礼拝説教要旨 2025年4月27日

ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。

ルカの福音書10:1-16

< はじめに >

四週間ぶりにルカの福音書に戻ります。1節「その後」は、一行がエルサレムに向かう途中にあった出来事の後ということ(9:51)。つまり、イエス様が十字架につけられるときが、迫ってきた頃です。イエス様が地上におられる間に、イスラエル中くまなく「神の国は近づいた」と福音を告げ知らせる必要があったので、イエス様は福音宣教の働きをパワーアップさせるべく、十二弟子とは別に七十二人を指名して、自分がこれから回る町々に、二人ずつ、先に遣わすことにしたというのが、今日の個所です。

こんにち、イエス様は教会に、世界中に福音を宣べ伝え、弟子とすることをお命じになっていますから(マタイ28:18-20)、私たちも今日の個所から、改めて福音宣教について学んでおきたいと思います。

<① 二人ずつ(1-2節)>

まず、イエス様は、七十二人を二人ずつ組にして遣わしました。七十二人を二人ずつですから、36組になります。効率だけ考えたら、一人ずつの方が七十二人、別々のところに行けて、一度に七十二カ所に行けるわけですから、効率的ですが、一度に行ける場所が半分になっても、二人ずつ組ませて遣わしました。一つには、当時、証人は二人か三人でないと有効ではないとされていたからということですが、またそれとは別に、いろんな意味で現実的な配慮でもありました。一人だと、途中でイヤになってしまうかも知れない。迫害もありますから。弱気になってしまうかも知れない。けれども二人一緒だと励まし合い、支え合うことができる。一人が怪我や病気になった時にもう一人が世話をすることができる。また、よからぬことをしないように、ブレーキをかけることにもなる。またある時には、ひとりよがりからも、軌道修正されるでしょう。

ちょっと本筋とは離れるかもしれませんが、この原則をこんにちに適用して、小グループとかセルグループといって、定期的に何人かで集まって賛美、お祈り、学び、わかちあいをすることは有益です。一本のたきぎは消えやすいですが、二本、三本と集まると、赤々と燃えやすいように、主は複数の兄弟姉妹たちの集まりを通して、互いに恵みを受け、成長するように定めておられるようです。そして、新しい人をお誘いして、その中から救われる人が生まれるという展開が理想的だと思います。

2節「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送って下さるように祈りなさい。」これから遣わす七十二人に向って、こう祈りなさいと言っておられるのですが、これは、彼らが遣わされた先で、イエス様を信じる者が起こされ、その中から働き人になる者が起こされることを期待し、意識しなさいということではないかと思います。そのようにして、働き人が増えていく。働き人の再生産という仕組み。宣教師が日本に来て、福音宣教して、その中から信じる人が起こされ、その中から働き人が起こされたように。これをさきほどのセルグループに当てはめると、救われる人が起こされ、さらにその中からリーダーになる人が起こされ、やがてグループが増えていくというふうに導かれたら、理想的な展開ということです。核となる価値観―福音―をいわばDNAとして、同じDNAを共有しているグループが生まれ、増えていく。福音というDNAを増殖していくことが大切です。ただ数を増やすことではありません。

<② 福音を伝える責任(3-11節)>

さて、3節以下、彼らを派遣するにあたって、必要な心得を授けます。彼らがこれから直面するであろう困難を思って、あらかじめ心備えをさせます。イエス様の親心です。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです…。当時、すでにユダヤ教当局者たちは、イエス様に敵意を抱いていましたから、彼らの妨害に会うこともあったでしょう。彼らが自分の力を過信しないようにということもあったでしょうか。敵の力は強い。自分の力では歯が立たない。だからこそ、心を尽くして、主により頼むようにと。羊には羊飼いがおられる。「わたしは、世の終わりまで、あなたがたとともにいます。」と言って弟子たちを全世界に派遣されたイエス様のみことばを、私たちも支えとしましょう。

4節「財布も袋も持たず、履き物もはかずに」これも全面的に主により頼むことに通じます。宣教旅行の間だけとはいえ、信仰を試されます。「道で誰にも挨拶してはいけません。」あっちこっちで油売っている暇はない。ほんの挨拶のつもりが、どこから話が広がっていくかわからない。そして「どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返ってきます。」「平安の子」とは、神があらかじめ、福音を信じるようにと定めていた人のことでしょう。神から平安を受けるように定められていた人。神の選びの民。その家に、そういう人がいれば、神からの平安がその人の上に留まるし、もし、いなければ、その平安は弟子たちに返ってくる。福音を伝える責任を果たしたのだから、平安が返ってくるということでしょう。こちらの責任は、福音を伝えること。あと、相手がそれを受け入れるかどうかは、こちらがコントロールできることではない。

そして、その家が受け入れてくれたら、その家に留まって、出してくれるものを飲み食いしなさい。働く者が報酬を与えられるのは当然のことだから、卑屈になったり、引け目を感じたりしなくていいんですよ、と。ただし、よりよい待遇を求めて「家から家へと渡り歩いてはいけません。」と釘を刺します。ぜいたくを言わずに「出されたものを食べなさい。」と。そしてあなたがたは、ひたすら、その町の病人を癒やし、彼らに、「神の国が、あなたがたの近くに来ている」と福音を宣べ伝えなさい。

こうしてイエス様は、病人を癒す力まで与えて、彼らを遣わされるわけですが、しかしそれでも、みながみな、受け入れるわけではありません。イエス様から遣わされて行っても、人々から拒まれることもある。イエス様はそんな時にどうしたらよいか、ということまで指示してくださいました。その町の人々が受け入れないときは、大通りに出て、「私たちは、足に付いたちりさえ、払い落としていく。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。」と言いなさい、と。「足に付いたちりを払い落とす」は、自分は、さばきの時には、この町に関して、チリほども責任はありません、ということ表すゼスチャーです。神の国が近づいたことは伝えた。あとは、誰でも悔い改めて、キリストを信じるなら、この神の国に入れる。それを拒むなら、それはあなたがた自身の責任だと。

<③ 福音を拒む町に下るさばきは厳しい(12-16節)>

12節に「その日」とあるのは、さばきの日のことです。「ソドム」は、創世記に出て来る罪深い町として有名で、その町は神のさばきによって丸ごと、火で焼き尽くされました。しかし、そのソドムのほうが、福音を聞きながら拒んだ町よりは、さばきに耐えやすい、つまり罰が軽いというのです。伝える者の責任もあれば、伝えられた者の責任もあるのです。警告や心からの忠告を無視して、悔い改めることをしないなら、その結果はその人自身の責任。信じるも信じないも、もちろん、自由意志ですが、自由には責任が伴うのは当たり前のことで、どちらを選び取るにしても、その結果は自分が引き受けることになります。

するとここで、突然、イエス様の口から、嘆きの声が漏れました。「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。」「コラジン」ガリラヤの町の一つ。かなり栄えた町だったと言います。「ベツサイダ(「漁師の家」の意)」は、ペテロ、アンデレ、ピリポの故郷であるガリラヤ湖畔の町(ヨハ1:44)です。これらの町で、イエス様は多くの奇蹟を行なわれ、病人を癒し、また教えられましたが、そこの町は、悔い改めて信じるというところまでには至らなかったようです。「お前たちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていただろう。」ツロとシドンは、地中海に面した港町で、大変栄えた町でしたが、繁栄の中で奢り高ぶったために、旧約聖書の中でさばきが預言されていました。そして事実、アッシリヤ、バビロンに攻められ、陥落し、かつての栄光は見る影もなくなってしまいました。しかし、それらの町のほうが、コラジン、ベツサイダよりも、さばきの日には罰が軽い。キリストのみわざを目にしていながら、福音を聞いていながら、悔い改めないコラジン、ベツサイダの方が、もっと厳しいさばきを受けることになるというのです。また、15節「カペナウム」はイエス様が宣教の本拠地とされた町。ここでも多くの奇跡がなされました。それで人々は大騒ぎし、喜んではいたのかもしれません。神の国が今にも来るかのように思ったかもしれません。しかし、悔い改めることはしなかったのでしょう。いくらイエス様のみわざを見て、ヤンヤ、ヤンヤと歓声を上げても、生き方を悔い改めなかったら、神の国に入ることは決してない。よみにまで落とされるのだと言われました。イエス様を喜び、キリスト教を喜んでいても、悔い改めることを拒んでいたら、さばきから逃れることはできないのです。この厳粛なイエス様の言葉を聞いて、私たちも襟を正されましょう。

最後に、その責任の重大さを念押しするように、イエス様は言われました。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」(16節)たとえば、どこかの国に派遣された大使が、本国の決定を相手国に伝えたときに、相手国がその大使の言ったことを受け入れるなら、本国の言ったことを受け入れることになるし、拒むなら、大使を遣わした本国を拒むことになります。そのように、弟子たちがキリストから委ねられたものを伝えたときに、弟子たちの言葉に耳を傾けるか、拒むかは、そのまま、弟子たちを遣わしたキリストに耳を傾ける、拒むということになる。そしてキリストに耳を傾ける、拒むということは、キリストを遣わされた神ご自身に耳を傾ける、拒むということになるというのです。もちろんこれは、弟子たちが、イエス様の事を正しく伝えた限りにおいてです。勝手なことを言っておいて、我が輩を拒む者はキリストを、神を拒むのじゃ!などと脅すようなカルトではありません。

「 招く声に従い 直ちに立って行け 」新聖歌 176番

最後に13節をもう一度「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。」「ああ」と訳されたところは、原語では「ウーアイ」。悲嘆、悲痛を表す言葉です。彼らがこのままでは本当に恐ろしいさばきを受けなければならない。そのことが、不憫で、心が引き裂かれるようで、たまらずに、イエス様の口から発せられた言葉だったのでしょう。

イエス様は、私たちを、聖なる神の怒り、さばきから救い出してくださるために、十字架にまでかかって下さいました。言葉の意味すること、言葉の意味する現実をよく考えてください。本当に恐ろしいさばきから、私たちを事実、救い出すために、キリストは十字架にかかられたのです。私たちがこの福音を、聞いて信じて、救われることを、イエス様はどれほど心から願っておられることでしょうか。ご自分が十字架にまでかかって、成し遂げて下さった救いです。この福音を拒むこと、悔い改めを拒むことは、キリストの流された血潮を無視するということです。

今も、天からイエス様が私たちをご覧になって、どう思っておられるでしょう。悔い改めを拒んでいる者を見て、ああ、誰それ…、ウーアイ、誰それ…と嘆いておられるということはないでしょうか。私たちももう一度、神の御前での姿勢、神に対する心の態度、また隣人に対する態度等、悔い改めるべきことを悔い改めて、福音を信じ直したいと思います。イエス様が私たちのために流して下さった血潮を無駄にしないように。