今日の個所は、福音書の中でターニングポイント、転換点となるところです。これまで前半では、病人を癒したり、悪霊を追い出したり、死んだ人をよみがえらせたり、はたまた荒れ狂う暴風と大波を「黙れ、静まれ」と一喝して静めたり、そして前回見た五つのパンと二匹の魚で五千人以上のはらぺこの群衆をおなかいっぱいにしたり、と全能の力あるお方としてキリストを記してきました。それがこの個所からの後半は、ほふられる羊のように、十字架に向われるキリストとして記されることになります。
「イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。」(18節)弟子たちも一緒にいたけれども、祈っていたのはイエス様お一人だったということでしょう。祈り終ると、イエス様は彼らにとても大切な問いを投げかけました。イエス様を、誰だと思うか。とてもとてもとても重要な意義のあることです。何しろ、その応答次第で、文字通り、天国と地獄に運命が分かれるのですから。人は、たくさん善行を積んだら、たくさん献金したら、天国に行けるのではありません。ただイエス様が誰だと思うか、どなたと信じるか。その一事にかかっています。イエス様に対する信仰の告白はそれほど重大な意義のあることです。
イエス様は弟子たちの告白を導くにあたって、いきなりストレートに聞かずに、彼らが正解しやすいように上手に導いておられるようです。まず、群集はわたしのことを誰だと言っていますか、と問いかけて、そのあとで、では、あなたがたは何と言うか?と問えば、何となく他の群集とは違う答えに傾くのではないでしょうか?群衆が言っていることは、前の7,8節に記されていたのと同じです。バプテスマのヨハネだ、いやエリヤだ、いや昔の預言者の一人だ…しかし、どれも不正解。こうしてお膳立てをしてあげて、では、あなたがたはわたしをどう思うのか、と問われると、弟子たちを代表してペテロが答えました。「神のキリストです。」詳しい説明は省略しますが、キリストとは、神がお遣わしになると昔から預言されていた「救い主」を表す称号です。ですからペテロはここで、イエス様、あなたこそ、神が昔から預言しておられた、あの待望の救い主です、と告白しているわけです。
イエス様をキリストと告白することくらい、それほど大したことではないかのように思うかもしれません。彼らはこれまでさんざん、イエス様が奇跡をおこなわれるのを見てきたわけですし。しかし、マタイ伝によると、イエス様はこのとき、ペテロに「あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは、天におられるわたしの父です。」と言われました(16:17)。自分の力、自分の悟りによるのでなく、天の神があなたに明らかにして下さったのですよ、良かったですね、幸いですね、と。彼らがこれまでイエス様の奇跡をの数々を見てきたことも用いて、それも含めて、天の父が彼らに示して下さったということです。
私たちがイエス様を救い主と信じることができたのも、それぞれにそこに至るまでの導きがあったと思いますが、それらすべてを含めて、天の父なる神が私たちを導いて、信じるようにして下さったのです。クリスチャンホームに生まれ育った方たちも、そういう環境だったからというだけでなく、その環境も含めて天の父が聖霊によって信じることができるようにして下さったから、信仰告白ができたのです。そう思うと、また改めて、天の父なる神への感謝を新たにさせられます。
なお、21節で、このことを誰にも言ってはいけないと命じられたのは、実はこのとき、五千人の給食の後、民衆がすっかり興奮して、イエス様を救国の王として担ぎ上げようとしたことがあったからかもしれません(ヨハネ6:15)。このまま、政治的な王として担ぎ上げられるのは、神のみこころではありませんから、そのような運動を盛り上げないように固く口留めされた。民衆運動というのは、いったん火が付くと止められませんから。
さて、こうしてペテロは第一段階はクリアしました。お次は第二段階へと進みます。イエス様がキリストだということは、わかった。信じた。では、そのキリストとは、どういうことをなさるのか。これが、ペテロたちが夢にも思わなかったことでした。「人の子(キリスト)は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない。」彼らは、エッと耳を疑ったでしょう。彼らが描いていたのは、力と栄光に満ちたキリスト。まことの神を知らぬ異教徒のローマ帝国を打ち破り、この世から悪を除き去って、全地に神を知らしめ、その結果、神の平和と繁栄が実現する。そんな栄光の神の国をもたらすヒーローを思い描いていました。今まで見てきたイエス様は、そういう力あるお方でした。
それも確かに旧約聖書が預言するキリストの一面です。しかしそれは、ずっと先のこと。キリストが二度目に来られる時に実現することです。その前に、キリストが最初に来られたときには、まず信じる人たちのために、罪の赦しをもたらすなだめの供え物としてご自身を捧げる必要がありました。それがあの十字架でした。本当の神の国は、神と人とがともに住む所。だから、罪の赦しなしに、神の国は実現しない。罪の赦しがあって初めて、神は人と共に住むことができる。永遠に神と人とが共に住む神の国が実現するのです。そのために神の御子はキリストとして世に来られたのです。
そのことが、このときの弟子たちには、まだわかっていませんでした。てっきり、イエス様はこのまま王となって世界を治めるものとばかり、思っていました。それが、「祭司長たちに捨てられ、殺され…」?それは困るとばかりに、マタイ伝によると、ペテロはこともあろうに、イエス様をいさめ始めたと言います。主よ、何を弱気なことを言っているんですか。そんなことがあなたに起こるはずがありません、と(16:22)。いや、そんなことになってもらっては、困る、というのが本当の所でしょう。あなたがそんなことになったら、私まで危なくなる。もちろん、ペテロはイエス様に叱責されました。
とはいえ、イエス様にとっても、十字架の苦しみを受けるのは、容易なことではありませんでした。私たちの罪を背負って、神の御怒りを一身に引き受けるのですから。最初にイエス様が祈っておられたのは、このことを受け止めるためだったのかもしれません。
忘れてはならないのは、自分を捨てる、自分の十字架を負うと、それだけで終わりではなくて、そのあとに復活があるということ。十字架のあとに、まことの栄光、神からの栄光が待っているということです。キリストについていくということは、十字架までではなくて、その後の栄光もキリストと共にするということです。永遠のいのちを得、永遠の御国でキリストと栄光を共にするということまで見通して従うのです。パウロも言っていました。ローマ8:17「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」キリストと苦難をともにすることは、キリストとともに御国の共同相続人であることのあかしです。
キリストに従うとは、現代日本では、イエス様の時代や、高山右近の時代のような迫害はありません。しかし、戦時中のように、時代が時代なら、そうではありません。そういう状況になったときに、このように自分を捨て、自分の十字架を背負って、キリストに従い通す者でありたいものです。それはその時になってイキナリ、そういう行動ができるものではなく、日頃からキリストに従う歩みをする中で、信仰の筋肉がついていくものなのでしょう。日々の生活の中で、キリストの教え、聖書の価値観に従うこと。それは、罪の世から反感を買う場合もあるかもしれません。異教的な習慣を求められる場面とか。不道徳なことから距離を置いて、偽善者と言われるとか。闇は光を憎むものです。それでクリスチャンであることを隠していたいという誘惑にかられるかもしれません。
しかし、そんな時、考えてみなければなりません。私のために、人々からはずかしめを受け、十字架にまでかかって下さったお方を、こんなふうに恥じていいのだろうかと。むしろその方が恥ずかしいことではなかったか。「御名のため 受けし傷跡 持たずして 御前にいづる 恥知るや君」誰かが歌った歌です。イエス様のゆえに被った傷一つ持たないでイエス様の御前に出ることの恥ずかしさ。
私たちのまことの羊飼いとして、私たちを愛し、私たちと伴い、私たちを守り、導いておられるイエス様こそ、まことのいのち、永遠のいのちであられます。私たちもイエス様を愛し、イエス様に従い、イエス様の御名をあかしする者であらせていただきたいものです。