「イエスが帰って来られると」(40節)前回見たガリラヤ湖の東岸、ゲラサ人の地からカペナウムにでしょう、戻って来ました。そこには大勢の人々が首を長くして待っていて、喜んで迎えたと言います。前のゲラサ人が、どうかお引き取り下さい、と丁重に追い出したのとは対照的です。しかし彼らのうち、どれだけの人が真実にイエス様を待っていたのか。ただひと目、イエス様を見たい、イエス様が行う奇跡を見たいと、まるでマジックショーでも見るような野次馬がほとんどだったかもしれません。
しかし、そのうち少なくとも二人は、切実にイエス様を待ちわびている人がいました。
足もとにひれ伏して:一心に求める信仰 ( 40-42節 )>
こんな話があります。インドのガンジス川の岸辺に座っていた聖者に青年がたずねた。「神を見い出すためには、どうしたらいいのでしょうか」すると聖者は、やにわに彼の襟首をひっつかむと、川の中に彼の顔を沈めた。必死でもがいて川から上がった青年は激怒して言った。「何でこんなひどいことをするんだ!」するとその聖者はすました顔で答えた。「おまえがこの川のなかに浸けられていたとき、必死になって空気を求めたじゃろう。そのようにして神を求めるなら、必ず神を見い出すことができるのじゃ」聖書のみことばでは、「求めなさい、求め続けなさい。そうすれば与えられます」ということでしょうか。
イエス様は彼の切実な求めに応えて、彼の家に向かいました。野次馬どももゾロゾロとイエスさまのあとについていきます。必死のヤイロとは対照的に、群衆は、これはおもしろくなってきた、と興味津々だったでしょうか。ところが、ヤイロの家に向かう途中、思わぬアクシデントに遭遇します。イエス様を切実な思いで待ち望んでいた二人目は、12年間、長血をわずらった女性でした。こちらはこちらで、必死でした。
わたしにさわったのは、誰ですか:信仰を公にすることの大切さ(43-48節)>
ところが、ここの箇所は、それでメデタシ、メデタシではありませんでした。イエス様は立ち止まると、後ろを見回し、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われました。ワイワイと賑やかだった空気が変わりました。みな口々に「俺は触ってない」と白を切ったと言います。罪の世ではあるあるなのかもしれません。こういうところで平気でウソをつけない人が割を食うことになる。正直者は生きづらさを感じるのかもしれません。弟子のペテロは、イエス様、こんなに人々が押し合いへしあいしているのに、それでもわたしに触ったのは誰か、なんて仰るんですか、イエスさまらしくもない…とその場を収めようとしましたが、イエス様はかまわず「誰かがわたしにさわったのです。わたしから力が出ていくのを感じたのですから。」と言いました。彼女にプレッシャーをかけたのでしょうか。
それでついに「彼女は隠しきれないと知って」(47節)すべてを話しました。言わずに済ませられれば、言わずに済ませたかった。病気が病気だけに、ということもあったでしょうか。何十秒か、何分か、心の中で葛藤があったと思います。そして迷った末、勇気を振り絞って、震えながら進み出てイエス様の御前にひれ伏して、イエス様にさわった理由と、すぐに癒された次第を人々の前で証ししました。それに対してイエス様はどうされたか。断りもなく、だまってわたしのパワーを取ったりして、けしからん、などとお怒りになるのでなく、にっこりと微笑んででしょう、「娘よ。」と親しく呼びかけました。よく勇気を出して、みんなの前で真実を言いましたね、あなたにとってそれがどれほど勇気の要ることだったか、わかっていますよと、慈しみ深いまなざしだったでしょうか。そして「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と励ましと祝福のことばを与えたのでした。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」彼女の信仰が神に受け入れられたことを確信させて下さいました。彼女はこの後も、イエス様を救い主キリストと信じる信仰をもって生きたでしょう。そしてそれは、神の平安をもたらすものでした。
私たちの弱さをご存じの神は、私たちが隠れキリシタンでいるのでなく、公に告白するよう、洗礼式を定めてくださいました。それがいかに大切なことかは、こうして一刻を争う状況なのに、わざわざ立ち止まって、時間を取って、彼女に自分の信仰を公にさせたことにあらわれています。イエスさまは、肉体の癒しだけで終らせるのでなく、魂の救いを確かなものにするために、こうされたのでしょう。彼女はイエス様のおかげで晴れ晴れとした心で、新しい歩みを始めることができたでしょう。心の中で信じてればいいでなく、信仰を公にすることにはとても大切なことです。
それにしても、イエスさまの信仰には驚きです。ビクともしない信仰。普通、すべてが終わったとガクッと来る。ところがイエスさまと来たら、ビクともしない。病から癒すことも、死者の中から生き返らせることも、神にとっては違いはないということでしょうか。しかも、ヤイロの家に着いてからも、少女のために泣き悲しんでいた人々に向って、「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」と言われると、人々はイエス様をあざ笑ったと言います。これもまた水を差されることでしょう。しかしイエスさまの信仰は、これにもビクともしない。天の父がこの娘を癒して下さると信じて疑わない。心の中でそう思うだけでなく、そこにいた人々に口に出して「死んだのではない。眠っているだけだ」と言った。これは勇気の要ることでしょう。もしそうでなかったら赤っ恥。しかしイエスさまは、御父が少女を起き上がらせて下さることを微塵も疑わず、その子の手をとり「子よ、起きなさい」と叫ばれました。すると、少女の霊が戻って起き上がったのです。
家に向かう途中で、ヤイロにもたらされた知らせは、彼を絶望の底に突き落とすものでした。1%でもあった望みが、完全にゼロになった。誰がどう考えても終わった。しかし、イエス様にはそうではなかったということです。人の目には望みが完全に消えたと思われた所、手遅れと追われた所にも、イエス様は救いをもたらすことがおできになるのです。
最後に、この箇所から今日、覚えたいと思わされたことは、キリストにはどんな状況でも絶望というものはないということです。もちろん、このときのように死んだ人を生き返らせて下さるということではありません。ただ世の終わりには、復活させて下さいます。クリスチャンにとって死は終わりではありません。この望みをキリストに置く者は失望させられることが決してありません。そのことは第一に覚えておきたいことです。
その上で、もう少し適用を広げると、主に信頼する者にとって、あらゆる意味で、まったくの絶望というものはないということ。人の目には100%絶望としか見えない状況も、キリストは大逆転させることがおできになる。たとえ、今はこちらの思い通りではなかったとしても、最後には心から納得する結末を用意しておられる。第一ペテロ2:6、新約p. 467
主に信頼する者は決して失望させられることがない。「決して」と強調しています。しかし、主に信頼して祈っていたのに、失望させられたという人もいるのではないでしょうか。それは不信仰ということなのか。確かに、私たちが不信仰なのは事実です。イエス様の信仰と比べたら、それは明らかです。しかしそもそも、そんな完全な信仰など、イエス様以外に誰が持っているというのでしょう。この第一ペテロのみことばは、私たちが望んだ通りにならなかったときに、私たちの不信仰を責めるためではなくて、もう終わったと思っても、それでもなお、キリストに信頼し続けるよう励ますためのみことばだと思います。たとえ、今、思い通りにならなかったとしても、たとえ今の世では、望みが途絶えたと思われたとしても、最後にキリストは私たちの想像を超えたハッピーエンドを用意しておられる。最後の最後に主はその時を用意しておられる。歴史のゴール、神のご計画がすべて成就したときに、確かにキリストに信頼する者は、決して失望させられなかった、主は真実なお方だった、と心から主をあがめる時が来る。必ず来る。クリスチャンはこのような二段構えの世界観をもって生きる者です。この望みは、誰も奪うことができません。
なぜ、そんなハッピーエンドを望むことができるのか。キリストが、私たち罪びとの救い主となって下さったからです。私たちの神に対する希望は常に、私たちがしたことではなく、キリストがしてくださったことにあります。神がキリストによってしてくださったことを見上げましょう。私たちの決して消えることのない希望はここにあります。あなたの罪、あなたの悲惨は、すべて、わたしがわたしの愛する子イエス・キリストによって、取り去った。このキリストを見て、信じなさい、と神は招いておられるのです。たとえ、私たちの至らなさのゆえに、罪のゆえに取り返しのつかない失敗をし、悔いの中に日々を過ごすことがあったとしても、それでもなお、キリストに信頼する者は、決して失望させられることがない。なぜなら、キリストは罪人の救い主だからです。世渡り上手な人や自称義人のための救い主でなく。救い主は、信じる者にまったき罪の赦しを与えて、神の慈しみの中に入れ、永遠に神を喜ぶ恵みに入れて下さったからです。心に引っかかることがあったら神を喜ぶことができません。しかし、そのときには私たちの喜びはまったきものとなるのです。
だから、どんなときにも、キリストに望みを置いて、恐れずに、ただ信じ続けるのです。キリストに信頼する者を、キリストは決して失望させることがありません。
お祈り)。