礼拝説教要旨 2025年1月19日

神がしてくださったことを

ルカの福音書8:26-39

<はじめに>

26節「こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。」前回見たように、イエスさまが「向こう岸へ渡ろう」と言われて湖に漕ぎ出し、途中、暴風に見舞われ、あわや、と思われましたが、イエスさまが風と波を叱りつけてこれを静め、今、目的地に着いたという所です。荒れ狂う湖上での一幕も、それ自体が貴重な教訓でしたが、それはそれとして、そもそも、イエス様は何のためにここに来られたのでしょうか。

<① 悪霊につかれた男の救い:聖霊とイエス様の無敵のチームワーク(26-27節)>

舟から降りると、そこには、イエス様が来られるのを待っている人がいました。27節「イエスが陸に上がられると、その町の者で、悪霊につかれている男がイエスを迎えた。」彼は長い間、服も身に着けず、家には住まないで墓場に住んでいたと言います。今日では霊園もずいぶんときれいに整備されて、東京霊園なんかはピクニックに行ってもいいくらいですが、当時はだいぶ違ったでしょう。そこに住んでいた悪霊につかれた人が、イエス様を迎えたというのです。悪霊につかれていたのに、イエス様を迎えた?この後を読むと、悪霊どもはイエス様を恐れていました。悪霊どもは、イエス様の近くになんか来たくなかったはずです。それなのにイエス様を迎えに来た。カルヴァンは、聖霊が彼をここに連れて来たと解釈しています。この人自身は悪霊に支配されてしまっていた以上、彼がイエス様のところに来ることができたのは、聖霊の働き以外の何物でもないと。聖霊の力強い救霊の働きを過小評価しないようにしたいものです。人間には無理と思えるところにも、実際、聖霊の働きによるのでなければ不可能な状況であっても、聖霊はそこに働いて、その人をイエス様に出会わせるのです。聖霊は彼をイエス様に出会わせるために、悪霊どもの抵抗にもかかわらず、悪霊どもの力を制して彼をイエス様のもとに連れて来た。聖霊の働きを願う救霊のための祈りはとても有効なのだと思います。イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われたのも、この人を救うため、聖霊に示されてのことだったのでしょう。彼のために、イエス様は湖を渡って来られたのでした。神が救いに定めた人は、一人も漏らさず、悪霊どもの抵抗も暴風もものともせず、すべてを制圧して、救いに導かれる。神に取りこぼしはない。神の救いから漏れる者はひとりもいないのです。

<② 悪霊や悪しき思いは人を滅ぼす:キリストがそれらを追い出される(28-33節)>

ところで、彼は、他の福音書によると、大声で叫んだり、自分の体を石で打ちつけて傷つけていたと言います(マルコ5:5)。自傷行為というのでしょうか。精神的な原因からの場合もあると言いますが、彼の場合は悪霊によるものでした。悪霊は人を滅ぼそうとするものです。そんな悪霊から、神の愛する人を救うためにキリストは世に来られました。イエス様が「この人から出ていけ」と言うと、悪霊は叫び声を上げながら、御前にひれ伏して、「いと高き神の子イエスよ。わたしとあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください。」と言いました。悪霊には、イエス様が聖なる神の御子であることがわかっていました。わかって、わが身の破滅を予感して震えあがっているのです。悪にはさばきの時、破滅のときが来るのです。イエス様は、人を滅ぼすものを滅ぼす救い主です。

それにしても、鎖や足かせでつながれても、それらを断ち切ってしまうというのですから、悪霊の力はすさまじい。悪霊につかれた小柄な女性が、屈強な大男をものすごい力で投げ飛ばすということもあるそうです。悪霊に立ち向かうには、肉の力でなく祈りが必要なようです。悪霊はきよさとか、そういうものに対して恐れるのかもしれません。闇は光に勝てない、光が来ると闇は消えてしまうように、悪霊はきよさに耐えられないのでしょうか。

ところで、イエス様はこのとき、問答無用で追い出すのでなく、悪霊と問答されました。「お前の名は何か」と問いただすと、悪霊は「レギオンです」と答えました。レギオンとは当時ローマの一大隊を表す名称ですが、単に大勢であることを表す表現とも言われます。彼らは、自分たちに底知れぬところに行けとは、お命じにならないでくださいと懇願しました。「底知れぬところ」とは、悪霊どもが閉じ込められる牢獄のような場所のことで、彼らはそこに投げ込まれるのを恐れていました。そこだけは勘弁してください、せめてあそこにいる豚に乗り移させてください、と懇願しました。豚のほうはいい迷惑です。ブーブー言っていたかもしれません。豚は、ユダヤ人が汚れた動物として忌み嫌っていた動物でしたが、ここは異邦人の地なので家畜として飼われていました。そしてイエス様が、その悪霊の願いを聞き入れて、豚に乗り移るのを許されると、その豚の群れがイキナリがけを駆けおりて湖になだれ込み、溺れ死んだ。それこそ、頓死したのであります。

イエスさまが、どうして悪霊の願いを聞き入れたのか、よくわかりませんが、もしかしたら、悪霊というのは、とりついている人をこんなふうに滅ぼす、恐ろしいものだということを目に見える形で教えるためということもあったのかもしれません。視覚教材。マタイによるとこのとき、湖めがけてなだれ込んだ豚の数は二千頭。こんなにもたくさんの悪霊どもが、強力な力でもって、この人を滅ぼそうとしていた。悪霊ではありませんが、人の心の奥に住み着いた憎しみ、ねたみ、怒り、赦さない思い、そういうものも、それを持っている人を滅ぼすものです。それらはいのちをむしばむものです。いつまでもそういう思いを手放さないでいると、いつか、このように滅ぼされてしまいますよと。イエス様によって、それから解放されなさい、きよめて頂きなさいと、この箇所は勧めているのかも知れません。

ともかくこうして、長い間、悪霊につかれて苦しめられていた人が、イエス様によって解放され、彼は新しいいのち、新しい人生を歩み始めることができたのでした。

<③ イエス様がしたことに対する二通りの反応:拒絶と自発的従順(34-39節)>

さて、悪霊につかれていた人が解放され、正気に戻ったということは、間違いなく喜ばしいことのはずですが、この一件は、対照的な二つの反応を引き起こしました。豚の所有者と町の人々は、これを見て恐ろしくなったと言います。どうしてでしょう。イエス様が町中の豚を片っ端から湖に溺れさせるとでも思ったのでしょうか。ユダヤ人にとっては汚れた動物だから、このようにしたと思ったのでしょうか。確かに豚の所有者は大変な損失をこうむりました。豚二千頭。現代の相場では、豚の一頭買いでピンキリですが、ブランドものでなければ3~5万円ほどのようです。仮に3万円としても二千頭だと6千万円。イエス様が次々とこういうことをされたら、彼らの生活は立ち行かない。そんな恐れでしょうか。それとも、必ずしもそういうことではなく、ただ直感的に聖なる方に対して恐れを感じたのでしょうか。神の聖なる方が来られて、自分たちもさばかれるのではないか。ありがちな誤解です。キリストは救い主として来られたのに、まるで裁かれるかのように感じてしまって、敬遠してしまう。現代でも、キリスト教にきよらかなイメージをもって、遠ざかる人もいるようです。キリストは、救うために来て下さったのに。

彼らは、イエス様にお引き取りくださいと、丁重にお願いしました。残念です。残念ですが仕方ありません。イエスさまもまた、悪質な押し売りのように、無理矢理、居座ることはなさらず、引き下がりました。神は、私たちの人格を尊重されます。

さて、そんな町の人々と対照的なのが、悪霊から解放された本人です。苦しみから解放された感謝、喜びからでしょう、彼はイエス様のお供をしたいと、しきりに願ったと言います。しきりに、とわざわざ書いていますから、熱心にそうさせてください、と願ったのでしょう。イエス様のお供をして、自分と同じように悪霊に苦しめられている人たちが解放されるためのお手伝いをさせていただきたい。本当は彼は、こんなに素直で、感謝を忘れない、良い心をもった人だったのでした。それを悪霊がとりついて、凶暴にし、苦しめていたのです。イエス様に悪霊を追い出して頂いて、埋もれていた本来の彼の姿が現れました。こう言われて、イエス様もうれしかったでしょう。ですが、まだこの時は、ユダヤ人たちは異邦人を受け入れないからでしょうか、むしろあなたはこの地に留まって、神があなたにしてくださったことを証しするようにと仰いました。すると、彼はイエス様の仰る通り、速やかに従って、イエス様がしてくださったことを町中に言い広めました。神への感謝、イエス様への感謝は、自発的従順となってあらわれるのです。地元であかしをするというのは、かえって難しい面がありますが、彼は自分の地元で、神がどんなにすばらしいことをしてくださったか、熱心にあかししました。39節の最初に「あなたの家に帰って」かくかくしかじか、話して聞かせなさい、とあります。外ヅラだけ取り繕って、家ではぜんぜんあかしになっていないなんてことのないように、家族にも良く仕え、愛を示すことを心がけましょう。

「 罪 汚れは いや増すとも 」新聖歌 376番

彼はイエス様が自分にして下さったこと、その実体験をあかしすることができました。そこに感動があり、感謝があったからです。証の原動力は、感動であり、感謝であり、喜びだと思います。たとえば、どこかのラーメン屋さんに入って、そのおいしさに感動したら、あそこのラーメンは本当に美味しいよ!と人にも言いたくなるし、実感がこもって伝わるものもあるでしょう。そういうふうに、神から受けた恵みに感動があり、感謝があるなら、自然と証しできるのでしょう。しかし、私たちは彼のような、悪霊から解放されたという経験はないでしょう。こういう劇的な、わかりやすい経験はないという人の方が、むしろ多いのかもしれません。しかし地味であっても、確かな神のみことば、聖書の教えによって生き、生かされてきたことの実感と感謝があれば、それも尊いことです。人生を振り返って、聖書のみことば、教えによって、どういうふうに支えられてきたか、守られてきたか。また神への信仰、キリストへの信仰が、どのように自分を支えてきたか。さらにそれ以上に尊いのは、自分の罪や汚れが示されて、それをみことばと聖霊の力によって、悔い改めに導かれ、変えられていく経験です。主に従う歩みをするときに、そのような経験が恵まれます。はじめから主に従う気がなければ、罪も汚れも気にならないでしょう。イエス様に従う歩みをしていくときに、神の真実、キリストの恵み、聖霊の助けを体験していくのだと思います。いづれにしても、聖書の教えをお題目でなく、信じて、みことばによって生きるときに、そのような経験が積み重ねられ、確かな証となるのではないでしょうか。

そして最後に覚えたいのは、キリストを救い主と信じた人はみな、この人が経験したよりもはるかに大きな「神がしてくださったこと」の恵みにあずかっていることです。イエス様が私たちのためにして下さったもっとも尊い、もっとも価値のある事とは、なんでしょうか。それは私たちを愛して、私たちを罪がもたらす死の呪いから救い出すために、ご自分が私たちの身代わりに十字架にかかって呪いを受けてくださったことです。そのおかげで、私たちは呪いから救い出されて、代わりに神の祝福にあずかるようになりました。神の子どもとされ、神に受け入れられ、聖霊を与えられ、きよめられ、キリストの似姿に造り変えられ、永遠のいのちにあずかる者としてくださいました。永遠の御国を受け継ぐ者ともしてくださいました。これこそ、神が私たちのためにしてくださったもっとも中心的なことです。神がしてくださったことに目を留めるのです。自分がしたことでなく、神がしてくださったことです。救いはそこにかかっているのです。十字架のイエス様は言われます。イザヤ 45:22(旧約p1245)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

キリストがしてくださったことを常に心に留めて、神の愛を確信し、感謝と喜びを絶やすことなく歩むことができますように。