今日は耳の検査です。と言っても心の耳です。8節の最後「イエスは、これらのことを話しながら、大声で言われた。『聞く耳のある者は聞きなさい。』」とあります。聞く耳のある者は…。聞かない耳もあるということ。これは耳の機能ではなく、心の問題です。結論から言うと、今日の説教題の通り「良い心でみことばを」聞くことの大切さを教えています。
イエス様が町や村を巡りながら、神の国を説き、福音を宣べ伝えておられた時に、イエス様にお仕えしていた人たちが紹介されています。十二弟子がお供をしていたほかに、名前が挙げられている3人の女性をはじめ、「多くの」女性たちが一緒だったとあります(3節)。昔も今も、教会の活動を支える主力メンバーは女性ということでしょうか。彼女たちは「悪霊や病気を治してもらった」という体験をして、感動して、感謝して、イエス様にお仕えするようになった人たちです。いわば、悪霊つきや病などがなくなる神の国を、キリストが彼女たちにもたらした。その神の国を体験して、キリストを信じて、従うようになった人たちです。そして一緒にいる間に、イエス様から教えを受けてますます良い実を結ぶようになったのでしょう。その筆頭に挙げられているのが、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラ出身のマリア。聖書にはたくさんマリアという人が出てきますが、彼女はイエス様の母マリアの次に有名なマリアかもしれません。彼女はこの後もずっとイエス様についていき、イエス様が十字架にかけられているとき、十二弟子が見捨てて逃げ去ったときにも、母マリヤとともに、十字架のイエス様の足もとにいました(ヨハネ19:25)。そしてイエスの遺体が十字架から下ろされて墓に埋葬されるまでその場を去らずに見守りました(マルコ15:47)。そしてその三日目に、最初に墓を訪れて復活したイエス様と会話したのも彼女でした(ヨハネ20:1-18)。彼女は、「七つの悪霊」を追い出して頂いたとありますが、これは、その悪霊どもが普通の悪霊払いでは出て行かないような、強い、しつこいもので、彼女がひどく苦しめられていたことを表すのでしょうか。だからなおさらそこから救ってくださったキリストの力、神の国の力を体験して、感謝、感動が深いものがあったのでしょう。それから領主ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナが挙げられます。ヨハンナはヨハネの女性名。彼女の夫は領主ヘロデの執事。そういう立場でありながら、イエス様に従うようになったのは、彼女も悪霊か、病かから癒されたということがあったからでしょう。もう一人のスザンナという女性については何もわかりません。そのほか多くの女たちも一緒であったと言います。彼女たちは家や夫を捨ててついてきたのか。こんにちだったら社会問題になります。それとも、家を出たわけではなくて、例えば、姉妹方が平日に教会に来ていろんな奉仕をして下さるように、彼女たちがイエス様一行のいるところによく顔を出して、奉仕をしていたということで、一緒にいたと言われているのか。また彼女たちは「自分の財産をもって彼らに仕えていた」とありますが、裕福な人たちだったのか、それともそうではないけれども、自分たちの出来る範囲で出し合って仕えたのか。いづれにせよ、当時、ユダヤ教のラビたちは、女性を蔑視し、女性に教えることを禁じたそうですが、こうしてイエス様の宣教活動を支えていたのは女性たちであった、少なくともその一部を担っていたのは、彼女たちの献身的な奉仕、献げ物であったことをルカは記しました。これはこの後のたとえの、多くの実を結んだ良い地に蒔かれた種の実例と見ることができます。
道端に落ちた種は、人に踏みつけられ、鳥が来てすぐに食べられてしまいます。岩の上に落ちた種は、すぐ下に岩があるので、表面の土は太陽熱で暖まって早く発芽しますが、根を張ることができないので、途中で枯れてしまいます。それから茨の地とは、生い茂っていた茨を刈り取ったけども、根が残っている地のこと。それで、途中までは蒔かれた種も茨も一緒に育つけれども、やがて茨にふさがれて、お日様もあたらず、実を結ぶに至りません。そして最後に良い地にまかれた種はすくすくと育って、百倍の実を結んだというたとえです。
このたとえを話されて、イエス様は「聞く耳のある者は、聞きなさい」と大声で言われたと言います。第三版では「叫ばれた」。一見、畑に種を蒔くのどかな田園光景ですが、最後にイエス様が叫ばれたというのは、ちょっと悲痛と言いますか。イエス様は、この中にひとりでも、ふたりでも、聞く耳を持つ者でいて、救われるようにと訴える叫びにも見えます。イエス様は今日も、天から同じ思いで地上を見下ろしているのかもしれません。
このたとえの解き明かしは11節以下でされますが、その前にイエス様はちょっと不思議なことを仰いました。9-10節。弟子たちがこのたとえがどういう意味か、イエス様に尋ねたときに、イエス様はこう答えられました。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。」二重カギカッコはイザヤ書6:9-10の引用(旧約pp. 1176-1177)。これはイザヤの時代、心を頑なにして預言者の言葉に耳を傾けない人々に向けて語られた言葉です。ここでは、好奇心で話を聞きに来ても、はじめから従うつもりのない者には、解き明かされないということでしょうか。イエス様について従ってきていた弟子たち、女性たちには解き明かしが許されているというのは、そういうことでしょうか。実際に従ってみて、ああ、そういうことだったのか、とわかる面はありますが。
さて、イエス様の説き明かし。蒔かれた種はイエス様が語られたみことばのこと。ここでは「みことば」は「福音」のことと取りたいと思います(1節)。で、この福音という種が道端に蒔かれたのは、せっかくイエス様がくださった永遠のいのちをもたらす福音が大切に心にしまわれないで、どうでもいい情報のガラクタと同じに、ほっぽり出されてしまっている、そんな状態でしょうか。それでサタンが来てシメシメと取り去ってしまう。サタンは一人でも人が救われないように目を光らせている存在です。しかし、私たちが神のことばである福音を大切に心に納めていたら、サタンが勝手に持って行くことはできません。神のことばは、ちゃんと神のことばとして、大切に心に納めることです。
次は岩の上。みことばを聞いて「喜んで受け入れる」のですから、一見、良さそうです。福音はすばらしい。永遠のいのちをもらえるなんて。それもタダで。神の愛はすばらしい…。喜びます。しかしそれはしばらくしか続かない。やがて試練にぶつかると身を引いてしまう。ここでサラッと言っていますが、信仰者が試練に会うことを当然のこととしているんですね。もし試練が来たら、というより、試練が来た時に、こうなると。根がしっかりと大地に根付いていないから、必要な水分、栄養分を供給されていないからです。永遠のいのちも神の愛も、自分のこととしてよく思い巡らすことをせず、うすっぺらにしか理解していない。キリストの十字架による罪の赦しによる救いが、どんなものなのか。イエス様が自ら進んでそうして下さったことを、どう思うのか。その十字架の身代わりの贖罪による救いと、そこにあらわれている神の愛、キリストの愛を深く思うということをしない。だから、イエス様とともに十字架を担うとか、苦難をともにするということは夢にも思わない。そのような愛を持とうとすらしない。そして永遠のいのち、栄光の天の御国を受け継ぐことをリアルに現実のこととして、信仰によってとらえること。こういうことを深く思い巡らして、心に根を張るようにするときに、そこからそれらの霊的栄養、いのちの水を吸い上げて、生長することができるのでしょう。
次は茨の中に落ちた種。これは、福音について一通りの知識は持っている。一応、根はあり、ある程度は生長する。しかし、心が定まっていない。それで「時がたつにつれ」、世の心遣い、富、快楽、そういったことに後ろ髪を引かれて、主に従いきれない。熱心に聖書も読むが、生活の思い煩いに心は裂かれ、金銭欲も茨のようにおどろおどろしく伸び、さまざまな快楽に心を奪われて、神のことばが実を結べない…。「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケへ行ってしまいました」(第二テモテ4:10)。これに対する対策は、世に対して自分を十字架につけて、キリストに従うことです。世と世にあるものを愛する者に、御父の愛はありません(第一ヨハネ2:15)。御父の愛に応答して、キリストと共に、キリストのあとにつき従う道を行くと決心することです。何度でも。神が成し遂げてくださると信じて。あきらめなければ、神が成し遂げてくださいます。
みことばの聞き方に関して、もう一つのたとえです。内と外とで一致していないあり方はダメ、隠れキリシタンはダメということです。せっかく神の愛、永遠のいのちなど明かりを心に灯したのに、それを隠しておいてはいけない。明かりは燭台の上に置いて、人に光が見えるようにするためにつける。神が私たちの心に福音という光を灯されたのも、私たちがその光を輝かせて、人々がその光を見るようになるためです。17節、隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはないとは、隠していても、神がそれをバラすときがきますよ、というのでしょうか。意に反してそうなるよりは、最初から自分からそうした方が良いでしょう。
最後に一つ。今日の個所で福音が種に例えられました。福音自身にいのちがあって、生長して、実を結ぶということです。私たち自身の力ではない。私たちの心に蒔かれた福音の種自身の生命力というものも信頼したいと思います。イエス様は、私たちの人生を祝福し、聖霊の実がたわわに実っている幸いな神の国の果樹園にしたいと望んでおられます。
最後に一つおまけでもう一つ、皆さんのまわりに、子どもの頃、教会学校に行っていた。あるいは昔、教会に行っていたけれども、今は行っていないという人がいる場合は、長らく種が土の中に埋もれている状態と言えるかもしれません。しかし忘れた頃に、芽を出して、花を咲かせることもあるかもしれません。種自身の生命力を信じてあきらめずに、神に望みを置いて、祈り続けましょう。