ウェルカム礼拝説教要旨 2025年3月30日

いのちの木

創世記1:4-17

<はじめに:聖書は神が与えた救いの書>

聖書全66巻の最初に来ているのが創世記。世を創る記と読んで字のごとく、神が世界を造られたときの事から書き始めている貴重な歴史書です。ここには、世界の始まり、人間の始まり、夫婦の始まり、そして夫婦と言えば、切っても切れない夫婦げんかの始まりなんてものまであります。そして聖書は、ただ人類の歴史を書き留めているわけではなくて、将来の事も書き記しています。神はご計画をもってこの世界を造られましたから、この先、世界はどうなっていくのか。いつまでも今の状態のまま続くのではありません。最後、ゴールを決めておられます。それから人は最後にどうなるのか。死んで終わりなのか。死んだあとはどうなるのか。みなさん、気になりませんか?そのことも書いてあります。そして一番大切なことは、神がどのようにして人間をお救いくださろうとしていらっしゃるか、が書いてあります。神は救いの道を用意しておられる。そして最終的には、神がいかに人を愛しておられるかを教えています。聖書は、目に見えない神が私たち人間のために、見える形で書物にしてくださって、これを読んで救われなさいとお与えくださった救いの書です。

今日は先ほど読みました個所から、世界のはじめに神が備えておられた「いのちの木」というものについてお話ししたいと思います。

<① エデンの園>

最初に、神が人を造られたとき、エデンという園に置きました。神が最初に造られた人はアダムと言います。奥さんはエバ。聞いたことがあるかもしれません。そしてエデンの園の「エデン」は「楽しみ」という意味なので、エデンの園は楽園です。そこには豊かな食物があって、選び放題の食べ放題。見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木が生えていました。果物って改めて見てみると、色も形も匂いも味も食感も栄養素も、実にさまざまで感心します。イチゴ、みかん、桃、りんご、梨、スイカ、ぶどう等々。さらに世界にはまだまだ多種多様な果物があります。果物の王様ドリアン、女王マンゴスチン、スターフルーツという星形をしたのもあります。同じ土、日光、雨からこれほどバラエティに富んだ果物を作って、神は人を喜ばせてくださいました。そして何よりも幸せなことは、神が彼らとともにおられたことです。彼らを愛し、慈しみ、あらゆる良きもので満ちたらせ、楽しませ、喜ばせようとしておられる神と、普通にいっしょに生活できていたこと。人にとって、神に愛されていることを知るに勝る喜びはありません。

ところで、そのたくさんある木の中に、二つだけ特別な木がありました。それは目立つように、またどこからでも見えるように園の中央にありました。一つは善悪の知識の木、そしてその隣にでしょう、いのちの木という木です。神はこの善悪の知識の木という方からは、実を取って食べてはならないと禁じられました。そしてその神の戒めに背いて、その木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬと言われました。これについて今日は詳しくは触れませんが、とにかくそういう戒めを与えられた。一つだけ言っておくと、食べてはいけないものを置いておくのは苛酷だと言う人がいますが、ほかにいくらでも見て良し、食べて良しの果物があったわけですから、この戒めは全然、厳しいものではありません。これを厳しいという人は、一つでも自分の思い通りにならないことがあると、プンプン怒り出すわがままな王様のようです。苛酷などころか、この戒めは本当は良いものなのです。人が神とともに幸せに生きるために必要な、良い戒めだったのです。本来は。

他方、その隣にあるいのちの木については、神は何も言われませんでした。食べたら生きるとも、食べたら死ななくなるとも、仰いませんでした。アダムはこの実を食べなかったと思います。私たちからすれば、なんで、もったいない!と思うところですが、アダムには必要がなかったし、特に魅力的には見えなかったのだと思います。何しろ、アダムは最初は死なない存在でしたから。神はアダムに、善悪の知識の木から取って食べるその時、あなたは必ず死ぬと言われた。ということは、そのときまではアダムは死ななかったということ。死と無縁だったということです。健康な人は薬を必要としないように、アダムはいのちの木の実を取って食べる必要も感じなかったのでしょう。

神は最初から死ぬように人を造ることはなさいません。そんなつらい思いをさせるようには、人を造らなかった。いつまでもご自身とともに生きる者として人間を造られた。これが、聖書が伝える人間の本来のあるべき姿です。

<② いのちの木>

ところが、後にアダムとエバは、蛇の姿をしたサタンにまんまとだまされて、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。その結果、彼らは死ぬべき者となってしまいました。それまでは死のない世界だった。それがこの時から死がすべての人を支配する世界となりました。死というものがある世界とない世界とでは、世界が全然違います。アダムも、そのとき、自分が死ぬ者となったことを知って、愕然としたでしょう。絶望したかもしれません。それまで死ななかったのが、死ぬようになってしまったのですから。

そのときです。いのちの木ががぜん、意味を持ち始めたのは。それまで、死なないアダムにとっては無用の長物のように感じられたいのちの木が、今、死ぬ存在となってがぜん、必要と感じられるようになった。死ぬべき者に、いのちを与える木。いのちをもたらす木が備えられていたのです。神の親心の底知れなさ。先回りして必要を、救いを備えてくださっていた。そのことに思い至ったとき、アダムの心に光がさしたでしょう。神が、善悪の知識の木の隣にいのちの木を置いていたのは、そのためだったのかもしれません。いのちの木を思い出して、彼が絶望してしまわないように、望みを持ち続けることができるようにと。

しかしこのときは、アダムはすぐにいのちの木に手を伸ばして食べることは許されませんでした。それはまだずっと後の事になります。このいのちの木は、キリストがかかられた十字架の木を表しています。キリストは生ける神の御子で、罪のないお方です。その罪なきお方が、極悪人として十字架刑に処せられた。なぜか。私たちの罪を引き受けて、身代わりに神の刑罰を受けてくださったのです。アダムがあの戒めを破った罪から始まって、信じるすべての人のすべての罪を引き受けて、その巨大な山のような罪に対する裁きを受けてくださったのです。それによって、信じる者は罪赦されて、神との関係が回復しました。神に受け入れられて、また神とともに生活できるようにされました。その神とともに生きるいのちが、永遠のいのちです。永遠のいのちを回復したのです。

人類はみな、神に背いたアダムの子孫で、生まれながらに死ぬべき者です。しかし神はいのちの木を用意しておられます。そのいのちの木から取って食べてくれるように、そしていつまでもわたしとともに生きるようにと、招いておられます。イエス・キリストが私たちの罪を取り除くために十字架にかかってくださったと信じることが、いのちの木から取って食べるということです。エデンの園にあったいのちの木から、現代の私たちも取って食べることができるのです。

<③ 永遠のいのちはある!>

ときどき、死が恐いと仰る方がおられます。その理由の一つは、死後の世界は未知だから。死んだらどうなるのか、わからないからでしょう。ですから、それを知ることが、死の恐れから解放されることに役立ちます。聖書によると、人は死んだら、霊魂は肉体を離れますが、その後、行く先が2つあります。一つは天。キリストの十字架を信じて、いのちの木から取って食べた人は、神のみもとに帰って、罪を犯す前のアダムのように、というか、本当はそれ以上にですが、神の御愛のうちに憩うことになります。もう一方の場所はよみと言われているところ。それは地獄ではありませんが、苦しいところです。天もよみも一時的にいる場所で、歴史の最後、最後の審判のときに最終的に天国と地獄とに判決が言い渡されます。どうしたら天国に行けるか。キリストによって神と和解することによってです。キリストが自分の身代わりに罰を受けてくださったと信じて、罪赦され、神と和解すること。これで信じた瞬間に神と和解し、神に受け入れられます。そして、神に愛されている子どもとして、神に信頼して歩むことができます。そして最後の審判では無罪判決をいただき、永遠の天の御国で神とともに生きることができます。善行を積むことによってではありません。ただキリストによって、神と和解することによってです。

聖書の伝道者の書というところに、神は、人の心に永遠への思いを与えられたというみことばがあります。多くの人は、永遠のいのちや天国などないと、決めつけているので、その思いをむりやり抑え込んでいるのではないでしょうか。しかしもし、本当にあるなら、それを得たいと誰しも思うのではないでしょうか。それも今の世とは全く違う、すばらしい世界でです。そして神が与えてくださった救いの書である聖書には、神がこの世界とは別に、もう一つ、もっと素晴らしい世界を用意しておられると教えています。そして神が造られた自然を通しても、神は、この世界がすべてではないということを示しておられます。

たとえば、セミ。セミの幼虫は何年も土の中にいます。ジメジメした、暗い土の世界しか知りません。そしてついこの間までいた仲間が、一匹、また一匹と姿を消していきます。どこに行ったのか、彼らにはわかりません。しかしセミの幼虫は時が来たら、木に登り、姿を変えて、広い大空に羽ばたくのです。のびのびと、気持ちよく羽ばたくのです。土の中の幼虫は、そんな世界があることなど、想像することもできません。誰かがそういう世界があるよ、と言っても、何をバカなことをと言うでしょう。私たちが住んでいるこの世界は、いわば、セミの幼虫が住んでいる土の中の世界。これがすべてだと、頭から決めつけてはいけないのです。人間の知らないことなど、世界にはたくさんあるのです。神の前に謙虚にならないといけないと思います。私たちには想像もできない世界を神は用意しておられます。

それから季節の巡り。冬は、草木や木々が枯れて、死んだような世界になります。これで終わり、と決めつけではいけない。その次に、また命が芽吹く春が来るのです。用意されているのです。

それからウミガメの赤ちゃん。卵からかえると、誰からも教えられなくても、海に向かっていきます。神がそのような本能を与えておられるからです。そしてウミガメの赤ちゃんにそのような本能が与えられているのは、彼らがその本能に従って海にたどり着き、いのちを得るためです。彼らを生かすためです。本能というのは生かすために与えられています。そのように、神が人の心に、永遠への思いを与えたのも、素直にその本能に従って永遠を求めて、私たちが永遠のいのちを得るため、永遠に生きるためです。

永遠のいのちなどないと、頭から決めつけない。本当は永遠のいのちがあるのに、神が用意しておられるのに、ただ、ないと頭から決めてかかっていたばかりに得られなかったとしたら、あとでそのことがわかったときに、いくら悔やんでも悔やみきれないでしょう。

<いのちの木>

「 カルバリの十字架 わがためなり 」新聖歌112番

カルバリとは、イエス様が十字架につけられた場所の名前です。神の御子イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちに永遠のいのちを与えるために、自ら進んで十字架にかけられてくださいました。しかしイエス様は死んだままではありません。三日目に復活されました。そして天に帰られました。私たちのために救いの道を開いてくださったイエス様は、今は天におられます。今も天からご覧になり、わたしが自分のいのちを投げ捨てて用意した永遠のいのちを、自分のものとする者が一人でも起こされるようにと願っておられます。