礼拝説教要旨 2025年4月6日

豊かに得るため

ヨハネの福音書10:7-10

< はじめに >

今日は、いつものルカの福音書から離れて、2025年度の主題聖句についての説教となります。「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」このみことばの、特に「豊かに得るため」ということを心に留めたいと思います。キリストが与えるいのちの豊かさを、私たちは十分に味わっているだろうか、キリストが与えるいのちの豊かさとは、いったいどういうものなのだろうか、と改めて知る必要があるのではないか。そして、もし、まだ味わっていないのであれば、ごいっしょにそのキリストのいのちの豊かさの中に生きるということを体験させて頂きたいと思うのであります。

そのキリストのいのちの豊かさを知るために必要なことは、イエス・キリストの福音を改めて掘り下げて知ることです。福音の再発見です。福音こそ、キリストの豊かないのちをわきあふれさせる泉です。イザヤ12:2-3、旧約p. 1186

12:2 見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、【主】は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
12:3 あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。

福音という救いの泉から、いのちの水を喜びとともに汲ませて頂きましょう。

<① なぜ、再発見が必要なのか>

ところで、私たちはすでに福音を知っているのに、なぜ、改めて再発見が必要なのか。そのことをまず述べます。今朝は大きく2つの理由を挙げます。

ひとつめは、私たち自身がまだ福音の本当の価値を知らないからです。第一ペテロ1:8-9(新約p. 465)に次のように書いています。

1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

福音は、本当にわかると、栄えに満ちた喜びに躍らせるものだというのです。このような喜びにあずかっていないとしたら、私たちはもっと福音を深く知る余地があるということです。誤解のないように、喜びがなければ救われていないということではありません。救いは、イエス・キリストを信じる信仰のみによります。キリストを信じているなら、救われています。ただ、もっとすばらしい価値、力が福音のうちにはあるのであり、私たちはまだそれに十分に目が開かれていないのではないか、ということです。もちろん、そのことを責めているのでもありません。ただ、せっかく福音を与えられているのに、福音を知り、すでに信じているのに、その力を十分に自分のために使えていなかったら、もったいないからです。使徒パウロは福音を「キリストの測り知れない富」と言いました(エペソ3:8、新約p.387)。私たちが知っている福音は、どうでしょうか。測り知れない富でしょうか。それとも日常生活にちょっとした彩りを添える程度のものでしょうか。事実、測り知れない富であることが本当にわかったら、きっと喜びがあふれて仕方ないのではないでしょうか。

以前、畑に隠された宝のたとえ、よい真珠のたとえのお話をしたことがあります(マタイ13:44-46)。この二つのたとえのポイントの一つは、畑の持ち主も、良い真珠の持ち主も、自分が持っているものの価値が分かっていなかったということでした。俗にいう宝の持ち腐れです。その宝を発見した人も良い真珠を見つけた人も、大喜びで持ち物すべてを売り払って、それを手に入れます。それだけの価値があるからです。確かにそれは、払った犠牲をはるかに上回る、何倍もの利益をもたらしたでしょう。元の持ち主はそのことを知ったら、地団駄踏んで悔しがるのではないでしょうか。私たちもそのような残念な思いをしたくないと思います。福音を知ってはいるけれども、その十分な価値を知らないということは、こうしてイエス様のたとえに出てくるほど、ありふれたことです。自分はもうわかっていると思わない方がいいと思います。私自身、神学校に行って聖書を学びましたが、まだまだわかっていないと思っています。ただ、感謝なことは、自分はわかっていないということに気づかせて頂いたことです。わかっているつもりになって、宝を埋もれたままにしてしまう愚かさから目を覚まさせて頂いたことです。だから常に求め続けることができます。

福音の再発見が必要なもう一つの理由に移ります。それは私たちが純粋な福音からそれる傾向があるからということです。それはサタンの策略もあるし、私たち自身の罪の性質によることでもあります。パウロの時代からすでにそうでした。ガラテヤ3:1、新約p, 377。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって下さったおかげで、信じる者は罪赦され、神に受け入れられたということが福音の基礎。最も大切な事です。そのことをパウロによって、まるで絵に描いたようにハッキリと示されたのに、そしてガラテヤの兄弟たちも、一度はそのことを信じたのに、すぐにそこからそれてしまったのです。1:6ではパウロは、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの、偽の福音に移って行くのに驚いていると言っています。しかし、それはガラテヤの人たちだけの問題ではありません。すべての人に同じ傾向があるのです。だからこの手紙が聖書に残されているのです。

ただキリストがして下さったことによって、救われる。人はそれに何も付け加えることはできない。人が救われるのはまったくの恵みによる。恵みはすべてを変えるとある人は言いました。恵みとは、何かあるものを手に入れるのに必要なことを、何もしていないのに、それを手に入れられること。俗な言葉で言えば、タダということ。それに値する何かをしたから、何かを払ったから、それを手にすることができるというのでなく。私たちが恵みによって救われたというのは、私たちは救いのために必要なことは何もしていない。できない。けれども必要なことはすべてキリストがして下さったおかげで、タダで救われているということ。私たちは神に対しては、この恵みの原理で生きています。恵みによって神に受け入れられ、恵みによって神の御前に生きることができます。それは、無意識のうちに背負っていた、心を重くしていた重荷から解放して、自由を得させてくれます。

その恵みによって救われているという素晴らしい福音から、なぜ、人はそれてしまうのか。ちょっと深い話になりますが、信仰者が救い主からそれていく道は2つあります。一つは律法主義と言われるもの。自分の功績で、自分の義で、神に受け入れられようとする。あれをした、こんなにささげている。キリストを信じているが、それほど、全面的に頼らなくても、自分の行いも神に受け入れられるために役立っていると無意識に思っている。別な現代的な言い方をすると、ある立派な行いが自分に価値を与えている。何かできるということが、自分に生きる意味を与えてくれる。だから、そのために生きている。つまり、それが偽りの救い主になっているのです。そしてそれに熱心に仕えている。ときには、あらゆるものを犠牲にして。それは良い行いなんだけれども、神の前には偶像崇拝の罪を犯しているということ。真の救い主以外に、自分の救い主を作って、それに仕えているという点で。

もう一つは一見、反対に見える快楽主義。肉を喜ばせるものが、自分に生きている実感を与え、虚無感から救い出してくれる救い主となっている。あらゆるこの世の楽しみという救い主に逃れる。それに仕える。命を削ってまで。その結末は滅びです。それも、単に道徳的にどうこうというだけでなく、神の前に偽りの救い主に仕える偶像崇拝の罪です。

ある人が、人の心は偶像製造工場だと言いました。真の救い主から逃れて、別の救い主を作り、それに仕えるので。一見、まじめな律法主義も、一見、不真面目な快楽主義も、どちらも真の救い主を避けて偽りの救い主に仕えている。その偶像崇拝に気づき、悔い改めて、真の救い主であるイエス・キリストのみにより頼むことが、福音的な悔い改めの一つです。

<② この主題聖句によって目指すところ>

以上、福音の再発見を求める理由を述べましたが、次に、この主題聖句によって目指すところを述べたいと思います。それは神を愛することと、隣人を愛するという、この最も大切な二つの戒めが、私たちの生活において実を結ぶことです。

10:9「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」イエス様はご自分を門に例えました。救いに入る門です。神に受け入れられる門です。ほかに門はありません。イエス様だけが唯一の門です。そしてこの門を通って救いに入ったら、その後は日常生活において恵みで満ち足りるとイエス様は教えています。「出入りする」は、聖書では日常生活を営むことを表す表現です(参考 申命記31:2、旧約p. 370、ヨシュア14:11、旧約p. 405)。なので、日常生活を送る中で牧草を見つけることができる。魂を養う霊的食物を見つけるということです。

私たちが福音を再発見し、その豊かな恵みを深く知り、体験するなら、それは私たちに神に愛されている確信を強めてくれるでしょう。私たちは神に愛されていることを確信していいんですね。そして神に愛されている確信が、先の2つの戒めを成就させてくれる原動力となります。福音が、律法をまっとうするのです。また、神に愛されている確信が強くなるにつれて、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を少しずつ、生活の中に結ぶようになるのでしょう(ガラテヤ5:22-23、新約p. 382)。家族の間で、友人との間で、教会の兄弟姉妹との間で、このような霊の実がたわわになるようになったら、そこは神の国です。箴言15:16-17、旧約p.1112

15:16わずかな物を持って【主】を恐れることは、豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。
15:17野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

何が本当の幸せなのか、知恵の書と言われる箴言のことばでした。

<③ 再発見の方法>

福音の再発見のために、2つの事が必要です。一つは、正しい教理を知ること。長年クリスチャンをしていても、あなたは天国に行けると思いますか?行けるとしたら、どうしてですか?という問いに正しく答えられない方がたくさんいます。福音を耳にタコができるほど聞いていても、です。日本だけではなく、欧米で教会に行っている人、熱心に奉仕をしている人でも、そうだと言います。「イエス様が私の罪の身代わりに十字架にかかって下さったから、私は天国に行けます」と皆さんはドンピシャで答えられるようになって下さい。

もう一つは、私たちに純粋な福音を見えなくさせているものを取り除くこと。救いの泉をふさいでいる石を取り除くことです。いろいろありますが、先に述べた、キリスト以外の偽りの救い主に仕える偶像崇拝の罪を取り除くこともその一つです。イエス・キリストだけを自分の救い主とすることによって-純粋な福音を信じることによって-救いの泉からいのちの水を豊かに汲み取ることができます。

「 われらは主のもの 主をのみ愛す 」新聖歌 206番

「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」イエス様が私たちの唯一の救いの門であり、良き羊飼いです。この羊飼いなる目に見えないお方、私たちを愛して、ご自身のいのちを与えて下さったイエス様だけが、真のいのちを与え、その豊かさを味合わせて下さいます。イエス様は、私たちにそうして下さるためにこそ、世に来られたのです。この真の救い主に信頼して、豊かにいのちを頂き、お従いしましょう。