礼拝説教要旨 2025年3月9日

信仰によって生きる

ルカの福音書9:37-48

<はじめに>

37節「次の日」前回見た、いわゆる山上の変貌のあとです。イエス様一行、ペテロとヨハネとヤコブが山から降りて来ると、なにやら、黒山の人だかり。人々はイエス様のお姿を見つけるや、喜んで迎えました。待ってました、ついに真打登場か、と好奇心に満ちたまなざしの中に、一人、真剣な思いでイエス様が来られるのを待っていた人がいました。そこには、まぎれもなく、キリストの救いを必要とする罪の世の姿がありました。

<① ああ、不信仰な曲がった時代だ:イエス様の嘆きの意味(37-42節)>

彼は「叫んで」イエス様に懇願しました。「先生、お願いします。息子を見てやって下さい。私の一人息子です。ご覧下さい。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに、霊を追い出して下さいとお願いしたのですが、できませんでした。」マルコ伝によると、悪霊はこの子が幼い時から火の中や水の中に何度も投げ込んだと言います(マルコ9:22)。滅ぼそうとしていたのです。火の中に投げ込まれたと言っては、すぐにそこから引っ張り出してやけどの手当てをし、一晩中、痛い、痛いという泣き声を聞きながらなだめる。水の中に投げ込まれたといっては、死にものぐるいでそこから引き出す。それを幼いときからずっと続けてきた。いつまでこんなことが続くのか…。息子はいつか殺されてしまうのではないか。不安がよぎります。祈祷師や悪霊追い出し屋に頼んでも、ぼったくられるばかりで、どうすることもできない。そんなところに、どんな病もたちどころにいやし、どんな悪霊をも追い出してしまわれるイエス様の噂を聞いて「もしかしたら、この方なら…」と一縷の望みをもって来たというわけでした。

ところが、せっかく子どもを連れてきたものの、あいにくイエス様はおられない。それならと、お弟子たちにお願いしてみたけれども、弟子たちにはできなかった。そのことを聞かれたイエス様はどうされたか。これが意外な反応でした。深いため息とともに、こう言われました。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい。」「どれどれ、さっそくその子を見てあげよう。」と仰るかと思いきや、イエス様の口から思わず漏れたのは、弟子たちの不信仰を嘆く声でした。それも激しく嘆く声でした。「ああ、そうか、しょうがないなあ、今回は私がやるから、あなたたちもこの次からは、もっと頑張るんですよ」などと穏やかな調子ではない。これほど深い嘆きを、しかも露骨に表された。その語気と言いますか、言葉の強さを感じ取っておきたいところです。マルコ伝では、このあと父親とイエス様の会話が記されていて、それはそれでとても意味のあるものなのですが、こちらのルカはそれをいっさい省いて、このイエス様の嘆きを際立たたせているようです。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」イエスさまから、面と向かってこんなふうに言われたら、みなさん、どう思われるでしょうか。けっこう落ち込む…?それとも愛がないと言い返す?イエス様、忍耐がないですね、とか?

前にも言いましたが、イエス様は私たちの弱さに同情して下さるあわれみ深い方ですが、こと信仰に関しては、厳しいことを言われます。なぜでしょう。一つには、私たちの不信仰の度合いが、実はそれ程深刻なものだということに、気付かせるためではないかと、今回思いました。怒られて、初めて、あ、これは本当に悪いことだったんだと気付かされる。そういうことがあるでしょう。アダムの堕落以降、人は本来のあるべき状態から堕落して、本来、人が神に寄せるべき信頼というものから、恐ろしくかけ離れた状態になっている。けれども、何しろ、自分も周りも、世界中がみんな同じような状態だから、自分がどれほど不信仰なのかということに気が付かない。それでも別に困らないから、これでいい、当たり前だと思ってしまっている。一つ、注意する点は、これは神を知らない人に対して言われたのでなく、弟子たちに言われたということ。神を信じていると自分でもそのつもりでいる弟子たちも、イエス様からこんなふうに嘆かれるほど、不信仰な状態だということです。

そこに気づく必要がある。気づくということは大切です。たとえば、病気に苦しんでいれば、それを癒してもらいたいと願うし、そのために何か行動する。苦しいから。あるいは、人に何か、悪いことをしてしまって、それに気づいて、心が痛んでいれば、何かしようと思う。何かできなくても、神に祈ることはできる。祈る必要はわかる。けれども、気づいていないと、何もしない。祈り求めることすらしない。願うことすらしない。できない。なので、イエス様は、不信仰が当たり前の世界に生きている私たちに、それは違う、それを当たり前と思ってはいけない、それは悲惨な状態なのだということを、気付かせようとしているのではないかと思います。こうして叱ってくれることのありがたさというものも、覚えたいものです。叱ってくれるイエス様を感謝。

ところで、本来あるべき神への信頼は、私たちが「悔い改めるぞ!」と一念発起したくらいで回復できるものではありません。人にとって、もっとも大切な、神への信頼が絶望的なほどに、ない。それは大きな罪です。そのままでは決して神に受け入れられることがありません。だからこそ、そんな私たちのために生ける神の御子が救い主となって下さいました。

<② 人の子は、人々の手に渡されようとしています:十字架の予告(43-45節)>

イエス様がその子から悪霊を追い出すと、人々はみな、神の偉大さに驚嘆したと言います。これまでイエス様は次々と、人々を悪霊から解放し、病を癒してきました。イエス様の評判は上がる一方。イエス様はただ、彼らをかわいそうに思い、あわれみの心からなさっていたのですが。癒された人に、誰にも言わないようにと口止めしていたくらいですから。しかし、イエス様の側近として仕える弟子たちは、鼻高々だったことは想像に難くありません。そんな中、イエス様は弟子たちに、よくよくこれから話す言葉を耳に入れておくようにと戒められたのが44節。「あなたがたは、これらのことばをよーく自分の耳に入れておきなさい。人の子(イエス様)は、人々の手に渡されようとしています。」「人々の手に渡される」とは、イエス様を葬り去ろうとたくらむ祭司長、律法学者たちの手に渡されるということ。その結果、十字架につけられることになります。このことは、前にも弟子たちに言われましたが、国中がイエス様人気に沸騰しているこのようなときこそ、のぼせ上がった頭に水を差す必要があったのでしょうか。このような状況の中でも、イエス様は人々から称賛されて浮かれることなく、ただ十字架だけを見つめて、そこからそれることがありませんでした。神の御子はそのために来た。そのために変貌山から再び降りてきたのでした。

イエス様は、このとき、信じるすべての人の罪を背負って、十字架にかからろうとしていました。信じるすべての人の、私や皆さんにまったき罪の赦しを与え、まったくの恵みによって私たちをお救い下さるために、ご自分が呪われた者となって十字架にかかって下さろうとしていた。どうして、ですか、イエス様。こんな私なんかのために…。何度聞いても、ありがたくて、もったいなくて、熱いものがこみ上げてきます。神に対して本来寄せるべき信頼を持てない、どう逆立ちしても持てない、絶望的な状況の中あった私たちのために、その大きな大きな罪のために、イエス様は十字架にかかって下さいました。そのおかげで、私たちは罪の赦しを得ました。イエス様の十字架がなければ、私たちは神に受け入れられることがなく、滅びるばかりでした。イエス様のおかげで、文字通り、命拾いしました。

弟子たちには、このときはまだそのことが隠されていて、理解できなかったと言います。隠されていたと言っても、彼らがイエス様の語られることに謙虚に耳を傾けようとしていたのに、神が意地悪して隠していたというのではなく、彼ら自身の高慢、自己中心、不信仰によって隠されていたのでしょう。そんなことが、あるはずがない、われらがイエス様に。これほどの偉大なみわざをしておられる神のキリストが、そんな人の手に渡って殺されるなんて。そんなことあるわけがない。そんなことになってもらっては困る…。彼らはこのことについて、イエス様に尋ねるのを恐れたとあるので、彼らももしかしたら、少しは不吉なものを感じていたのかもしれません。でも、それには耳をふさいで、聞かなかったことにしておきたい。そんな心理でしょうか。

やがて、時が来たら聖霊が与えられて、彼らの目を覆っていたものが取り除かれ、真理を悟るようになります。が、この時点では、彼らは、まったく理解していなかったことが、次の段落に如実に表れています。

<③ わたしの名のゆえに受け入れる人は:キリスト中心の交わり(46-48節)>

弟子たちの間に議論があったと言います。何を議論していたのか。イエス様の側近中の側近、十二使徒の間の議論というんですから、どんな高尚な議論かと思います。難しい神学論議か、それとも伝道方策に関する論議か、はたまたイエス様が人々の手に渡されるとは、どういうことか等々、そんなことを議論していたのか、と思いきや、なんとなんと、自分たちの中で、誰が一番偉いか?という議論に熱中していたと言うのです。神の国がもうすぐ来ると聞いて、今のうちに力関係を有利にしておこうと、ポジション争いが勃発したのでしょうか。世間でもあるのでしょうか。一人が我が輩が一等星だと言えば、それなら俺はマイナス一等星だと言い、他の者はわしは二等星だが赤色光だし…と。このときの弟子たちも、ヒートアップしたのでしょう。聖霊が注がれる前の弟子たちは、本当に俗臭ふんぷんたるありさまでした。

こういう議論は当然、それぞれが自分の功績や能力がいかに優れているかとか、そんなものを数え上げてアピールすることになるでしょう。自分の得点になることを挙げてポイントを稼ごうとする。自分は何ができる、かにをしたと、この世的な評価で競います。それをご覧になって、神の国はまったく違う原理に立っていることを示すために、イエス様は一人の子どもをそばに立たせて言われました。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」(48節)ここでは、この子どものようになりなさい、幼子のように神の国を受け入れなさいと言っているのではなく、このような子どもを「わたしの名のゆえに」受け入れる人は、わたしを受け入れるのだと言っています。

当時、子どもは、力においても、知識や知恵においても未熟で、役に立たないもの、価値のないものと見なされていたと言います。こんにちでは子どもはかわいらしい、愛らしいというイメージで語られることが多いと思いますが、当時はそういういいイメージよりは、ネガティブなイメージだった。この時の弟子たちの基準からすると、大人の世界の能力主義、功績主義の価値観によって、切り捨てられるもの。このときの弟子たちにとって、こんな子どもなど、眼中になかったのでしょう。受け入れるどころか、眼中にさえなかった。邪魔だ、あっちに行ってろ、といったところでしょうか。

そんな子どもを、イエス様の名のゆえに受け入れる者は、イエス様を受け入れるのだというのです。イエス様の名のゆえに受け入れるということは、その子どももイエス様のものだと認めるということでしょう。世的な基準で見たら、何の役にも立たないと見下されていた子ども、眼中になかった子どもも、イエス様の大切な存在だと認めること。あたかも「イエス・キリスト」という目に見えない札が貼ってあるかのように、イエス様の名のゆえに、その子を受け入れることです。そこには世的な基準で受け入れたり、拒んだりする余地はありません。イエス様がその子どもをご自分のものとされているということがすべて。イエス様は、その子のためにもいのちを捨てて下さったのですから。神の国では―教会ではー、誰一人、何ができるからとか、かにをしたからと言うことで、受け入れられる人は一人もいない。どこかの国の総理大臣でも、大統領でも、はたまた億万長者でも、博士でも、例外はありません。ただイエス様のゆえにのみ、罪赦されて、神に受け入れられる。これが神の国の大原則。一丁目一番地。だから誰も誇ることができないし、誰をも見下すことができない。そんなことをする者は、そもそも自分が神の国に受け入れられているのが、なぜなのか、ということが、わかっていないということです。キリストがその人のために尊い血潮を流されたのだから、神の国/教会では、皆がキリストのゆえに尊い存在です。

そしてそれは、イエス様を遣わした方、天の父なる神のみこころなので、神を受け入れることにもなると言われているのでしょう。逆に、その子ども受け入れないことは、イエス様を受け入れないことであり、神を受け入れないという恐ろしいことになるということ。こう言われて、小さい者たちを侮れなくなったでしょうか。当時、見下されがちな子どもたちを、いかにイエス様が、傍若無人な男たちから守ろうとしておられたか、伺われます。

「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」はその原理の応用でしょうか。例をあげると、晩年のパウロがそうでした。我こそは、罪人のかしらなりと、自分こそがもっとも小さい者であると告白していました。自分を一番小さい者、罪人のかしらと認めるということは、それだけ自分の功績や力を誇ることがいかに愚かな、無益なことであるかを知って、それゆえ、ただキリストにより頼んでいるということ。それだけキリストを必要としていることがわかって、それだけキリストが自分のために十字架にかかって下さったそのご愛が身に染みるということです。そしてキリストを愛するようになる。だから、そういう者こそが、偉大なのでしょう。大切なのは、キリストとの関係です。以前、見たところで、多く赦された者が、多く愛するとも言われていました(7:47)。自分がいかに偉大かを示そうとする者ではなくて、キリストがいかに偉大であるか、―栄光に満ちた神の御子でありながら、こんな自分のためにも救い主となって下さったお方として、いかにあわれみに満ちた偉大な方であるかを知り、ほめたたえる者こそが、神の国における偉大な者ということになるのでしょう。

教会の交わり、兄弟姉妹とのかかわりの土台となるのは福音です。神がキリストのゆえに自分を受け入れて下さったように、私たちもただキリストのゆえに互いを受け入れ合う。神がキリストにあって、私たちを尊い存在として受け入れて下さったように、私たちもキリストにあって、互いに尊い存在として受け入れ合う。そこに、人間的な評価、基準の入り込む余地はいっさいありません。一人ひとりが、福音にふさわしい忍耐と寛容とへりくだりをもって、神の国の交わりは保たれ、建て上げられていきます。

「 信仰こそ旅路を 導く杖 」新聖歌 275番

今日の説教題は「信仰によって生きる」でした。悪霊を追い出せる信仰というわけではありません。私たちの信仰の中心は、イエス・キリストです。私たちのために、大人も子どもも含めて私たちのために十字架にかかられたキリストを信じる信仰。そしてキリストを私たちのために救い主として与えて下さった神の愛を信じる信仰。これらを信じて、キリストに従って歩むことです。キリストの十字架による罪の赦しと神の愛の確信。この信仰をもって、イエス様の御声に聞き従いましょう。