では、神のみこころを行うために造られましたが、では、神は人を奴隷のようなものとしてお造りになったのか。というとそうではない。神は人をとても尊いものとして、大切なものとしてお造りになったのです。先ほど読んだところに、神は人をご自身に似せて、ご自身のかたちに造られたとありました。神ご自身に似せて造られたのは人間だけです。神にとって人は特別な存在なのです。神の至宝というべき存在としてお造りになったのです。
そして、神が自分の造り主であることを認めるなら、自分の生きる目的、存在意義が定まります。人が、イスならイスを座るために、懐中電灯なら懐中電灯を暗いところを照らすためにと、それぞれの目的のために作るように、神は人を目的があって造られたからです。その目的とは、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。神を喜ぶために造られた。ということは、神は私たちが神を喜べるようなことを用意しておられるということです。神は、喜べるものがないのに、無理やり、喜べ!と命じるような理不尽な方ではありません。神が造られた世界にも、人を喜ばせる、いわゆる自然の恵みと呼ばれるものがたくさん、あります。またそれぞれ置かれた所で、神の御心に仕えるとき、みことばに従うとき、喜びが与えられます。そして、神を自分の救い主として知るときに、神を大いに喜びます。神が最初に造られた世界は素晴らしい世界でしたが、人が罪を犯してから苦しみが入ってきました。しかし神はそれを、自業自得だと見捨てるのでなく、神ご自身が救い主として、世に介入して下さいました。これが、聖書全巻を貫く大きなテーマです。苦しみから救って下さる救い主として神を知るとき、人は心から神を喜ぶことになるのでしょう。神と人との心が固く結ばれるのでしょう。人にとって、最も深く大きな喜びは、神が自分を愛しておられることを知ることです。
この世界はたまたま偶然にできたものではなく、神がお造りになったのですから、この世界には神の意思が働いています。それは、人を助けよう、応援しようという意思です。
今の人は知っているかどうか、昔は、背中に薪を背負って歩きながら本を読んでいる像の人と言ったら、二宮尊徳とみんな答えたと思います。江戸時代中期の人。彼は、十四歳で父を、十六歳で母を亡くし、父方の伯父の所に預けられました。そして彼は、一日も早く二宮家を再興したいと願い、そのために学問をしようと志を立てて、伯父の家の仕事を手伝った後、夜遅くまで勉強しました。世話になっている伯父に迷惑をかけないために自分で燈油を得ようと、一握りの菜種を撒いたところ、13~14リットルの菜種が採れました。また田植えが終わって捨て置かれている苗を集め、荒地を耕して植えたところ、秋には一俵(約60㎏)のお米を収穫することができました。このことから彼は、天は、人が勤勉に働きさえすれば、大きな実りを与えて、助けてくれると思ったそうです。菜種を植えたら菜種油が取れて、稲の苗を植えたらお米ができる。彼は「天は人を助けよう、助けよう、とばかり思っている。」と言っていたそうです。それが、後の彼の人生に大きな影響を与えたと言われます。天が味方していると思えたら、こんな心強い事はないでしょう。彼は後に、いくつもの藩の財政改革に呼ばれて、見事に建て直したと言います。ペテロの手紙第一 5:6-7、新約p. 471
旧約聖書のイザヤ書45:7(旧約p. 1243)に次のみことばがあります。
わざわいを創造するとはけしからん神だ!と思うでしょうか。ここには人の罪ということが関わって来るのですが、それは今日は脇に置いておいて、わざわいをも神が創造することから、むしろここに希望を見出した方もいます。
13歳の愛娘を北朝鮮に拉致された横田早紀江さんという方の事をご存じでしょうか。最初は、北朝鮮が拉致したという事がわからなくて、もう何が何だか、さっぱりわからなかったそうです。どうして突然、いなくなってしまったのか。事故の痕跡もない。何か事件に巻き込まれたのか、考えるといても立ってもいられなかったそうです。やがて、彼女は教会に行くようになりました。そして聖書を読んでいく内に、旧約聖書のヨブ記になりました。そこには、ヨブという素晴らしい信仰者がいましたが、その人が何も悪いことをしていないのに、次々と災難に襲われた。それまで満ち足りていたのが、すべて失い、無一文になった。それまで幸せに暮らしていた子どもたち、息子たち娘たちをみな、一度に失った。そして自分自身も、全身に腫物ができて、夜も寝られないほどになった。そういうことがみな、サタンの仕業だったのですが、それはサタンが勝手にそうしたのではなくて、神がサタンにそうすることを許可されたと書いてあるのです。サタンは神の許可なくして勝手なことはできない。で、ある人はこれを読んで、脊髄反射的に「ひどい!そんな神なんか!」と怒るでしょう。ですが、横田早紀江さんという方は賢い方です。彼女はむしろ、それを読んでそこに希望を見い出し、それを支えとしたといいます。どんな出来事も、神の手から離れて起るのではなく、単なる偶然でもない。単なる偶然だったら、そこに何の救いもありません。そうではなくて、神の御手の内にあるという。だったら、そのゆえに希望を持つ事ができる!というのです。彼女は、思慮深くも、神がすべてのことを支配なさっているということに希望を見い出して、自らの支えとしたのでした。
すべての出来事は神の御心の内にある。人の目にはわざわいと見えることの中にも。だからこそ、望みがある。ご利益主義ではない、この深い世界観、信仰を心に留めておきたいものです。ローマ書8:28、新約p. 310
この新しい年、先のことは、私たちには知る由もありません。昨年の元旦は能登で大地震が起きました。世の中を見渡すと、この先、日本は、世界はどうなってしまうのだろうと、個人的には心配がよぎってしまいます。しかし、すべてのことは天地の造り主なる神のご支配の下にあります。そして、私たちはこの万物の創造主なる神に愛されている者、御子を下さるほどに愛されている者です。そして神の子どもとされた者です。私たちが何かをしたからではなく、キリストがその神との関係を作って下さいました。キリストを信じて、その神との恵みの関係に入れられたら、その関係はどんなときにも、そして永遠に変わることがありません。ローマ書8:31
この確信をもって新しい年へと歩み出させて頂きたいと思います。