礼拝説教要旨 2025年1月12日

信仰はどこに

ルカの福音書8:22-25

< はじめに >

今日の舞台はガリラヤ湖です。イエス様の御跡をたどって書かれた福音書の半分以上は、このガリラヤ湖周辺が舞台となっています。ガリラヤ湖は他にも呼び名があって「キネレテの海」(民数34:11)、「ゲネサレ湖」(ルカ5:1)、「ティベリヤ湖」(ヨハネ21:1)などとも呼ばれました。イスラエル北方に位置し、南北に21キロ、東西に12キロほどで縦長の卵に近い形。深さは約40メートル。琵琶湖と比べると面積は四分の一、深さは半分ほどになります。北のヘルモン山から清冽な(せいれつな:清く澄んでいて冷たい様子)水が流れ込み、南のヨルダン川へと流れ出ます。流れのある湖です。漁業が盛んで、ここで取れる魚は近くの町で塩漬けにしてローマ各地へと送られたそうです。周囲は4~5百メートルほどの高さの山々や平野に囲まれ、特に新緑の季節に山の上から見下ろす景色は絶景で、「エメラルドの中にはめ込まれたサファイア」「ガリラヤの目」などと呼ばれたそうです。

< ① こんなはずでは…?:ご利益宗教ではありません (22-23節) >

この麗しいガリラヤ湖に、イエス様一行は舟で漕ぎ出しました。イエス様といっしょに乗った弟子たちの中には、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという4人の漁師たちがいました。彼らはこのガリラヤ湖を知り尽くしていたし、舟を漕ぐのはお手の物。ほかの弟子たちも安心して乗ったでしょう。時は夕方(マルコ4:35)。イエス様が「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われて、一向は夕日を浴びて、ギーッ、ギーッと漕ぎ出しました。おそらくガリラヤ湖の北カペナウムから、東側にあるゲラサ人の地へ舟で渡ろうとされたのでしょう。するとまもなく、イエス様は眠られたといいます。連日、大勢の群衆の病を癒し、福音を語ってこられて、極限までお疲れだったのでしょう。イエス・キリストは、本来、肉体を持たない永遠の神の御子でいらっしゃいますから、疲れることも眠ることもなかったのですが、私たち人間を救うために、私たちと同じ肉体を持ってくださいましたから、こうして働けば疲れもし、眠りもする不自由さ・弱さをもまとわれたのです。時間が経てばお腹もすくし、切れば血も出る、普通のおからだです。疲れて、眠っておられるイエス様のお姿は、生ける神の御子が、私たちのために、正真正銘の人間となられたことを物語っていて、かえって心を打ちます。だからこそ、同じ肉体を持った私たちの弱さにも、理解と同情を示すことがおできになる。心は熱していても肉体は弱いのですね、と仰って下さる。弱っている者には「今は休養をとりなさい」とお声をかけて下さることができるのでしょう。

ところで、風光明媚が売りのこのガリラヤ湖は、実は、北のヘルモン山から冷たい空気が降りてくると、湖面の暖かい空気が上昇するのとぶつかって、突如として暴風が吹き荒れることでも有名でした。ついさっきまでご機嫌麗しくしていたと思ったら、突然、手のつけられないほど暴れ出すやんちゃ坊主なのです。そのガリラヤ湖名物の暴風がこの時、襲いました。弟子たちは懸命にかいを操り、舟に入った水を汲み出しますが、所詮、自然の猛威の前に人間の力など無に等しい。私たちはこうして安全な所で読んでいるだけなので手に汗一つ握ることもありませんが、実際に小舟に乗って嵐にもまれ、船板一枚の下は地獄という状況になったら、生きた心地もしないでしょう。

イエス様が向こう岸へ渡ろうと言われたのです。イエス様に従って、イエス様と一緒に弟子たちは舟に乗って湖に漕ぎ出したのです。なのに、これ?こんなはずでは…と弟子たちも青ざめたでしょうか。イエス様に従って、信仰をもって歩み出したら、何の問題もなく、すべてが順風満帆ということでは必ずしもない。そういうご利益信仰は捨てなければいけません。むしろ、信仰は試練を通して、きよめられ、神に喜ばれることを覚えるべきです。第一ペテロ 1:7、新約p. 465

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

ゆえにヤコブは、試練にあったときは、喜べとさえ、言いました(ヤコブ書1:2-4、新約p.458)。

<② 苦しい時の…? : とにかくイエス様にすがりつくのがいいのです (24節)>

さて、弟子たちは万策尽き、ついにイエス様を起こしたというのですが、この状況で眠っておられるイエス様にも驚かされます。血相変えて右往左往している弟子たちとは対照的に、イエス様は大揺れに揺れている舟の中で、なんと眠っておられた。さすがにこれは神経が図太いとかいう問題ではなくて、御父への絶対的な信頼があるので、露ほども恐れず、熟睡していたのでしょう。イエス様ともなると、寝てても証しになると言いますか。もちろんやせ我慢でなく、心から天の父に信頼していたからです。あたかも天の父の懐に抱かれ、揺られて、眠っているかのように。こんなふうに天の父を信頼しきって、委ね切ることができたら、何も心配したり恐れたりすることがないんだろうなあ、とあこがれさせられます。

さて、顔面蒼白の弟子たちに叩き起こされたイエス様は、風と荒れ狂う波とを叱りつけました。すると、どうでしょう。イエス様に叱られた風と波はシュンとなって、静まり返りました。万物の創造主、生ける神の御子の前には、自然も借りてきた猫のようなものです。このとき、弟子たちはイエス様を揺り起こして窮状を訴えましたが、厳密に言うと、彼らは助けを求めたと言えるのかどうか。次の節を見ると、彼らも、目の前のイエス様がこの嵐をどうにかできるとは、考えていなかったようです。彼らは、この暴風を何とかして下さい、イエス様にはできますから、とお願いしたのではなくて、私たちは死んでしまいます、と言っただけ。他の個所によると、「私たちが死んでも、かまわないのですか」と少々、非難めいた口調です(マルコ4:38)。もしかしたら、こんな状況で眠っておられるイエス様に腹を立てたのかもしれません。こうなったのも、元はと言えば、あなたが向こう岸へ行こうと言い出したからなのに。責任を取って、何とかして下さいよ、寝てないで、と。

苦しい時の神頼みなのか、八つ当たりなのか、わからないような弟子たちの行動。それでも、イエス様以外の所に助けを求めたり、あるいはあきらめたりするよりは、はるかによかったのです。とにもかくにも、イエス様に泣きつく。こういうどうにもならない状況になった時に、泣きつけるお方がいることは幸いです。イエス様は、彼らの恐れを取り除くために風と波を叱りつけて下さいました。彼らに信仰があったからではありません。彼らには信仰がなかったにもかかわらず、です。イエス様の一方的な恵み以外の何物でもありません。このイエス様の恵みが私たちにも注がれているとは、なんとありがたいことでしょうか。

<③ あなたがたの信仰はどこに?:イエス様に対する信仰 (25節)>

とにもかくにも、イエス様のひとことで嵐は静まりました。ここで終われば、メデタシ、メデタシで一件落着かもしれませんが、最後にイエス様のお叱りの一言が記されます。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」暴風の次は弟子たちも叱られました。何度か言っていますが、あわれみに富むイエス様ですが、こと信仰に関しては厳しいことを言われます。それは、私たちが神から恵みを受け取ることができるのは、信仰を通してだからでしょう。神は莫大な恵みを与えようと望んでおられるのに、私たちの側の信仰という管が詰まっているために、私たちが受け取れないということが、実際にはたくさんあるのだと思います。信仰は、神から恵みを受け取る手段です。だから、イエス様は信仰に関しては、厳しいことばを語られるのではないかと思います。

ところで、この時、イエス様が言われた「信仰」とは、具体的にはどんな信仰なのでしょう。ただ漠然と、天の父が守ってくれるということか。そうではなくて、イエス様に対する信仰のことのように思われます。イエス様が、向こう岸へ行こうと言って舟を出したのなら、イエス様のことばは必ず実現するのだから、無事に向こう岸に着くはず。途中、どんな暴風が吹き、舟がひっくり返りそうになっても、必ず目的地に着く。そういうイエス様のみことばに対する信仰が一つ。それから何よりも、神が遣わされたメシア、救い主である方がともにおられるということを信じる信仰。イエス様は、神から遣わされた救い主。神の国をもたらす方。このお方がいっしょの舟に乗っているのだから大丈夫という信仰です。

「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」とのイエス様のおことばは、弟子たちの耳に入ったのかどうか。彼らはただ驚き恐れて互いに言いました。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」彼らはこの経験を通して、イエス様がどういうお方か、強烈な印象とともに刻まれたことでしょう。

「 安かれ わが心よ 」新聖歌 303番

信仰についてもう一つ。聖書の信仰は、信じる相手を信頼する信仰です。自分の信心深さとか、自分の信じる力、能力というものではありません。相手をふさわしく信頼することです。基準はこっちではなく相手です。相手がどなたなのか。どういう方なのか。ここが大切です。たとえば、とても立派な信頼に値する人物がいたら、その人を信頼することは、信頼する側の信じる力、信頼する力ではなく、信頼される側が、それに値する人格だからでしょう。言わば、信頼される側の人が、相手から信頼する力を引き出したと言えるでしょう。とすると、私たちが信頼するべき相手は、どなたなのか。どういうお方なのか。天地を造られた天の父なる神。また永遠の神の御子で、死のない方でありながら、私たちを愛して、私たちのために救い主となって、自ら進んで私たちの身代わりに死んで下さったイエス・キリストです。このお方を疑ってしまうのは、悔い改めなければいけないことです。これは生涯、続く悔い改めになると思います。でも、少しずつでも天の父、御子イエス様にふさわしい信頼を寄せることができたら、それは天の父、またイエス様に大いに喜ばれるでしょう。

最後に、キリスト教の歴史において、この箇所は試練の中にあった教会に、大きな励ましを与えてきました。2~3世紀、迫害の嵐が吹き荒れる中を通らされていた教会という舟も、イエス様がいっしょにおられるから恐れることはない、と説教されました。16世紀の宗教改革者マルチン・ルターも、巨大なカトリック教会から迫害を受けていたプロテスタントの教会に「キリストは今も舟におられる」と説教しました。今はどんな時代なのか。私たちもまた「キリストは、今も、教会という舟におられる」という、神からのメッセージを必要としているのではないでしょうか。

試練の時に、キリストを信じる私たち一人一人の人生の小舟にも、ともにおられるイエス様におすがりすることができます。そのときは、このときの弟子たちのように、みっともないくらいに取り乱してしまうかもしれない、いや、きっとそうに違いない。それでも、イエス様はお見捨てにならずに守り通される。私たちの不信仰を叱りながら、悔い改めに導かれながら。そして最後には、こんな嵐を静められるとは、この方はいったいどういうお方だろうと、イエス様への賛美に至らせて下さるのでしょう。

最後にイエス様が天に昇られる直前に、地上に残される弟子たちに言われたみことばをお読みします。マタイ28:18-20

28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」