礼拝説教要旨 2025年3月2日

彼の言うことを聞け

ルカの福音書9:28-36

<はじめに>

「これらのことを教えてから」とは、前回見たように、まずイエス様が神のキリストであること、そしてその神のキリストとは、受難のキリストであること「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(22節)そしてこのキリストに従っていく者も、同じ心備えをもってついて行くべきこと「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」こうしてイエス様についていくならば、その先に永遠のいのち、まことのいのちに導かれる。しかし、イエス様から離れるなら、まことの命、永遠のいのちを失ってしまうことになる。甘い言葉でだますようなことはしない。イエス様は真実を弟子たちに語られました。

そして前回見た最後、27節「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」なんと、生きて神の国を見ることになる人がこの中にいると言われました。家も家族も後にしてイエス様に従ってきた弟子たちは、そう遠くない先に、栄光の神の国が訪れると聞いて、すっかりその気になって目を輝かせたでしょう。

これらのことをイエス様が教えて八日ほどして起ったのが、今日の個所ということになります。前の流れを受けての場面として読みましょう。

<① みこころに従うための祈り(28節)>

イエス様は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三羽ガラスを連れて、祈るために山に登られました。イエス様はよく祈られました。朝早く、まだ暗いうちに祈ることもあれば、祈って夜を明かすこともありました。イエス様は随分と願い事があったんだなあ…と思うでしょうか。しかし、聖書の言う祈りは、ただ願い事を言うだけではない。祈りは心を神に向けて、神と向き合うことです。ですから、祈りは神の御前で、自分の考えや行動を正す、軌道修正するということもあります。肉の思いで、つい反応してしまいそうなとき、間違った方向に行きそうなときに、祈りの中で神の御前に出ることによって、正しい位置に引き戻される。守られる。祈りが本当にいいものだ、自分に必要なものだと実感するのは、祈りのこういう面を体験したときではないかと思います。これが習慣化するに従って、ますます祈りが慕わしいものとなるでしょう。「静けき祈りの時は いと楽し さ迷い出でたる わが魂を救い 危うき道より 伴い帰りて 試むる者の 罠を逃れしむ…」(新聖歌190番)

イエス様も、おおぜいの病人を癒して評判になり、次から次へと人が押し寄せ、ゆっくり休む間もない中でも、時間をとって、場所を聖別して祈られたのは、そういう面があったのではないかと思います。恐ろしい、神の御怒りが注ぎ出される十字架への道を進むのは、イエス様にとっても簡単なことではなかったはずですが、祈りのときを聖別して、天の父のみこころからそれることなく従い通されたのでしょう。

<② 栄光の神の御子が十字架に(29-31節)>

さて、イエス様は祈っているうちに、本来の神の御子としての栄光のお姿に、一時的に戻られました。マタイによると、御顔は太陽のように輝き、衣は、光そのもののような白さに輝いたと言います(マタイ17:2)。永遠の昔から、この世界が造られる前から、持っておられた永遠の神の御子としての栄光。本来なら、肉なる者が誰一人、近づくことができない、聖なるお方です。この箇所は「山上の変貌」と呼ばれる箇所ですが、実はこっちが本来の姿で、人間の姿をまとっておられる姿のほうが、変貌したお姿です。イエス様は、幻想的なアンドロメダ大星雲も、銀河系も、それらが無数にあるという、大宇宙をも造られた、聖なる神の御子。すべてのいのちの源。永遠の昔からおられる神ご自身。

この栄光に輝くイエス様のところに、モーセとエリヤが来たと言います(30—31節)。旧約の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤ。律法も預言書も神が備えておられる救い主を指し示すものでした。そこには、罪の中で滅ぶばかりの人類を救うために、救い主はどういうことをするのか、しなければならないのか、記されていました。その律法と預言書を代表する二人が、イエス様がエルサレムで遂げられる最期について、つまり十字架の死について話していた。励ましていたのでしょう。繰り返しになりますが、十字架の道を選び取るということは、イエス様にとってさえも、生ける神の御子にとってさえも、生易しいものでは決してなかった。それはただの死ではなく、私たちの罪に対する神の裁き、御怒りを受けるということですから。

この箇所から改めて思うのです。あの十字架にかかられたのは、ただの人間ではなかった。ただの博愛主義者とか、宗教的天才などではない。実に、栄光に輝く神の御子だったということを。この本来、栄光に輝く神の御子が、十字架にかかられたのだということを。

このとき、一時的に栄光のお姿に戻られたのは、もう一度、神の御子としての自由な立場で、十字架への道を選び取るか、どうか、決断をする必要があったからでしょうか。イエス様の公生涯の折り返し地点に来て、改めて、そのことを問われた。イエス様はここで、やっぱりヤーメタ!と天に戻ることもできました。神の御子が人のために身代わりに十字架にかからなければならない義理も義務もありません。自由に選ぶことができました。神の御子が私たちの罪のためのいけにえとなるのは、強いられてではなく、まったく自発的でなければいけませんでした。そして神の御子は、まったく自由な中で、自ら、十字架に向かう道を選び取られたのです。誰のため?私たちのため。私たちを滅びから救い出すために。そして永遠に私たちを生かし、私たちとともに生きるために。その生ける神の御子のご愛に、私たちの目が開かれますようにと祈らされます。

<③ イエス様のことばをちゃんと聞いているか(32-36節)>

ところで、いっしょに山に登ったペテロたちはどうしたのでしょう。イエス様の最期について語っている緊迫した空気をよそに、彼らは何と「眠くてたまらなかった…」前後左右に舟を漕ぎながら、それでもハッと気が付くと、そこにはまばゆく輝く栄光に満ちたイエス様とモーセとエリヤが話している光景がありました。生きているうちに神の国を見ると言われていた、その神の国が今、来た!と思ったか。それとも、半分眠りかけていたのがバレないように、何か言わなきゃと思ったか。われらがペテロはまたまたやってくれました。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」すっかり舞い上がっているペテロ。何しろ、旧約のあの大偉人モーセとエリヤと自分がいっしょにいるのですから。「私たちがここにいることはすばらしいことです。」さらに記念の幕屋まで造ろうと言い出す始末。イエス様たちは、十字架のご最期のことを話しておられたというのに、この浮かれよう。まさに「ペテロは自分の言っていることがわかっていなかった。」です。

天の父なる神も、あたかも「もういいから、黙りなさい」とペテロの言葉をさえぎるかのように、彼がまだ話している最中に、雲でその場を覆われました。「ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。」そして雲の中から声がしました。『これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。』」こう言われたとき、そこに見えたのはイエスさまだけでした(34-36節)。「ペラペラと見当はずれなことを言う前に、まずちゃんと彼の言うことを聞きなさい。」確かに、ほんの一週間ほど前に、イエス様は何と言っておられたか。「…人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、…」人間、聞きたくないことは聞かないもの。ペテロも、音としては聞こえていたけれども、「そんなこと、あるわけない」と決めつけていた。もしペテロがイエス様のこのみことばをちゃんと受け止めていたら、こんなふうに浮かれることはなかったでしょう。

私たちもこの「イエス様が語っていること」を受け流してはいないでしょうか。「日々、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」神は私たちにも言われます。「彼の言うことを聞きなさい。」

「 恵みの御言葉を わたしにも聞かせてください 」新聖歌 40番

最後に、神は私たちに、まず聞くことを求めておられるということを心に留めたいと思います。聞く姿勢、あるでしょうか。「主よ、語りたまえ。あなたのしもべは聞いております」と祈る人が一人いるとすれば、「主よ、聞きたまえ。あなたのしもべが語ります」という人は十人いると言います。どっちが主で、どっちがしもべかわからない逆転現象…。

旧約聖書に、「主よ、お語り下さい、しもべは聞いております、」と祈ったサムエルという人がいます。彼は言いました。Ⅰサムエル 15:22、旧約p. 505

「【主】は、全焼のささげ物やいけにえを、【主】の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

神に聞くことをせずに、勝手にいくら高価な牛や羊のいけにえを捧げて、神に対して善いことをしたつもりになっても、功績を積んだつもりになっても、何にもならない。こんにち風に言えば、どれほど多額の献金をしても、どれほど多くの奉仕をしても、神の御声に耳を傾けることがなければ、神に喜ばれないということです。神が喜ばれるのは、私たちの心。私たちが神をお慕いし、信頼して、神が語られるみことばは、良いものと心から信頼して、自分から進んで神のことばを求め、聞き従うことです。そのような心、信仰の従順こそ、何よりの神へのささげ物なのでしょう。

考えてみたら、聖なる聖なる神が、私たちにみことばを下さるということ自体、大きな恵みです。せっかく神が語ってくださったみことばを粗末にするなど、あってはならないこと。しかもその語られるみことばの内容がまた恵みで、私たちにまことのいのちを与え、それも豊かに与えてくれるものです。罪に気づかせ、悔い改めに導き、そして罪の赦しを与え、きよめを与え、イエス様の似姿へと造り変え、まことのいのちに富む者とし、天国へと導いて下さる。そして計り知れない神の愛に気づかせて、世が与えることのできない平安、喜びを与えてくれるみことばです。

キリストが語られるみことばに聞くとは、現代では具体的には、第一に聖書を読むこと。聖書通読、デボーション、毎日配信している「今日のみことば」や、ほかにも今は、みことばを配信しているサービスがあります。一つに限る必要はないので、みことばに触れる機会をいくつか持つと良いと思います。一日一章のような本もよいでしょう。その中で、今日はこのみことばが心にとまったとか、今の自分にはこのみことばが必要かもしれないとか、イエス様は今、このみことばで自分を励ましておられる、あるいは注意を促してくださっている、訓練して下さっている、と思えることが必ず出てきます。従うつもりでみことばを読む者を、主は必ずそのように祝福し、導いて下さいます。

もちろん、礼拝や祈祷会などで語られるみことばもそうです。キリストは教会という通路を通して、必要なことを教え、またご自身のみこころを示すことがあります。教会は聖霊が働かれる通路で、兄弟姉妹方との交わりを通しても語られることがあるでしょう。

大切なのは、主に従うつもりでみことばに聞くこと。ペテロのように、自分の気に入らないところは無視するのでなく。ご自分のいのちを捨てて、私たちにいのちを得させて下さった真実な羊飼いなる主の御声をちゃんと聞く。そういう幸いな羊でありたいものです。