月日の流れる早さを痛切に思わされる中で、今年の受難週、4月第二週を迎えた。これまで「恵みシリーズ」のように、主イエスを信じて罪を赦され、神の前に義と認められること、天の御国にやがて招き入れられる救いの確かさを学び、また主イエスの教えに耳を傾けることを導かれた。前回の2月は、この国で主の民として生きる覚悟を今一度心に留めた。さて今回は?と、少々頭を悩ますことになった。私にとって、自分が福音に触れ、主イエスを救い主と信じる信仰に導かれたことに、主なる神のご計画があったことは揺るがないとしても、今もこの時代にあって生かされていることをどのように捉え、なお生かされ続けるとき、どのように主に仕え、また教会に仕えるのか、いろいろ考え、思い巡らせてしまった。そのようにして何故か行き着くのは、やはり「恵みによる救い」のことである。罪を赦されることについてもっともっと深く知ること、恵みとあわれみに富んでおられる神によって生かされていることを、教会の兄弟姉妹方と共に大喜びできるようにとの願いに行き着いた次第である。そして、またまた今朝の聖書個所となった。
今朝覚えたいのは、特に1節から5節で、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と言われていることである。神については「あわれみ豊かな神」と言われ、私たち人間については「背きの中に死んでいた私たち」と言われている。今私たちは、キリストにあって生かされているとしても、かつては「背きの中で死んでいた」という事実、この事実の悲惨さを、私たちは忘れているか、できるだけ見ないように、また考えないようにしているのではないか。そのように思えてならない。罪の悲惨さやあくどさは「他人事」として、なかなか「自分事」としてはいない。※最近の犯罪の凶悪化や世界中での紛争の拡大など、なかなか自分の問題と結びつかないでいる・・・。
パウロは異邦人のクリスチャンたちに向かって、「さて、あなたがたは自分の背きと罪に中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」と、鋭く語る。(1節)断罪とも言う位の指摘である。と同時に、自分たちユダヤ人のクリスチャンも同じと告白している。「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(2節)ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、「『義人はいない。一人もいない。』」(ローマ3:10)のであって、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、・・・」と、罪の悲惨さを他の手紙でも語る。(3:23)「自分の背きと罪の中に死んでいた者」と認めること、また、「生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と告白することは、自分には本当の意味で生きる力はなく、救いもなく、神の前に出るなら、ただ裁かれるばかりの者であると認めることである。けれどもこの個所を読んで、果たして自分をそこまで罪深いとは理解していないのでは・・・と、私自身はいつも自分の鈍感さを思い知らされる。
かつては、罪に中にあっただけでなく、今もまだ「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んで」いるようなことはないか。また、かつてだけでなく、未だに「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い」と言われるようなことはないのか、折に触れて自分を吟味することは、とても大事と思わされる。時に、他の人の姿を見て、どうしてそこから抜け出せないのか・・・と、心配したりしてはいないか。けれども、決して忘れてはならないのは、「背きの中に死んでいた私たちを」愛してくださった神がおられ、そのあわれみ豊かな神が、私たちをキリストとともに生かしてくださっていることである。私たちは正しく、神によって生かされている。かつては、自分では生きていると言えても、「罪の中に死んでいた者」であり、「自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い」、御怒りを受けるばかりの者であった。しかし、今は罪の赦しをいただいて、キリストとともに生かされている。それこそがキリストにある神の恵みによる救いである。かつての罪の悲惨さを思い返すことによって、救いの恵みを測り知れなさを知ることができる。そして感謝に溢れることになるのである。