礼拝説教要旨 2025年3月23日

福音宣教の理由

ルカの福音書9:57-62

<はじめに>

今日の個所は、新しく主に従おうとして来た人々、あるいはイエス様からお声をかけられた人とのやりとりが記されています。これは、いわゆる狭い意味での献身者(宣教師や牧師など)の召しについて、求められることが記されています。しかしそれだけだと、あまり皆さんには関係のないことみたいになってしまうので、みなさんにとって益となるようにしたいと思っています。それで、今日はここに登場した3人のケースを順番に見ていき、最後にこの箇所から思うところをお分かちしたいと思います。

<① 枕するところも:主と苦難をともにする(57-58節)>

まずトップバッターは威勢のいい、この感じだと青年でしょうか。イエス様が華々しく奇跡をなさって評判になっているのを見て、この方こそ、間違いない、神から遣わされた救い主なる王、キリストだ、よし、自分もこの方について行こう、と思ったのでしょうか。「あなたのおいでになるところなら、どこにでもついていきます。」すばらしい献身の言葉を口にします。まるで、十字架前夜のペテロのように。あの時もペテロは、たとえ全部のものがつまずいても、私は決してあなたを知らないなどとは言いません、と熱っぽく語りました。この人も、このときは本気でそう思っていたのかもしれません。自分の弱さに気づかずに。人は案外、自分の本当の姿、弱さを知らないものです。しかしイエス様はお見通しでした。イエス様は言われました。「狐にはねぐらにする穴があり、空の鳥にも憩うべき巣があるが、人の子には枕する所もありませんよ。」実際、直前の記事では、サマリヤの人々がイエス様一行を受け入れませんでした。はたから見ていると、人々から騒がれ、人気絶頂のように見えるかも知れないが、実際には、あなたが思い描いているほど、安楽なものではない、人々からは歓迎されず、忍従の生活を強いられるのですよ、と現実を伝えました。

ところで、ここを注意深く読むと、衣食住の住については、野宿しなければならないことがあると言われましたが、衣食については触れていません。それは天の父が保証して下さっているということでしょう。空の鳥を見よ。野のゆりを見よ。ましてや、あなたがたをや。山上の説教で教えられました(マタイ6:26以下)。使徒パウロも弟子のテモテに、衣食があればそれで満足すべきです、と言っていました(第一テモテ6:8、新約p. 424)。初代教会の時代は、信仰のゆえに家を追われ、財産も没収された人たちもいたからでしょうか。今の時代の日本ではそういうことはありませんが、世が世ならそういうこともあり得たということ。果たして自分はそういう状況に置かれたときに、どうするか。たまに考えてみるのも有益かもしれません。その時に、自信満々、自分は大丈夫という人はおそらくいないでしょうから、主よ、そのような状況になったときにも、あなたから離れない信仰を私のうちにお養い下さいと祈って、あとはお委ねするのが良いのだと思います。

ただ一方で覚えておきたいのは、この世にあっては主に従う道は険しさもありますが、しかし他方、天には、イエス様にお従いする者のために住まいが用意されているということです。この二段構えの世界観は、信仰生活の基本です。イエス様は私たちのために天に場所を備えて下さいました。天国に私たちのための住まいが備えられています。そのことを思うと、何も悲壮な覚悟でばかりいる必要はなく、むしろ使徒パウロは、天では自分のために、また自分だけでなく主を慕う者たちすべてのために、栄冠が用意されていると、天における報いを見据えていました(第二テモテ4:8、新約p. 429)。また、キリストと苦しみをともにするなら、やがて栄光をもともにすることにもなるとも言っていました(ローマ8:17)。それどころか、将来の栄光に比べれば、今のいろいろな苦しみは取るに足らないとさえ、言っていました(第二コリント4:17、新約p. 360)。福音のために誰よりも苦難を味わったパウロが、そう言っていました。私には見えてないものが、パウロには見えていたのでしょう。霊的視力の回復を切に求めさせられる次第です。パウロは決して悲壮な覚悟ではなく、十字架の向こうに用意されている希望を見据えて、喜んでその道を走っていました。そういうあり方のほうがクリスチャンらしい本来のあり方なのだろうと思います。

<② 死人たちに彼ら自身の死人たちを:いのちをもたらす福音宣教(59-60節)>

二番手は、主から「わたしについて来なさい」と召されながら、「まず父を葬ることをお許しください」と答えた人です。当時のユダヤ教では、父を葬ることは他のすべての宗教規定に優先する義務だったそうです。この人の言ったことは、当時の常識、良識からしたら当然のことでした。ところがイエス様は言われました。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」要は、お葬式のことはほかの人たちに任せて、あなたはすぐに出て行って、神の国の福音を宣べ伝えなさい、ということです。つまり、人々の間では最高の義務、最優先されるべき義務さえ、イエス様に福音宣教のために召されたら、この働きの方が優先される。「神の国」のために召しを受けたら、他の何をもさしおいて、すぐに従うべきということです。

「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせる」は、ちょっと戸惑う表現ですが、聖書によると、生まれながらの人間は、いのちの源である神から断絶した状態です。それを霊的に死んだ状態と言います。なので、この世界はいわば死の支配する世界です。死の世界の中での事は、最高の義務であっても、死の世界の中での事でしかない。そこにいのちをもたらすことはできない。霊的に死んだ状態の人々にいのちをもたらすのは、神の国の福音だけ。これ以外にない。だから、死の世界の最高の義務よりも、いのちをもたらす福音宣教の義務が優先しなければならない。そういうことではないかと思います。

こういうところだけを見て、キリスト教は親を大切にしないと誤解されることがあるのですが、決してそうではありません。親を敬うことは、モーセの十戒で対人関係の戒めの第一に来るものです。また聖書はほかのところでは、肉親の親を敬いなさい、年老いた親の世話をするようにとも命じています。第一テモテ5:8には「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とさえあります。葬式も、人の営みの中で大切なものです。それは残された人々の慰めのため、心の整理のために大きな意味のあるものです。私たちも葬儀をするときは、心を込めてさせて頂いています。ただ、ここでは、神の国の福音を宣べ伝えることが、この世で最優先されるべき務めよりも、優先されるほど、重大な意義を持っているということです。

<③ うしろを見る者は:一意専心、主に従う(61-62節)>

それから三番手。最後の人も自分から志願したのでしょうが、彼もまた「ただその前に」と条件を付けます。イエス様に従うつもりはある。でもその前に、自分の家の者に別れを告げることをお許しくださいと条件を付ける。未練を残している。心が分かれている。専心、イエス様についていく決心ができていない。イエス様は、一旦神の国のために仕えると決めながら、後ろを振り向くようなものは、神の国にふさわしくないと仰いました。そんな甘いものではない。未練を残す対象は家族には限りません。ロトの妻は、せっかくソドムの町から救い出されていたのに、避難している途中でソドムに残してきたものに心を惹かれて後ろを振り返った。それで彼女は塩の柱になったと記されています。イエス様に従うと決めたら、心を定めて、後ろ髪を引かれるものはすべて断ち切って、専心、従う。宗教改革者のジャン・カルヴァンのモットーは、「主よ、私の心をあなたにお捧げします、速やかに、かつ真心を込めて」だったと言います。
「 語り告げばや イエスの愛を 」新聖歌 434番

以上、いわゆる献身者の召しに求められるものを見てきました。こうして見てみると、改めてかなり厳しい献身を求められていると思います。まだイエス様をご存じない方からしたら、そこまでする必要あるの?と思うかもしれません。信仰なんて、人それぞれ、好きなものを信じればいいのだから、そんな犠牲を払って布教する必要はないんじゃないの?と。

そこまでして福音宣教をする理由。一つには、先に少し触れた永遠のいのちのためです。人が滅びから救い出されて、永遠のいのちにあずかるのは、このイエス・キリストによる以外にありません。これが唯一の救済策、唯一の救いの道だからです。キリストは私たちの罪を背負って、私たちの身代わりに十字架に引き渡され、身代わりに刑罰を受けて下さったので、私たちは罪赦され、いのちの源である神のもとに帰ることができた。それで常に神からいのちの供給を受けるようになったので、いのちが絶えることなく、枯れることなく、いつまでも生きる者となった。それが永遠のいのちということです。人に永遠のいのちを与える唯一のものだから、そこまでして福音を宣べ伝える。これが人の側からの理由です。

それからもう一つ、神の側からの理由があります。神はなぜ、福音を与えたのか。それは神が人を愛しておられるから。それ以外に理由はありません。愛する者を取り戻したい。滅びから救い出してご自分のもとに帰らせて、いつまでもともに生きるようにしたい。そう切に願われたから、御子をお遣わし下さいました。神には人間を救わなければならない義理も義務もありません。そのまま捨て置いてもよかった。だけども、神は私たちをご自分のもとに取り戻したいと願われた。それも、ちょっとやそっとの願いではありません。どれくらいの願いだったか。最愛の独り子を十字架に引き渡すことさえ、して下さったほどに、強く願われた。愛の大きさは犠牲にしたものの大きさでわかります。ですから、なぜ福音宣教をすべてに優先させるのか、その理由は、神が、失われた人間を、限りない犠牲を払ってでも取り戻したいと望んでおられるから。これが神の側からの理由です。そしていつの日か、定められたときに、キリストを信じた者たちが復活して、永遠に神の愛のうちに生きる神の国が実現します。神の国は、神の愛の支配する国。みなが神に愛されていることを知っている国。それが歴史のゴール。歴史のすべての出来事はそこを目指しています。

キリスト教の歴史を見ると、福音を宣べ伝えるために多くの犠牲がありました。迫害や、あるいは未開の地で病にかかったり。ほかにも、多くの苦難に耐えながら福音を宣べ伝えてきました。そのような犠牲があって、こんにち、私たちにも福音が伝えられたので、私たちは福音を信じて、尊い救いにあずかることができました。その背後にあるのは、神の、私たちを求めてやまない愛です。神の、失われた魂に対する愛が教会を駆り立てて、宣教の火を消さずに押し進めてきました。福音が世界に行き渡るということは、神の愛が世界を包むということです。

思えば、イエス様ご自身、この全宇宙を造られた生ける神の御子であられながら、私たちを愛して、私たちをお救い下さるために、天を蹴って人となって下さいました。後ろを振り返らず、まっすぐに十字架の待つエルサレムに向かって下さいました。その動機は、ただ私たちを愛して下さったからです。ほかに理由はありません。ただ私たちを愛しておられる。イエス様は私たちに、この神の愛に気づいてほしい、知ってほしいと願っておられると思います。私たちが神に愛されている確信をもってほしいと願っておられると思います。

ですから今日は、号令一下、すべてを捨てて福音宣教に献身しましょう!というよりも、まずその前に、自分自身のこととして、神が自分をどれほど愛しておられるか、ということに心を向けて頂きたいと思います。その十字架にあらわされた、この上ない神の愛を改めて、受け入れて頂きたいと思います。そしてその十字架の愛をもって神に愛されている確信をもたせて頂きたいと思います。そして自分自身がまず神に愛されている確信に満たされて、他の方々にも神の御愛をお分かちさせて頂けますようにと願います。