礼拝説教要旨 2025年3月16日

御顔をエルサレムに向けて

ルカの福音書9:49-56

<はじめに>

イエス・キリストの使徒というと、どれほど完璧な、きよらかな方々であられることか、と一般の方は思うでしょう。聖ペテロ、聖ヤコブ、聖ヨハネと祭り上げられているのですから、さぞかしすました顔をした、能面みたいな人たちかな、とイメージするかもしれません。ところが、福音書を読んでみると、え?これが使徒?と意外な発見をします。私たちと余り変わらないじゃないか?と安心させてくれる事が記されています。それは、イエス様というお方が、何か特別な人だけを相手にするのではなくて、普通の、失敗もすれば、怒ったり、くだらないことで言い争いをしてしまったりしてしまう、全く普通の人を招いておられることを教えているのでしょう。今日の個所もそんな場面ですが、いつもはこういう役回りはペテロですが、今日は代わってヤコブとヨハネの登場です。

<① やめさせてはいけません:大切なのはキリストの御名の広がり(49-50節)>

前回の所で、イエス様が「わたしの名のゆえに、子どもを受け入れなさい」(48節)と言われたのを聞いて、「そう言えば…」と気になることを思い出したのでしょうか。ヨハネが言いました。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」(49節)イエス様の名によって、子どもを受け入れるべきなら、イエス様の名によって、悪霊を追い出している者をも受け入れるべきだったのか、と思ったのでしょうか。その人は、イエス様の御名を使って、実際に悪霊を追い出すという力あるわざを行っていたけれども、自分たちについて来なかったという理由でやめさせてしまった。新改訳第三版「私たちの仲間ではないので」と訳しています。党派心です。自分たちの仲間か、否か、基準は自分。自分たちの仲間になるならよし、そうでないなら、ライバル関係になるから、イエス様の御名を使って、勝手なことをするな、とやめさせたのでしょうか。派閥争いみたいなことは、古今東西、組織と名のつくところには、どこにでもあるのでしょうか。

これに対してイエス様は答えられました。「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」他の個所では、イエス様の御名を使ってそのような力あるわざをしていながら、そのすぐ後で、イエス様のことを悪く言うことはできないから、とも仰っています(マルコ9:39)。だから、その人も、イエス様の御名を広めるという点で、同じ目標を共有する味方ということでしょう。

判断の軸はキリストの御名がどう扱われているかです。その人が自分たちの仲間かどうかではなく、キリストの御名が基準。なぜなら、人を救うのはキリストの御名ですから。人の魂が救われることを第一に考えるなら、当然、その人が自分たちの仲間かどうかということよりも、キリストの御名ができるだけ多くの人々に宣べ伝えられることを求めるべきです。使徒4:12、新約p. 239

この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

イエス・キリストの御名に人を救う力があります。信じる人に救いをもたらします。なので、使徒パウロは、人々の中にはねたみや争いからキリストを宣べ伝える者、党派心からキリストを宣べ伝える者もいて、それは純粋な動機からではないけれども、しかし、見せかけであろうと、真実であろうと、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられている、このことを私は喜ぶ、と言っていました(ピリピ1:15-18、新約 pp.394-395)。たとえば、ある病気の特効薬があるときに、もし仮に、人を助けたいとはこれっぽっちも考えてなくて、ただ利益を得たいという動機で薬を売っている人がいたとします。その場合、その人がどういう気持ちかは、薬の効き目には関係ありません。客観的に効果があるなら、誰が売っても、効果があるでしょう。もし、愛する人の命がそれにかかっているとしたら、売る人が純粋な動機かどうかなど、気にしないのではないでしょうか。

福音も同じです。それは語る人の気持ちの問題ではなく、福音自身のうちに人を救う力があるのです。福音を信じる者に実際に、客観的に、救いを与えるものです。だから、自分たちの味方かどうかなど関係なく、できる限り広くすみやかにすべての人に届くように、あらゆる仕方で宣べ伝えられることを求めるべきです。それに永遠のいのちがかかっているのですから。象徴やたとえではありません。現実の話です。信じた私たちは、現実に、実際に永遠の苦しみ、滅びから救い出されたのです。福音そのものにその力があるのです。

私たちが信じている福音とはそういうものです。

<② 天から火を下して:若き日のヤコブとヨハネ(51-54節)>

「天に上げられる日が近づいて来たころ」イエス様の地上の生涯が終わりに近づいてきたころです。イエス様は、御顔をエルサレムに向けて、毅然と進んで行かれたと言います。固い決意をもってエルサレムに向われました。向かって下さいました。エルサレムに行くと言って、物見遊山に行くのでもなければ、王座に着くために行くのでもない。私たちの罪のために、十字架につけられるために、向かっておられたのです。

もっとも、弟子たちはこの時はまだそのことを理解していませんでした。いよいよ、イエス様はエルサレムで王として立ち上がられる、その暁には自分も右大臣、左大臣に…と、勝手に算段しては、弾む心を抑えきれず、ニヤニヤと笑みがこぼれる弟子たち…。

ところで、ガリラヤからエルサレムへ行く途中、サマリヤという町に近付いたときに、イエス様はあらかじめ使いを出して、一行が泊まる準備をさせようとしました。今や、イエス様の評判は、イスラエル中にとどろいていましたから、使いに出された弟子たちは、当然サマリヤの人々も歓迎してくれると期待していたでしょうか。ところが、いざ、イエス様が来られると、イエス様の心はエルサレムに向いていたので、サマリヤの人々はイエス様を受け入れなかったと言います。それにカチンと来たのがヤコブとヨハネでした。「主よ。私たちが天から火を下して、この不届きな彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(54節)やってしまいました。やはり、もうすぐ天下を取る気で、浮かれていたのでしょう。すっかり特権階級気取り。しかも「私たちが天から火を下して…」とあります。旧約聖書にはエリヤという大預言者が天から火を下した記事がありますが、自分たちがそれに匹敵すると思ったのか。まあ、彼らもまさか本気でそんなことができるとは思っていなかったと思いますが、半分冗談だと思いますが、もしかしたら、心のどこかにそんな思いがあったのかもしれません。

ヤコブとヨハネの兄弟と言えば、ホットテンパーと言いますか、瞬間湯沸かし器と言いますか。イエス様からボアネルゲ(雷の子)とあだ名を頂戴していました(マルコ3:17)。気性の激しいタイプ。彼らの家は雇人がいるような裕福な家でしたから、小さいころからチヤホヤされてお坊ちゃまだったのかもしれません。そこに「弟子の」ヤコブとヨハネと、わざわざ「弟子の」とつけられているのが、恥ずかしくなるようなセリフです。これが、イエス様の弟子、使徒の言葉…。しかし、後になってヨハネは、あえてこのように書かれるのをよしとしたのでしょう(ヤコブはルカの福音書が書かれる前に殉教)。あえて自分の恥をさらすことをよしと。この福音書を読む後世の人たちに、自分たちもこのような者だった、それでもイエス様はお見捨てにならず、忍耐強く私たちを導いてくださった。だから、あなたたちもこのイエス様に信頼してついていきなさい、と励ますために。後には、こんなふうに自分のプライドを十字架につけて、後世の人たちの益を優先させることができたヨハネでした。そこにもイエス様のご薫陶また御手のわざを見ます。これなら聖ヨハネと呼ばれるのもなるほどです。

<③ 一行は別の村に:静かに身を引かれるイエス様(55-56節)>

そんなヤコブとヨハネの態度をイエス様はお叱りになりました。何と言ってお叱りになったのか。知りたいところですが、書かれていないので残念です。ヤコブとヨハネは「調子乗ってごめんなさい」と言ったかどうか。そして、彼らの態度とは対照的に、イエス様はサマリヤの人々に何も言わず、静かにその場を去って、別の村に行かれました(56節)。それこそ、イエス様ならその気になれば、本当に天から火を呼び下すこともおできになったのですが、そんなことはなさらなかった。そんなことをするくらいなら、神の御子が人となって世に来ませんでした。

ヤコブたちは、天から火を下して、目の前の不届きな村人たちにさばきを下そうと言う。しかしイエス様は、人々をさばきから逃れさせるために世に来られました。人々をさばきから救うために世に来られました。罪びとである私たちが受けなければならない神のさばきを、イエス様が身代わりに受けてくださって、私たちに完全な罪の赦しを与えるために来てくださいました。その目的を果たすために、今、まさに、十字架の待ち受けるエルサレムに向かっていたのでした。ほんのちょっとしたことで、サマリヤの人々に神のさばきを願うヤコブたちの態度と、そのサマリヤの人々のためにも、身代わりに罪を背負って十字架にかかろうとしていたイエス様と。身は近くに置きながら、心のうちにある思いは、まるっきり正反対でした。

イエス様が何も言わずに、黙ってサマリヤを去り、別の村に行かれたというこのお姿が印象的です。思えば、私たちもイエス様に対して、どれほど失礼な態度を取ってきたことか。それでも何も言わないイエス様。イエス様の寛容、忍耐を改めて感謝します。そしてもっとイエス様を敬い尊びたいと願います。また、私たちも、脊髄反射的に怒りを表すのでなく、静かに身を引くという、このイエス様のお姿に教えられたいと思います。

「 心に主の愛 」新聖歌 352番

今日は、この短い個所に2回、「御顔をエルサレムに向け」とありました。そこで、ご自分が罪のためのいけにえとして十字架にかけられる、そのために自分の足でエルサレムに近付いていく。その心中や如何に?さぞかし悲壮な覚悟で…と思います。ところが、ところが、驚くことに、イエス様は喜んで十字架に向かわれました。ヘブル12:2、新約p. 454

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

この喜びとは、イエス様が十字架上で、私たちの罪の赦しを成し遂げた後、その暁には、私たちが晴れて罪赦されて、神のもとに帰ることができ、永遠に神とともに、イエス様とともに御国に住むようになるという、その光景を思っての喜びです。そのために、今は確かに苦しみを受ける。言語に絶する苦しみ。それはイエス様にとっても恐ろしいものです。しかしその苦しみを通った後に、愛する者を再び取り戻すことができるという喜びがある。失われた愛する者を取り戻すことに勝る喜びはありません。その愛が深ければ深いほど、その取り戻したときの喜びは大きいでしょう。イエス様は、ただ悲壮な覚悟でエルサレムに向っておられたのではない。その先に用意されている喜びの大きさのゆえに、その激しい苦しみ、恐ろしい苦しみをも、自ら進んで耐え忍ぶことを、自ら進んで選び取られたのでした。

私たちはイエス様にそのように愛されている者です。神と神の御子が、どんな苦しみと引き換えにでも取り戻したいと思われた、それほどに愛されている存在です。にわかには信じられないことですが、間違いなく、自分がそのように神に愛されている者であることを認めましょう。その神の愛を心に宿して、新しい一週間へと歩み出すことができますように。