前回は、すぐ前の個所で、罪の赦しによる救いという神の知恵について話しました。それは取税人たちや一般の民衆が救われて、宗教的エリートを自認するパリサイ人たちははじかれるという、不思議な神の知恵でした。そしてその実例として、ルカは今日の個所をここに置いていると思われます。「(神の)知恵の正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」(35節)と言われた、その証明の実例ともなっていると思います。
ところが、これを冷たい目で、冷たい心で、眺めていたのが、パリサイ人シモンです。彼はこの光景を見て、心の中で「この人がもし預言者だったら、自分に触っているのがどんな女か、わかるはずだ。この女は罪深いのだから。」とつぶやきました。預言者なら神通力があって、黙って座ればピタリとあたる。こんな汚らわしい罪人など、すぐさま退けるはずだ、と思ったのでしょう。それができないということは、これは偽物だと。 ところが、イエス様はそんなシモンの心の中のつぶやきをピタリと読み取って、彼に向って話をされます。イエス様が「シモン、あなたに言いたいことがあります。」と言うと、シモンは、こいつはまゆつばモノだと内心思っていたものの、そんなことはおくびにも出さず、「先生、お話ください。」と礼儀正しく、いかにもジェントルマン、優等生の対応をします。そんな彼に、イエス様はひとつのたとえを話されました。
さて、これからイエス様は、そのシモン自身が出した答えをもとにして、44節以下、彼が心の中でつぶやいた批判に答えられます。「それから(イエス様は)彼女の方を向き、シモンに言われた。『この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。 あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。』」
そうか、そういうわけだったのか…。この女は、確かに罪深い女でしたが、だからこそ、多く赦された感謝、感激、感動からあのようなふるまいをしていたのです。47節に「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。」とあるのは、彼女がイエス様に足を洗ったり、香油を塗ったりして、多く愛したという功績によって、赦されたという意味ではありません。何度も言っていますが、順番が大事。まず先に、彼女が赦された。だから、イエス様を愛して、自分にできる限りのことをしないではいられなかったのです。彼女があのようにイエス様にしないではいられなかったのは、彼女の罪が多く赦されたことの証だということです。しないではいられなかった。考えてみれば、彼女にとって、このような場に、パリサイ人シモンの家に来ることだけでも、勇気の要ったことでしょう。でも、そうせずにはいられなかったのです。それに比べてシモンは、たくさんの罪が赦されたという意識がないから、わずかしか愛せない。彼女には感謝と愛がありましたが、シモンにはそれがありませんでした。罪という悪いものから、神の前に芳しい良いものを生み出す福音の不思議です。
この女が、さっきからやっていた行為は、イエス様を愛してやまない、その心がなさしむるところだった。そうわかると、一見、奇妙な行動に見えた38節の描写も、むしろ、うらやましくなるというか。こんなにもイエス様を愛してやまないなんて、と。イエス様を愛することの少ない、冷たく重い石のような心のわが身が、とても薄情な人間に思われてきます。あたかもシモンのように、一応、イエス様に対して礼儀正しくは接しているかも知れないけれども、そつなく教会生活は送っているかも知れないけれども、果たして、本当にイエス様に対する熱い心、感謝の心、愛する心はあっただろうか。私のために、いのちまで捨てて、十字架にまでかかってくださった、熱いお心で私たちを愛してくださったお方に対して、あまりにも薄情な人間ではなかったか、と。それもつまるところ、自分がいかに多くを赦されているかが、わかっていないからではないか、と思わされるのです。
神が人に与えた最も大切な戒めは、神を愛すること、隣人を愛することです。本来、人はそのように造られました。そして、どうしたら、神を愛するようになれるか。多く赦された者が、多く愛するようになるのです。今日の個所で、彼女には罪赦された者の感謝と愛があり、シモンにはそれがありませんでした。罪の赦しによる救いという神が定めた救いの方法は、私たちが心から神を愛するようになるための治療法でもあったということでしょうか。罪の赦しによる救いという方法を定めた神の知恵が正しいことは、その知恵から生まれた子らー罪の赦しを信じて救われた者たちーが証明することの一例だと思います。
彼女のような場合は、自分でも罪びととわかりやすいでしょうが、シモンのように人から何も指さされることのない人が、自分を罪びとと認めるのは難しいことです。みなさんの多くも、この女でなくシモンの方だと思います。でも、安心して下さい。シモンも私たちも、自分で思っている以上にはるかに罪深いのです!だから望みがあります!この箇所は、本当はシモンも同じなのですよ、というのが裏のメッセージなのだと思います。彼女が五百デナリだとすれば、彼も五百デナリだった。ただ自分でそれに気づかずに、せいぜい五十デナリと思っていただけなのです。本当はシモンも私たちも「あなたの多くの罪は赦されています。」との主の宣言を必要としている者です。もし、正直、まだそうは思えないという方は、聖書を読むことをお勧めします。ヘブル書4:12-13、新約p. 441。
神は聖書のみことばによって、私たちの本当の姿、罪をあきらかにしてくださるでしょう。それは恵みです。感謝しましょう。聖霊がそのように示してくださったときには、祈りの中で、まずイエス様の御前に行って、そのためにこそイエス様は十字架にかかったのだと、改めて信じて、感謝を新たにする。喜びを新たにする。本来、神の御怒りを受けるべきわが身、神に拒まれて当然のわが身に代わって、神に拒まれ、御怒りを受けてくださったイエス様のゆえに、自分は赦され、神に受け入れられ、神の愛する子とされている。やがて来るさばきの時には、永遠の滅びを免れて、永遠の栄光の御国まで受け継がせて頂ける。その計り知れない恵みを思いつつ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。神との平和のうちに行きなさい」とイエス様から祝福のことばをいただく、幸いな者でありたいと願います。