章が改まって9章に入ります。これまで、ペテロをはじめとする弟子たちは、イエス様について来なさいと召されて以来、いつもおそばにいて、イエス様の教えを聞き、イエス様のみわざ、驚くべきみわざを何度も目にしてきました。そして、今度はいよいよ、イエス様から遣わされて、福音を宣べ伝えることになります。人材育成の名言として知られる「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」で言えば、ここで「させてみせ」の段階に来たということでしょうか。
イエス様が彼らを遣わされた。派遣元はイエス様ということ。イエス様の看板を背負って、キリストの旗を立てて、ほうぼうで福音を宣べ伝えた。彼らが宣べ伝えた福音は、イエス様が語られた福音と受け取られるわけです。たとえば、取引先に会社から遣わされて、会社の意向を先方に伝えるという場合、相手方はそれを会社の意向と受け取ります。その人個人の意見とは思わない。会社の看板を背負って出向いているわけです。同じように、使徒たちもイエス様の看板を背負って福音を宣べ伝えるわけです。だから、イエス様は他の所で、弟子たちを派遣される際に、あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです(マタイ10:40)、また、あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です(ルカ 10:16)と言われました。
だとすると、です。そんな責任重大な務めを、弟子たちに任せて大丈夫なのかな、と思ってしまいます。この時点ではペテロやヨハネをはじめ、弟子たちはまだまだ肉の思いでいっぱい、俗臭ふんぷんたる紛れもない俗物でした。誰が一番偉いとマウントを取り合い、何か忘れ物をしたときには、お互いにお前のせいだと責任をなすりつけようとする。そんな彼らに悪霊や病気を追い出す力と権威まで与えて、大丈夫かな?と。実際、後の方では、イエス様の御名を使うと、悪霊どもがみな言うことをきく!と喜んでいたと言います(10:17)。気分が良かったのでしょう。人から感謝されるし。まるでヒーローにでもなったような気分で。イエス様はそんな彼らを優しく戒められましたが。喜ぶべきことは、それではないでしょう、と。
ともかく、聖人とはほど遠い弟子たちです。けれども、イエス様はそんな彼らを遣わしました。ご自分の名を用いる権威まで与えて。イエス様の召しとは、そういうもの。完全な人―そういう人はいないと聖書は言っていますがーを召すのでなく、欠けのある、不完全な者を召して遣わされる。神の宣教のわざに用いてくださる。神お一人でやってしまった方が早いでしょうに、あえて人を召して、世話の焼ける人間と共にみわざを進めてくださる。ここにも、神の愛があります。人にも、福音のため、神の国のために労する栄光と恵み、喜びを分け合ってくださるのです。
パウロのことばを一つ。第二コリント12;9、新約p. 371
大使徒パウロも自分の弱さをかかえながら、宣教に励んでいたのでした。弱さを言い訳にしないと言いますか、むしろ、キリストの力があらわれるところとして、誇るという、この発想と信仰に学ばせて頂きたいと思います。
小畑進編著「きょうの祈り」の一節。「恵み深い主よ。私に単純さをお恵みください。あれもこれもと、アリのように集め、ワシのように握ろうとしているうちに、本末転倒して、第一にすべきことは後回し、どうでもよいことに心を腐らせる愚かさから救い出してください。くつを頭にいただき、冠を足にはくようなこととなりませんよう。やはり、第一に神の国と神の義とを求め、何よりも神のご栄光を望み、専一に主の御心を仰がせてくださいますように。…何も持たずに旅立たされた弟子たちのように、自分のより頼むものとは何かを確かめたならば、そのたった一つのものをかざす、さわやかな心根、真一文字の生き方をもって、心すずしく行く者としてくださいますように。」
さて、5節に注目します。「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」足のちりを払い落とすとは、自分はここの町の裁きに関して、ちりほども責任がありません、ということを表すしぐさです。福音を伝える責任は果しました。あとは、福音を受け入れるか、拒むかはあなたの責任。ボールはそちらに渡されました。どうするかは、あなたが決めること。その結果もあなたが負うことです、と突き放して考えさせる意味もあったでしょうか。
使徒たちは、福音を宣べ伝えるために遣わされましたが、相手を信じさせることではない。それはできないこと。伝えるところまでが責任。あとは、それを聞いた人自身が決めることです。その境界線を明確にしておく必要があります。どこまでがこちらの責任範囲で、どこからが相手の責任範囲なのかということ、その線引きを境界線、バウンダリーと言います。これがあいまいだと、まるで伝えはしたものの、相手が信じないのは、自分の責任であるかのように感じてしまったりする。日本では、そう感じるのを美徳であるかのように思ってしまうところもある。日本人は特に、この境界線という考え方が苦手で、それがいろんなトラブルの原因になっていると言います。境界線は、神が定めたものです。イエス様はユダに対しても、十二分に教え、愛情を注いで導いたはずですが、ユダはイエス様を裏切る道を選んでしまった。それはイエス様の指導が不十分なのではなく、ユダ自身の責任ということです。
エゼキエル書 33:7-16(旧約pp. 1473-1474)で、神は次のように言われました。
伝える側の責任というものがある。相手が聞いても、聞かなくても。そして福音を聞いて、信じていのちを得る人もいれば、拒んで滅びに留まる人も、いる。その例として次に領主ヘロデのことが記されます。
ヘロデは、どういうつもりでか、わかりませんが、イエス様に会ってみたいと思ったとあります。他の福音書には、このヘロデは、悪いことをしていながら、どこか、それをちゃんと責めてくれる神の人バプテスマのヨハネのことを、恐れつつも喜んでいたと書いてあります。そのヨハネのよみがえりとうわさされるイエス様が、どういう人物なのか、会ってみたいと思ったのか。どういう興味であれ、ともかくイエス様に会いたいと思った。けれども、けれども、それでいて、会ったとは書かれていません。結局この時は、会わなかった。十字架につけられる前夜に、総督ピラトから回されてきたイエス様とほんの二言三言、言葉を交わしただけで、ヘロデは結局最後まで、イエス様にキチンと会おうとしなかった。
イエス様に会おうと思いながら、結局、会わなかった。明確にノーと拒絶するわけでもなく、かといって信じるというわけでもない。熱いでもなく、冷たいでもない。こういうのが一番恐ろしい。病気でも、どこか痛くなって、すぐにわかるほうが、すぐに治療できるからまだいいですが、ちょっとだるいなー程度で、いつか時間ができたら病院に行こうと思って、ズルズル行かないでいるうちにドンドン進んでしまって、というパターンが一番怖い。魂のことでも同じです。多くの人が、死後のこと、気にならないわけではないかもしれません。天国なんてあるのか、地獄があるのか、キリスト教の言う永遠のいのちはどうなのか、まったく興味がないわけではないけれども、いつかは話を聞いてみてもいいとも思うけれども、宗教の話は年を取ってから聞こう。若いうちはやりたいこともあるし。で、そのままになってしまう。そして手遅れ、ジ・エンド。魂の問題、永遠にかかわる問題は、後回しにしないで、気持ちが少しでも向いたら、すぐに求めるべき事柄です。
国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」という作品があるそうです。その中である男が夢を見ます。死んで、地獄の門の前にいる夢です。そこには彼と同じように、生前、何度も何十度も、他人の葬式に出ていながら、自分がこうしてここにいるようになるとは考えていなかった人たちがたくさんいたといいます。私たちも、死んでから、生きている間にしたすべての罪のツケがどっと一度に来られたら、たまったものではありません。生きているうちに、神が下さった救い主イエス・キリストが、私たちに罪の赦しを与えるために、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったという、この福音を信じることが必要です。
神は世の終わりにすべての人をお裁きになります。しかし神が切望しておられるのは、罪びとが信じて、悔い改めて、救われることです。先ほどのエゼキエル書は、次のように続いています。33:11 。
神に背を向けていた者が神のもとに立ち返り、罪の赦しを受けて、神とともに生きるようになることを、神は喜ばれます。放蕩息子を大喜びで迎え入れた父親のように。私たちは神に愛されている者なのです。