礼拝説教要旨 2025年4月20日

福音に立って生きる

コリント人への手紙 第一15:1-11

<はじめに>

約二千年もの長きにわたって、キリスト教会に連綿と受け継がれてきた中心的なメッセージ。それは「人となられた、生ける神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった。そして三日目に復活された。」という事実です。これは人が考え出した教えや思想の類いではなく、実際に起きた出来事、事実です。キリスト教のあれやこれや、ギリギリまでそぎ落として行って、最後の最後、残るのはこのキリストの十字架と復活という「事実」なのです。この、歴史上、一回きり起こった「事実」、決して埋もれさせてはいけない「事実」をキリスト教会は大切に受け継ぎ、次の世代へと伝えてきたということができるでしょう。キリスト教は、この「事実」の上に立っているということは、いくら強調してもし過ぎることがありません。それで、世界中のクリスチャンが、毎年、キリストの復活を祝って、イースターの礼拝をささげています。

<① キリストの復活は、はずすことのできない大切なこと>

パウロは、コリントの兄弟姉妹たちに改めて福音を知らせましょう、と言って、イエス様が十字架にかかられた事、そして復活された事を述べました。コリントの兄弟姉妹たちは、そのことをすでに聞いていたし、受け入れていたはずですが、いつの間にか、そこからそれてしまった人たちがいた。そして、それは枝葉の事ではなくて、福音の根幹を成す、放っておけない重大な問題だった。それでパウロは改めて福音をここで語る必要があったのです。

遠藤周作は、キリストの文字通りの肉体をもっての復活については、証明することができない、わからないと言って、ただ、明らかに十字架の前後で弟子たちが大きく変わったので、何か大きな変化が起こったのだろう、それはイエス様がいつも近くにおられるという感覚とか、そういうことだったのかもしれないと言っています。イエス様がいつもともにおられることはその通りですが、復活がわからないという点は、パウロの宣べ伝えていた福音とは異なるものだということになります。

1節「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。」その福音によって立っているということは、この福音から踏み外したら、信仰者として立っていることができない。倒れてしまう。そういう死活問題ということ。2節でも「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」と、「パウロが宣べ伝えた福音」に立つなら、この福音によって救われる。ここからそれたら救われないと、この事の重大さを確認させるのです。

では、パウロが伝えた福音の内容が3-5節に記されます。一言で言えば、イエス・キリストの十字架と復活という事実。これが最も大切なことだと言います。葬られたとは、キリストが本当に死なれたという事を確認させるもの。5節のケファに現れ云々は、キリストの復活の目撃者・証言者がいるという事で、キリストが本当に復活された事を確認させるものです。これが、最も大切なこととして、パウロが伝えた福音です。

<② 理屈でなく、証言>

昔から、永遠のいのち、あるいは死後のいのちがあるのか、ないのか、という問題は、人々の大きな関心事だったわけで、思想家たち、哲学者たちによって甲論乙駁、議論されてきたと言います。これこれ、こういうだから、あるに違いない。いや、これこれこうだから、ないに決まっている…。いくら議論しても、結局、かたはつかない。どっちに分があるかと言っても、五分五分といったところのようです。しかし、聖書が記録するキリストの復活は、人の考えた理屈や思想でなくて、証言です。実際に復活されたイエス様と会った人たちの証言集。科学の世界でも、いくら優秀な人が、立派な理論を作りあげても、実験してみて違ったら、それは違うという事になるでしょう。理屈よりも事実。同じように、キリストの復活も、理屈でなくて、実際にどうだったのか、証言の信ぴょう性を調べる方が意味があります。以下、いくつか、聖書の証言を確認したいと思います。

まず、証人の数。復活したキリストと会ったのは、一人二人ではなく、5節にあるように12弟子たち。目撃者が12人もいたというだけでも十分ですが、6節には500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。これが一人二人だったら、もしかしたら見間違いとか、幻覚、あるいは捏造という事もあるかもしれませんが、これだけの人数では、それは考えにくいでしょう。しかもその目撃者が当時、まだ生きていたのですから(6節)、調べようと思えば調べることもできました。

次に、期間と回数です。キリストは復活されてから40日間、何度も弟子たちに現れました。弟子たちは、聖書に記録されているだけで、最低でも4回会っています(ヨハネ21:14で3度め、使徒1:3以下で1度)。記録されていないものもあるようですから、それ以上と思われます。一回や二回なら、もしかしたら勘違いという事もあるかもしれませんが、何度もとなると、何かの間違いとは考えにくいでしょう。

次に時間と場所。いつ、どういう所で会ったのか?夜中に薄暗い部屋とか、怪しい所じゃないのか?と言ったら、そうではなく、朝日を浴びて、湖の湖畔でも会っています(ヨハネ21:12)。弟子たちは一晩中、湖に漁に出て、朝、岸に戻ると、そこでイエス様がパンと炭火を用意しておられて、すぐに魚を焼いて食事ができるようにして下さっていました。

では、それは幽霊だったのでは?というのもお決まりのコースで、他ならぬ弟子たちも最初、「霊を見ているのだと思った」(ルカ24:37)と正直に書かれています。弟子たちも、最初は、見ていながら、信じられなかったのです。それでイエス様は、「わたしの手や足を見なさい。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。」と言われました(ルカ24:39)。そして弟子たちの目の前で、テーブルにあった焼き魚を一切れ、食べて見せました。仏壇に供えたご飯などは、いつまで経ってもなくなりませんが、イエス様は魚をちゃんと召し上がりました。

ですから、弟子たちは、信じるというのでなく、何度も何度も、いろんな場所でお会いするうちに認めざるを得なくなったというのが、本当のところです。最初は自分の目で見ても、耳で声を聞いても、信じられなかったけれども、イエス様が何度も何度も肉体を持って現れて下さるので、もうこれはいやでも認めざるを得なかったということです。

疑り深い人は、弟子たちが口裏を合わせていたのではないか、と言います。もしそうだとすると、まず彼らは墓に葬られていたイエス様の遺体を運び出して、どこか他の所に隠さないといけません。そうでないと、いくら彼らが、イエス様が復活したと言っても、反対派の人たちがイエス様の遺体を出してみせれば、一発でウソだとわかってしまいますから。で、ユダヤ人たちも同じ事を考えていて、弟子たちが墓からイエス様の遺体を盗み出さないように、墓をローマ兵に守らせました。泣く子も黙るローマ兵です。それに対して、弟子たちはどうだったかというと、とてもではないが、それどころじゃない。次は俺たちも捕まるんじゃないかと、ユダヤ人たちを恐れて、部屋に鍵をかけて集まっていたのです(ヨハネ20:19)。とても盗み出せる状況・状態ではありませんでした。

それに、です。第一、そんなウソをついても、彼らは何の得にもならなかった。かえって迫害されて、むち打たれて、牢に入れられて…。彼らが福音を宣べ伝えて、与えられたものと言えば、迫害、苦難でした。もし復活したということがウソだったら、何のために、そんな苦しみを受けて、宣べ伝え続けなければいけないのでしょう。しかも彼らは、最後はみな、殉教したのです。ウソのために、命を捨てられるでしょうか?しかも、12人そろって。

こんなふうに、聖書の証言を、先入観なしに、調べてみると、弟子たちの見間違いとか、作り話とかという道はふさがれて、事実、キリストは復活されたという結論を指し示しているのです。聖書の神は、まったくの無から、全世界を、全宇宙を造られた方ですから、死者をよみがえらせることくらい、何の問題もありません。

<③ キリストの復活の意味すること>

最後に、キリストの復活が意味することを以下、四点述べたいと思います。

信じる者の罪がすべて完全に処分されたこと。死は罪の結果、もたらされたものです。罪がある限り、死の世界に閉じ込められて、そこから解放されることはできません。それが、死から解放されて復活したということは、もはや罪は残っていないということです。聖書では罪は負債にたとえられますが、罪という負債が残っている限り、死という牢から出てこれません。それが、キリストが死の牢獄から解放されて復活されたということは、もはや罪という負債がチリほども残っていないということ、キリストが私たちの罪の代価を1円も残さず払いきってくださったことを証ししています。

信じる者の初穂。キリストは、ご自身を信じる者の初穂として復活されました(15:20)。麦なら麦の初穂は、後に同じように麦の穂が続くことを表します。そのように、キリストの復活は、後に続く者たちも同じような栄光のからだで復活することを保証するものです(実は、人間だけでなく、自然界全体が栄光の状態を回復することをも表します)。

神がすべてのことを正しく報われるときを備えておられるということ。キリストは、神に信頼していながら、罪びとたちの悪だくみによって、まんまと十字架につけられ、無力にも死んでしまったかのように見えました。しかし、そのキリストを、神は三日目に栄光のうちに復活させました。神に信頼する者に、神は正しく報われる方であることを実証されたのです。正しくさばく方、報いる方がおられるということを、実際にキリストにおいて証明されたのです。キリストの十字架と復活は、世の終わりに神が定めておられる事柄を先取りして見せたものです。世の終わりになされる裁きに先立って、私たちの罪に対する裁きはキリストにおいて行われ、そして世の終わりに主に信頼し通した者を栄光のうちに復活させて報いられることを、先取りしてキリストを復活させることによって、見せて下さったのです。たとえ、地上では神に信頼しながらも、応えられることなく見捨てられたかのように、地上の生涯を終えたとしても、それで終わりではないということ。神は確かにご自身の真実、正義を実行する時を定めておられるのです。

「 地よ声高く 告げ知らせよ 今日イエス君は よみがえれり 」新聖歌126番

私たちにとって、復活の希望は、あったらいいな、という「希望」ではなく、確実に将来、与えられることがわかっている「希望」です。約束された希望です。

そのことを、改めて、よく考えてみてください。事実、実際にキリストが、聖書の証言通り、死を打ち破って復活したという事実は、どんなニュースも比べ物にならないビッグニュースです。世界を一変させる出来事です。この世がすべてだと思っていたら大間違い。この世の不条理だけを見て、神などいない、神がすべてのことを正しく報いることなどないと思ったら大間違い。私たちは、短期、中期、長期の計画を立てるかもしれませんが、超長期というか、一番重要なのは、永遠の時間軸での計画です。単に永遠というより、ゴールです。この世は一時的であり、ゴールは永遠です。ゴールのために、今の世があります。ゴールが今の世の付けたしではありません。神の超長期のご計画にあわせて、自分の人生の計画、人生設計を立てましょう。永遠のゴールで神とともに喜びに踊るために。