今日の説教題「五餅二魚」という言葉は、あまりなじみのない言葉かもしれません。ただ聖書に親しんで来た方は、字を見れば、何となく予想はつくでしょうか。餅はパンのことで、五つのパンと二匹の魚。今日の個所のことです。昔、神学校に入学した時、男子寮の談話室みたいなところの壁に、この言葉が書かれた色紙が掲げられていました。みな、神の召しに従って、経済的なことは神がすべて備えてくださると信じて、神学校に飛び込んできましたが、ふと、将来のことを考えると、ちゃんと家族を養っていけるのか、老後は大丈夫か…?などと、不安に襲われる瞬間があっても不思議ではありません。そんなときに、この「五餅二魚」によって、改めて信仰に立たせて頂いた人たちも、いたのだろうと思います。
今日の所は、内容的には6節の続きとなります。イエス様が弟子たちを伝道旅行に遣わされて、彼らが帰ってきたところです。
イエス様も、そんな彼らを追い払いなどなさいません。喜んで彼らを迎えました。せっかく休もうと思って静かなところに来たのに、とイヤイヤながら、仕方なしにでない。他の福音書には、イエス様は彼らを羊飼いのいない羊のようで、深くあわれんだとあります(マルコ6:34)。神の恵みを求めて、神の国の教えを求めて、また癒しを求めて、ご自身のもとに来る者を、イエス様はどれほど慈しんで、喜んで迎えて下さったことでしょう。彼らの存在は、イエス様を喜ばせるものだったのです。
こんにちも、今、こうしてみなさんがイエス様に会いに、イエス様の恵みを求めて、礼拝に来ているのを、イエス様は喜んで迎えて下さっているのでしょう。また、私たちが朝、あるいは日中、あるいは夜、聖書を開き、また祈りによって思いをイエス様に向けるとき、このときのようにイエス様は喜んで、私たちを迎えてくださることでしょう。私たちもイエス様を喜ばせる存在なのです。逆に、そっけない態度で、祈ることもしないで、イエス様と疎遠になってしまっていたとしたら、イエス様にさびしい思いをさせているのではないか、などとも思います。イエス様は、ご自身を、ご自身の恵みを、また教えを求める者を喜んで迎えて下さいます。イエス様が喜んで迎えて下さるのです。みことばと祈りによって、頻繁にイエス様のもとに行って、イエス様をお喜ばせしましょう。
ところが、イエス様は、耳を疑うことを命じました。「あなた方で、彼らに何か食べるものをあげなさい」手元には五つのパンと二匹の魚しかない。群衆は男だけでおよそ五千人。どうやって?一応、弟子たちは方法を考えました。私たちで近くの町に行って買ってくるということでしょうか?いやいや、それだって無理。ちょっと足りないという程度なら、工夫のしようもありますが、パン五つと魚二匹で五千人からの胃袋を満たすのは、どう考えても無理です。どうしてイエス様は、こんな無理難題を仰ったのでしょう。ヨハネの福音書によると、イエス様が彼らを試して、こう言われたとあります(ヨハネ6:6)。彼らの信仰を試されたということでしょうか。人間的には不可能と思われること。だけども、こういう状況でもなお、天の父が養ってくださるだけの力と、そして父としての慈しみ、父としてのご愛を信じられるか。この信仰のテストはキツイと思います。私ももしこの場にいたとしたら、あえなく撃沈だと思います。おそらく誰一人受かる人はいないでしょう。しかし本来、私たち人間が神に寄せるべき信頼は、このレベルだということでしょう。そしてその基準を満たせない不信仰は、罪ということです。絶望的です。やはり、自分にはイエス様の十字架が必要だった、イエス様、ありがとうございます、と手を合わせます。この、本来、人が神に寄せるべき信頼の基準を満たしているのは、イエス様ただお一人です。この時の弟子たちにも、そんな信仰はありませんでした。ただイエス様にはありました。頼りになるイエス様です。このイエス様が一緒なら、大丈夫。そう思わせてくれるイエス様です。イエス様は弟子たちの目の前で、天の父の力と愛とを彼らに見せてあげ、また体験させました。
弟子たちは、イエス様の言われる通りに従って、この神の恵みの奇跡を見ることが出来ました。弟子たちも、最初イエス様に言われた時は、イエス様がいったい何を考えているのか、わからないまま、とりあえずイエス様の仰るとおりに従ってみた、というところでしょう。従った彼らは、驚くべき主のみわざを目の当たりにすることになりました。ここで彼らが、「馬鹿らしい。現実を見ろ。五千人以上の群集に、たった五つのパンと二匹の魚で、どうやって食べさせろと言うのか」と捨て台詞をはいて、サッサとどこかへ立ち去ってしまっていたら、このみわざを体験できなかったのです。たったこれっぽっちでどうなる、と思うようなものでもいいのです。神はあるものを用いられる。あるものを祝福して大きく用いられるのです。大切なのはイエス様に信頼して、お従いすること。信仰の従順です。
弟子たちは、別に何か特別なことをしたわけではありません。弟子たちがパンを増やしたわけではありません。ただ、イエス様の指示に従っただけです。イエス様が、五十人くらいずつ、組にして座らせなさい、と言えば、そのように座らせる。イエス様が、パンを群衆に配るようにと弟子たちに与えたら、その通りに群衆に配る。それだけです。でも、その小さな奉仕を通して、イエス様が大きな奇跡を行われ、大群衆を満ち足らせたのです。
これと似たような事は、ガリラヤのカナでの婚礼で、イエス様が水をぶどう酒に変えられた時にもありました。当時、一週間ほども続く結婚披露宴で、ぶどう酒がなくなった時、イエス様はそこにあった水がめにただの水を満たすように言い、そしてその水がめから汲んで宴会場に持って行きなさい、と言われたので、人々がその通りにしたら、それは最上のワインになっていた。その時も、水をワインに変えたのはイエス様。人々はただイエス様に言われた通り、水がめに水を満たして、そしてそこから汲んで、披露宴会場にもっていっただけ。しかしその奉仕を通して、イエス様は最初の栄光をあらわされた、とヨハネの福音書に記されています(ヨハネ2:11)。
私たちも、主に導かれるままに、できることをして、主にお仕えさせて頂きましょう。私たちのお捧げするほんのささやかな奉仕の先に、主の栄光が現れるみわざが用意されているのかもしれません。こんなことをして何になるのか、と思われても、イエス様に示されて、信仰をもって決めたことなら、やり続けることです。それこそいのちのパンであるキリストを隣人に配る奉仕。キリストをお分かちすること。人を救うのはキリスト。私たちはただキリストをお伝えするだけ。いのちのパンを配るだけ。それでひとりでも飢え渇いた魂が救われ、満ち足りることができたら、それは私たちの大きな喜びです。
以上、今日は、有名な五千人の給食と呼ばれるところを見ました。ここから最後に二つのことを覚えたいと思います。
一つは、イエス様はご自身に従う者たちの羊飼いとして、その必要に心を配り、満たしてくださる方だということ。パンがなければ、かすみでも食っておけ。武士は食わねど高楊枝、などと仰らない。私たちの肉の糧のこと、生活の必要に心を配って、満たしてくださる。時に不思議な方法で満たしてくださることもある。そういうあかしは枚挙にいとまがない。イエス様は目に見えないお方ですが、目に見える形で、私たちの必要を満たしてくださいます。
もう一つは、イエス様は肉の糧を与えるだけでなく、永遠のいのちを与えるまことのパンを与える方だということ。永遠のいのちを与えるまことのパンとは、イエス様ご自身のことです。ヨハネ6:48-51
キリストが生けるパンで、誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きる。食べると言っても、実際にイエス様にガブリと噛みつくわけにいきませんから、これは普通に信じるということ。信じて、心の中に受け入れる。それが、イエス・キリストという、いのちを与えるパンを食べるということです。イエス様は、やがて死んでいく肉体の命の糧以上に、永遠のいのちを与えるまことのパンをこそ、ご自身をこそ、私たちに与えたいと願っておられます。そのために、イエス様は、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかってくださいました。それによって私たちが罪赦されて、神のもとに立ち返り、永遠に神とともに生きるようになるためです。それがまことのいのち、永遠のいのちです。神は私たちを愛しておられるので、そのまことの、永遠のいのちを与えたいと思われました。この神のお心を、私たちに向けられている神のお心を思う者でありたいと願います。そのために神は、尊い一人子を救い主としてお与え下さいました。
地上の歩みを豊かな恵みで満たして下さり、そして神とともなる永遠のいのちの道を伴って導いて下さるイエス様を思って、心から感謝し、賛美をおささげしましょう。