に福音を宣べ伝え、多くの働きをしましたが、最後まで自分は罪人の頭と自覚し、そんな自分に神の恵みはますます満ちあふれていると、初々しい喜びを失いませんでした。福音から離れなかったのです。

<③ ある母親の証>

ある時、ヤング先生はサンシップコースでこんな例を挙げました。あるご婦人が、どうもご主人を赦せない、苦々しい思いが抜けない。それは、彼女が自分の子どもを入れたい願っていた超一流の大学に、その子が入れなかった、そのあとからのことでした。実は、そのご婦人は、どうしてもどこそこの一流大学に子どもを入れなければならないと思っていた。それで一生懸命、そのためにできることを何でもした。ところがご主人のほうは、まあ、入れたら入れたでそれはいいけれども、別にそうでなくてもいい。他にもいろんな道があるというスタンスだった。それで、子どもがその母親の願っていた学校に入れなかった時に、母親はまるで自分自身が価値を失ったかのようにひどく落ち込んでしまいました。そしてやがて、熱心に協力してくれなかったご主人に対する苦々しい思い、赦せない思いが出てきたというわけです。でも、彼女も立派なクリスチャンでしたから、頭ではそれは良くないとわかっている。わかっているけれども、その苦々しい思いを取り去ることが出来なくて、苦しい日々を送っていました。カウンセリングにも行き、また教会の牧師とも相談したそうです。その中で、彼女は、どうしてそんなに子どもに一流の学校に行かせたいと思っていたのか、その背後に隠れている理由を探ってみるように導かれていったところ、それによって人々から称賛を得ることが、心の深いところにある願いだったと気づいたそうです。子どもの幸せのためとか言っていたけれども、本当は、自己中心的な願いだったわけです。彼女の親がまた、そういうものを彼女に求めて、彼女はそういう親の期待に応える形で受け入れられようとしていたこともあって、そんなふうになってしまったようです。で、彼女はそれが自己中心の願いであったことに気づいたので、そのことを悔い改めて、ただただキリストによって、神に受け入れられている、神に愛され、子どもとされていることに自分の価値があることを認めて、そのことを喜ぶようになって、癒されていったそうです。ですから、私たちが自分の価値をどこにおくかというのは、天国に行ってからではなくて、この地上にあっても大きな影響をもたらすものなのです。

「 天なる喜び こよなき愛を 」新聖歌 211番

私たちの名が、天に書き記されているということは、私たちが天に属する者であることをも表します。それは100%恵みです。感謝です。しかし、私たちの名を天のいのちの書に書き記すということは、神にとって、簡単なことではありませんでした。事務的に、ただ名前を記入すればいいというものではなかった。罪びとである私たちの名をいのちの書に登録するためには、きよい御子キリストが血を流さなければならなかった。神はそれを覚悟の上で、そのおつもりで、私たちの名前を天のいのちの書に記して下さった。いわば、私たちの名は、御子キリストの血で書かれている。私たちを永遠にご自分のものとするため、永遠の御国を受け継がせるために、そのことをしてくださった。それだけ、私たちを愛してくださったということです。イエス様が流された血潮を無駄にすることがあってはいけないと思わされます。

そのキリストのゆえに、ただキリストにあって、私たちは、神に受け入れられている、神の民、神の子ども。神の御国を相続する者です。このことを何よりも一番に喜びましょう。私たちは、小さい頃からこの世的な価値観を植えつけられてきたので、一朝一夕ではできないかもしれませんが、聖霊によって、私たちが神の子どもであるという確信が深まるに連れて、私たちは何物も奪い去ることのできない喜びに満たされるようになっていくでしょう。

このあとの聖餐式で、もう一度、ただただキリストによって救われて、神に受け入れられ、神の子どもの身分を与えられていることを、心に刻ませて頂きたいと思います。