礼拝説教要旨 2025年1月5日

わたしの兄弟たちとは

ルカの福音書8:19-21 

<はじめに>

今日のところは、イエス様の家族が登場します。二種類の家族です。一つは、肉による家族。そこで生まれ、育ってきた肉親という意味の家族。母マリアやイエス様の弟たちです。そしてもう一つは、肉親ということではない別の原理による家族。ピンとこないかもしれませんが、霊によるイエス様の家族と言われるもの。もちろん、両方とも大切ですが、今日の個所では、霊によるイエス様の家族について学びたいと思います。

<① マリアの揺らぎと、毅然と御父に従うイエス様(19-20節)>

母マリアや弟たちが、イエス様のところに来ました。何のために?お話を聞きに来たわけではありませんでした。差し入れを持って来たわけでもありません。マルコの福音書によると、実はこのとき、イエス様のことを気が狂ったという人がいたので、マリアたちが家に連れ戻しに来たのです(マルコ3:21)。あのマリアが…。ちょっと意外です。マリアは、御使いのお告げなど思い巡らして、基本的にはこの子がメシア(救い主)と信じていたのでしょうが、この頃は、パリサイ人たちから敵意を向けられていましたし、また、頭がおかしくなったんじゃないかと、ご親切にもマリアに言ってくる人もいたようです。また故郷ナザレでは、村人たちがイエス様の人気をねたんでいましたから、悪く言う人もいたでしょう。そういう中で、マリアもこの時は、人々の無責任な批判に思いが揺れて、引き戻しに来たのかもしれません。また、イエス様の弟のヤコブも、うちの兄貴は困ったもんだ、跡継ぎなのに、家を出たまま、帰ってこないで、あちこちでおかしな事を言い出して。おかげでまわりから変なこと言われるし、まったく迷惑なことしてくれるな…と、むしろ母マリアをつっついて一緒にイエス様を引き戻しに来たのかもしれません。

マリアは、ご存じのように、敬虔で、思慮深くて、謙虚で、素直なすばらいし信仰者ですが、それでも長い人生の間には、こういう時もあったのです。人間はどんな立派な人でも神のように思ってはいけない。弱さがあるということをわきまえておく必要があるでしょう。もちろん、母マリアも弟ヤコブも、のちには、ちゃんと信仰を回復していますが、この時は、こういう行動に出てしまいました。

こういうところを見ると、イエス様も真空状態の中で宣教の働きに献身しておられたのではなかった、親や兄弟といった人間関係の中にあって、いろんなしがらみの中にありながら、その上でそこに留まらない。そこに飲み込まれてしまわないで、そこから出て、毅然と、御父の御心に従う道を選びとって進んでおられたのだと思います。もちろん、イエス様は両親を敬い、両親に良く仕えておられました(ルカ2:51)。親を粗末にしているのでは決してありません。ただ、それ以上に大切なこと、優先すべきこと、第一にすべきことを第一にしていたということです。神に従うことを妨げる方向に肉親の力が働く場合には、その肉の絆を切ってでも神に従うということです。マタイ10:37-39

10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。

もしかしたら、親との関係に限って言えば、ここには成人した子を親の支配から解放する意味合いもあるのかもしれません。子は親の所有物ではない。子には子の人生がある。親から自立して、神から与えられた人生を歩みなさい。それが神のみこころと。いづれにせよ、年の初めの主日礼拝に、毅然と主に従うということを心に定めさせて頂きたいものです。

<② イエス様の家族とは神のことばを聞いて行う人(21節)>

さて、母と弟たちが会いに来ているが、人がいっぱいで中に入れず、外に立っていると聞いて、イエス様はどうなさったか。この時、イエス様は、あえて、マリアや弟たちを迎えることはせず、イエス様のお話を聞きに集まっていた人々に、神のことばを聞いて行う人が、イエス様の母、また兄弟たちだ、つまりイエス様の家族だと言われました。まずこのことばの意味をおさえておきます。ここは2通りに解釈することができます。一つは、神のことばを聞いて、行ったら、イエス様の家族になれる、という意味。みことばを聞いて行うことを、イエス様の家族になるための条件と取る解釈です。もう一つは、イエス様の家族になった人は、神のことばを聞いて行う者になるという、イエス様の家族になった結果、そうなるという解釈。今日は二つめの方の解釈を取りたいと思います。

イエス様の家族ということは、神の家族ということです。イエス・キリストは永遠の神の御子ですから、そのイエス様の兄弟は、神の家族です。天地の造り主なる神を霊の父、また永遠の父として持つ神の家族です。どうしたら神の子どもとされるのか、聖書のほかのところによると、イエス・キリストを神が遣わされた救い主と信じることによって、だれでも神に受け入れられ、神の子とされます。ヨハネ1:12-13

1:12 しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

ここにイエス・キリストを信じた人に、神の子どもとなる特権をお与えになったと書いてあります。またキリストを信じるということは、確かに人間の側で自由な意志をもって決めることですが、それも実は、私たちが信じることができるように、神が私たちの心を新しく造り変えてくださったからで、そういう意味で、キリストを信じた人も、ただ、神によって生まれたと書いてあります。私たちがキリストを信じることは、神のわざなのです(ヨハネ6:29)。ほかにⅠヨハネ 5:1 では「神から生まれた」と言われています。

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。…

これらは、私たちがキリストを信じたということが、いかに特別なことであるか、表しています。天地の造り主なる神によって、また神から生まれたと表現される神との特別な関係。それは第一に、御霊を与えられたこと。三位一体の聖霊なる神であられる方が、私たちのうちに来て住んで下さったということ。神の霊を分け与えられているということです。そして第二に、神から生まれた神の子どもという表現は、神にこの上なく愛され、受け入れられていること、神との特別に親密な関係、愛の関係に入れて頂いていることを表します。

それで、聖霊がキリストを信じた者たちのうちに住んでおられるので、神のことばに耳を傾けようと思うし、それを行おうと願うのです。聖霊が私たちのうちにおられなければ、神に背き、敵対している生まれながらの人間は、神のことばに耳を傾けようとも、ましてやそれを行おうとも思わないでしょう。キリストによって神の愛する子とされ、聖霊を与えられているので、神に喜ばれようという志を持つようになるのです。ピリピ2:13-16。

2:13 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。
2:14 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。

13節の「志」は、神のみこころを知り、神のみこころに従いたいという願い、イエス様の似姿に近付きたい、聖くなりたいという願いです。それは神が御霊によって信じる者たちのうちに起こして下さるものです。実際には何度も転んではまた立ち上がり、悔い改めては信仰によって立ちあがるということを繰り返しながら、少しずつ、神に喜ばれる実を結ぶようになっていくのでしょう。それは、信じる者たちのうちに働かれる神のわざ、神の力です。それで、神のことばを聞いて行う人が、イエス様の家族であることが、その実によってわかるということです。

<③ イエス様の家族!(21節)>

イエス様は、このような人々のことを「わたしの母、わたしの兄弟たち」と言われました。永遠の神の御子なるイエス様は、神によって生まれた者たち、神のことばを聞いて行おうとする者たちに、どれほど親身な、心からの愛情を持っていてくださることでしょう。ライルという人は、「ここには、すべての信者に対する豊かな励ましがある。彼らは、自分たちで気づいているよりも、はるかに主の目にとって尊い存在なのである。」と注釈しています。神のことばを聞いて行う人は、みな、イエス様の家族!

また、周りを見渡してみれば、そこには、同じ天の父を持つ兄弟姉妹たちがいます。罪の性質の残る身としては、兄弟げんかも時にはあるかもしれません。兄弟でも、馬の合うの、合わないの、いるかもしれません。虫の居所の良い時、悪い時もあるでしょう。でも、同じ天の父を父とする兄弟姉妹同士。イエス様の血による神の家族です。その絆は消すことができません。天の父が望んでおられるのは、私たちが霊的な兄弟姉妹として、絆がきよめられ、赦しあい、神の家族にふさわしい関係になることです。聖霊とみことばによって私たちの交わりが常にきよめられますように祈ります。

家族というのは、本来は、-神が定めておられる家族というのは-愛と信頼があって、子どもが心から安心していられる場でしょう。外で傷ついても、家で受け入れてくれる親がいる。ともに悲しんでくれる、共感してくれる家族がいる。そこでまた回復して、出て行くことができる。ありのままの自分でいられる。甘やかすのとは違います。訓練すべきは訓練するのも、学校任せではなく親の責任です。でも、その前に、根底に信頼感が必要なのだと思います。それがあってこその、訓練なのだと思います。

イエス様の家族はどうでしょうか。天の父なる神と御子なるイエス様の家族は、本物の愛と信頼の満ち満ちている家族です。イエス様は、私たち罪人のために、天を蹴って人となって世に来てくださいました。そして、私たちに真理を教え、悔い改めを説き、そして最後に、私たちの罪のために、ご自分が十字架にかかって死んでくださいました。私たちが受けるべき罰を、自ら進んで身代わりとなって、受けてくださいました。それによって、私たちが罪の赦しを得、聖霊を与えられ、新しいいのちを与えられ、神の愛を知り、その結果、神の御心に従って生きるようになるためです。そして神の家族とされたからには、天の父は、決してご自分の子たちをお見捨てになることはありません。

「 罪咎を赦され 神の子とされたる 」新聖歌 266番

大切な御子を私たちのために救い主として遣わして下さったのは天の父なる神です。御子は自ら進んでその役を引き受けて十字架にかかって下さいました。この真実な天の父と御子なるイエス様のご愛を受けて、その家族の一員に加えられた者は、永遠に父なる神とイエス様の家族として永遠の御国を受け継ぎ、永遠のいのちにともに生きるようにして頂きました。イエス様は、私たちをその永遠に祝福された、永遠に神の愛と信頼に満ちている神の家族に私たちを迎え入れるために、人となって十字架にかかってくださいました。そのイエス様のみわざを思いつつ、感謝しつつ、この後の聖餐式に臨みたいと思います。