クリスマスは、イエス・キリストのご降誕をお祝いする日とされています。実際にお生まれになった日はわかりませんが、神の御子が人となって天から降りて、お生まれになったという、そのことをお祝いする日として、長年、守られてきました。この世界を、宇宙を造られた神の御子であられる方が、どうして、わざわざ肉体をまとってこの世界に来られたのでしょうか。観光に来られたのでしょうか。お忍びで諸国漫遊でしょうか?そうではなくて、11節の御使いが告げたところによると、神の御子は、私たちの救い主として来られたのでした。ずっと昔から、何千年も前から、神は人類に救い主をお遣わしになるということが、旧約聖書に記録されていたので、人々はその時を待望していました。その、神が遣わす救い主が時満ちて、ついに世に来られた、ということで、イエス・キリストのご降誕をお祝いする礼拝は世界中に広がり、途絶えることなく連綿と受け継がれて、こんにちに至っている次第です。2024年のこの日も、世界中の教会でイエス・キリストのご降誕を感謝する礼拝がささげられています。私たちも、その神の御子がお生まれになったときのことを記した聖書の個所をご一緒にお読みして、救い主を礼拝したいと思います。
「そのころ」は、皇帝アウグストゥスが全世界(=全ローマ)の住民登録をせよと勅令を出したころ。アウグストゥスとは「尊厳者」の意味で、初代ローマ皇帝となったオクタビアヌス帝(在位 紀元前27-紀元14)に対して元老院が贈った尊称です。このアウグストゥスは、外に向かって領土拡大政策を取らず、領土の維持や内政の充実に主眼を置き、平和政策を取りました。それで、以後200年ほど続くローマの平和(パクス ロマーナ)の土台を据えたとされます。水道、道路、神殿などを建設・整備し、また皇帝直属の軍隊を作りました。そのための莫大な財源はというと、帝国内で徴収した税なわけで、ここに出てくる住民登録の勅令も税の徴収のために行なわれたものです。
皇帝の一声で、帝国中の人々は大移動を強いられます。ナザレの田舎に住むヨセフとマリアの貧しい若夫婦も、マリアは身重でしたが、彼らはユダヤのベツレヘムというところに向かいました。「ベツレヘム」は「パンの家」の意。肥沃な土地だったようです。昔、イスラエルの王として多くの人に尊敬されていた信仰深いダビデ王という人は、このベツレヘムの生まれだったので、ベツレヘムは別名ダビデの町とも呼ばれました。で、マリヤの夫ヨセフは、そのダビデの血筋だったので、わざわざそのダビデの町ベツレヘムまで行って、登録しなければならないということになっていたのです。ナザレからベツレヘムまで、直線距離で140kmほど。所沢から西に向かうと甲府や諏訪湖を越えて塩尻のあたり。大変な距離です。臨月間近のマリアにとって、これは難儀なことだったでしょう。
しかも、ようやく着いたベツレヘムは、住民登録のために集まってきた人々でごった返し、すでに先着の客で宿屋はいっぱいでした。それで家畜小屋で枕することになったと言います。信仰深い彼らは、雨風をしのげるだけでも、感謝しないとね、、、などと言いながら、気を取り直そうとしたでしょうか。ところが、よりによって、と言いますか、そこで、イエス様はお生まれになったのです。救い主として来られた神の御子が、地上で最初に吸われた空気は、家畜小屋の空気でした。天地の造り主なる神の子ですから、選ぼうと思えば快適な超一流の宿屋にでも、王宮にでも、お生まれになることもできたはずですが…。
さて、場面は変わりまして、ベツレヘムに近い野原。いつものように野宿をして羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちがいました。そこになんと、主の使い(=天使、御使い)が現れました。突然、現れた御使いにびっくり仰天。震え上がる羊飼いたちに御使いはまず「恐れることはありません。」と声をかけます。恐ろしい用件できたのではない。そして「見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と言いました。そうです。大きな喜びの知らせを告げに来たのです。ここの「大きな」と訳された言葉は、とてつもなく大きな、巨大な、というニュアンスの語です。そのとてつもなく大きな喜びの知らせとは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ということでした。「キリスト」と言うのは、元々は個人名ではなく、職務名でした。詳しい説明はしませんが、ここでは、ずーっと何千年も前から神が遣わしてくださると約束しておられた、唯一の救い主のことです。それが、キリストと言えばイエス様のことを指すので、あたかも一つの名前のようにイエス・キリストと呼ばれるようになりました。ですから、ここで御使いが言ったのは、この方こそ、主であり、神がお与え下さるとずっと昔から語っておられた、あの救い主です、と言っているわけです。
続けて御使いは、見に行ってきなさいというのでしょう、みどりごの救い主を見分けるためのしるしを教えました。布にくるまって、飼葉桶に寝ている生まれたばかりの赤ちゃん。これが目印です。確かにこの条件を満たすのは、他にはいなさそうです。
そして、御使いが言い終った瞬間です。なんと、天使の軍勢が夜空を埋め尽くして、神を賛美しました。たぶん、天使が総動員して、神をほめたたえたのではないかと思います。それくらい、これは歴史上、最も偉大な出来事です。ちょっとやそっとの良い知らせではない。14節は、「いと高き所に、栄光が」のラテン語訳「グロリア・イン・エクセルシス」で知られる讃美歌です。「いと高き所で、栄光が、神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように。」罪の世に、救い主を、それもご自身の最愛の御子を救い主として下さった神の栄光をほめたたえます。またそれは、地上にある神のみこころにかなった人々に平和をもたらすものです。「平和」とは、神との平和のこと。すべての祝福、あらゆる良きものが流れ出る土台は、この神との関係の回復です。それが、「みこころにかなう人々」にあるように。「みこころにかなった人」とはどういう人のことでしょう?後光が差すような立派な聖人君子のことでしょうか?右の頬を打たれたら、左の頬を突き出すような人でしょうか?これは、あとで触れたいと思います。
さて、御使いのお告げを受けて、羊飼いたちは、すぐさま、行動に移しました。ベツレヘムにある家畜小屋を、手分けして、あっちこっちと探し回って、まもなく探し当てたのでしょう。そこには、布にくるまれて、飼葉桶に寝かされているみどりごがいました。御使いが告げた言葉そのままでした。彼らは興奮して、そこにいた人たちに、御使いが現れて、布にくるまって飼葉桶に寝ておられるこの子が、救い主キリストだと告げたと伝えました。
不思議なイエス・キリストの誕生・ご降誕でした。
神は良い方、愛の方ですから、最初から人を死ぬようにはお造りになりません。あとから入ってきたものです。では、どうして人が死ぬようになったのか。最初の人アダムがいのちの源である神に背いてからです。それが一番大きな罪、根本の罪です。以後、アダムから生まれたすべての人は、神に背を向けて、神を無視して生きる世界に生きるようになりました。いのちの源である神と断絶している状態。神との関係が切れてしまった状態です。あたかも、木の枝が幹につながっていれば、水も栄養も枝に流れ込んで、生きているけれども、幹から切り離されると、水も栄養も流れてこないので、やがて枯れてしまうように。神から離れた状態というのは、そういう状態。生まれながらの人の今の状態が、当たり前なのではない、本来の姿ではないんですね。罪の呪いの下にある状態だという認識です。
だけども、一度、切り離された枝も、接ぎ木して、また幹につながれば、いのちを回復します。そのように、キリストは、神から離れて死の呪いの下にあった人間を、再び、神につながる、神に接ぎ木されるようにしてくださいました。その結果、私たちに永遠のいのちが流れ込んできて、永遠のいのちに生きるようにしてくださいました。ですから、キリストは死の呪いからの救い主です。だから、とてつもなく大きな喜びの知らせなのです。
さきほど「地の上に平和が、みこころにかなう人々にあるように」の「みこころにかなう人々」とはどういう人のことか、答えをまだ言っていませんでした。みこころにかなう人々とは、罪の赦しが必要だと自覚している人、罪の赦しを求めている人のことだと思います。良心にフタをしようとしても、しきれない。心を痛めているとか。その人こそ、神のみこころにかなった人。キリストはその人のために十字架にかかって下さったのです。神はその人に、ご自身との平和を与えようと、キリストをお遣わしになったのです。キリストはその重荷を取って下さるために、ご自分が身代わりに背負ってくださるために、救い主として世に来て下さったのです。御子は私たちを深く愛してくださったから、自ら進んで十字架にかかるために、お生まれになってくださいました。
だから、天使たちが総動員で空を埋め尽くして、神を賛美したのでしょう。全宇宙の造り主でありながら、こんなふうに人の救いを成し遂げてくださる神に、栄光があるようにと。
キリストは、私たちの死の問題を解決してくださいました。ご自身、三日目に復活して、永遠のいのちがあることを証明して見せてくれました。以後、約二千年、キリスト教会は連綿とこの永遠のいのちの望みというともしびを絶やさずに、受け継いでこんにちに至っています。罪の問題、死の問題という、人に取って最も大切な問題を解決してくださった救い主の誕生を、私たちもお祝いして、賛美をささげましょう。