礼拝説教要旨 2024年12月15日

多くの罪を赦されています

ルカの福音書7:36-50

<はじめに>

前回は、すぐ前の個所で、罪の赦しによる救いという神の知恵について話しました。それは取税人たちや一般の民衆が救われて、宗教的エリートを自認するパリサイ人たちははじかれるという、不思議な神の知恵でした。そしてその実例として、ルカは今日の個所をここに置いていると思われます。「(神の)知恵の正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」(35節)と言われた、その証明の実例ともなっていると思います。

<① イエス様の足を洗い、香油を塗る罪深い女(36-40節)>

いつのことか、時期は書かれていません。シモンというパリサイ人が(40節)、世間で預言者、メシアと騒がれているイエスという人と一度会って、直接、話を聞こうというのでしょうか、食事に招いたと言います。読む限りでは、何か罠にはめようとしてという魂胆は見受けられず、当時の律法に従って、ある人がシロかクロかを調べるには、直接、本人から話を聞くべきという原則に従ったのかもしれません(ヨハネ7:51)。噂だけで決めつけるのは律法違反。罪。ラインやメールなどで無責任な憂さ晴らしが拡散しやすい現代、私たちも気を付けたいところです。その点、このシモンは多少、良識をもったパリサイ人のように見えます。そこに、その町で知られた一人の罪深い女性がいました。この女性は人から後ろ指差されるような、紳士淑女からは、眉をしかめられるような、不道徳で知られる女でした。招かれたとは思えませんが、当時のユダヤでは、高名なラビ(律法の教師)が来た時は、誰でもその家に入って話を聞くことができたそうです。で、彼女は、人づてにイエス様が世間から罪びととつまはじきにされている人たちを受け入れて、悔い改めた彼らこそ、罪赦されて、神の国に入れて頂けると宣べ伝えていると、聞いていたのでしょう。それでイエス様がシモンの家に来ておられると知るや、香油の入った壺を持って来ました。そしてイエス様の足もとに近寄り、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、そして御足に口づけしたと言います。足への接吻は最高の感謝と謙遜の表現と言われます。そして香油は当時、大変高価なものでしたが、それを惜しげもなく御足に塗りました。当時の習慣として、旅人の足を洗い、油(香油ではない)で塗るというもてなしの仕方がありました。かの地では乾燥した地面をわらじのようなものを履いて歩いていましたから、足は汚れ、カサカサに乾きますから。彼女はイエス様にそうしようとしたのでしょうが、しかし水ではなくあふれ出る涙でイエス様の足を洗い、手ぬぐいでなく自分の髪の毛で足をぬぐう。その足に口づけし、最後に高価な香油を塗る。これは単に旅人を歓迎する以上のふるまいです。何が彼女をここまでさせたのか。それには理由がありました。こうせずにはいられない、イエス様に対する感謝と愛があふれ出てのふるまいでした。それは後ほどあきらかになります。

ところが、これを冷たい目で、冷たい心で、眺めていたのが、パリサイ人シモンです。彼はこの光景を見て、心の中で「この人がもし預言者だったら、自分に触っているのがどんな女か、わかるはずだ。この女は罪深いのだから。」とつぶやきました。預言者なら神通力があって、黙って座ればピタリとあたる。こんな汚らわしい罪人など、すぐさま退けるはずだ、と思ったのでしょう。それができないということは、これは偽物だと。 ところが、イエス様はそんなシモンの心の中のつぶやきをピタリと読み取って、彼に向って話をされます。イエス様が「シモン、あなたに言いたいことがあります。」と言うと、シモンは、こいつはまゆつばモノだと内心思っていたものの、そんなことはおくびにも出さず、「先生、お話ください。」と礼儀正しく、いかにもジェントルマン、優等生の対応をします。そんな彼に、イエス様はひとつのたとえを話されました。

<② 多く赦された者が多く愛する(41-47節)>

イエス様のたとえはこうです。ある金貸しから、一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ借りた。一デナリは当時の労働者の一日分の給料に相当する額だそうですから、一人は五十日分、もう一人は五百日分の給料に相当する大金を借りたことになります。二人とも、それをどうしても返せなかったので、金貸しは帳消しにしてやった。「帳消しにした」は「恵み」という語から来ている語で、「恵みを施した」が元の意味。まったくの好意で、恵みで、帳消しにしてあげた。何の条件もなし。完全に無罪放免。で、この場合、どちらがよりこの金貸しを愛するようになるか、とイエス様は問われました。シモンは当然「多く帳消しにしてもらった方だと思います」と答えました。何のひねりもなく、そのまま、それが正解です。

さて、これからイエス様は、そのシモン自身が出した答えをもとにして、44節以下、彼が心の中でつぶやいた批判に答えられます。「それから(イエス様は)彼女の方を向き、シモンに言われた。『この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。 あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。』」

そうか、そういうわけだったのか…。この女は、確かに罪深い女でしたが、だからこそ、多く赦された感謝、感激、感動からあのようなふるまいをしていたのです。47節に「この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。」とあるのは、彼女がイエス様に足を洗ったり、香油を塗ったりして、多く愛したという功績によって、赦されたという意味ではありません。何度も言っていますが、順番が大事。まず先に、彼女が赦された。だから、イエス様を愛して、自分にできる限りのことをしないではいられなかったのです。彼女があのようにイエス様にしないではいられなかったのは、彼女の罪が多く赦されたことの証だということです。しないではいられなかった。考えてみれば、彼女にとって、このような場に、パリサイ人シモンの家に来ることだけでも、勇気の要ったことでしょう。でも、そうせずにはいられなかったのです。それに比べてシモンは、たくさんの罪が赦されたという意識がないから、わずかしか愛せない。彼女には感謝と愛がありましたが、シモンにはそれがありませんでした。罪という悪いものから、神の前に芳しい良いものを生み出す福音の不思議です。

この女が、さっきからやっていた行為は、イエス様を愛してやまない、その心がなさしむるところだった。そうわかると、一見、奇妙な行動に見えた38節の描写も、むしろ、うらやましくなるというか。こんなにもイエス様を愛してやまないなんて、と。イエス様を愛することの少ない、冷たく重い石のような心のわが身が、とても薄情な人間に思われてきます。あたかもシモンのように、一応、イエス様に対して礼儀正しくは接しているかも知れないけれども、そつなく教会生活は送っているかも知れないけれども、果たして、本当にイエス様に対する熱い心、感謝の心、愛する心はあっただろうか。私のために、いのちまで捨てて、十字架にまでかかってくださった、熱いお心で私たちを愛してくださったお方に対して、あまりにも薄情な人間ではなかったか、と。それもつまるところ、自分がいかに多くを赦されているかが、わかっていないからではないか、と思わされるのです。

<③ 平和のうちに行きなさい(49-50節)>

イエス様は、シモンへの説明を終えられると、そばでこの話を聞いていた女のほうを向いて、改めて、「あなたの罪は赦されています。」と言葉をかけられました。あなたがどんな思いでこれらのことをしてくれたか、わたしはわかっています。あなたのその確信は正しいものです、あなたは赦されています、と。するとすぐさま、同じテーブルについていたシモンのパリサイ仲間でしょう、こういう時に必ず水を差すパリサイ人たちがコソコソと言い始めました。「罪を赦すことさえするこの人は、いったい何様なのか。」このイエス様のたとえを聞いたあとでも、なお心を頑なにして、イエス様を神から遣わされた救い主キリストと認めない。預言者とも認めず、ますますイエス様への反感を強める。しかしイエス様は、そんな雑音など気にせずに、その信仰をもって歩みなさいと彼女を送り出します。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」ここでも、彼女がイエス様に何かをしたからではなく、ただ信仰によって救われたことが確認されます。「安心して行きなさい」は「平和のうちに行きなさい」とも訳されます。単に内面の平安という心の問題だけでなく、神との客観的な平和な関係―これこそ救いーのうちに歩みなさいと。神との平和が回復した生活へと彼女を送り出すイエス様の祝福の言葉です。私たちもこのことばをイエス様から頂いています。

<多くの罪を赦されています>

「 カルバリの十字架 わがためなり 」新聖歌 112番

神が人に与えた最も大切な戒めは、神を愛すること、隣人を愛することです。本来、人はそのように造られました。そして、どうしたら、神を愛するようになれるか。多く赦された者が、多く愛するようになるのです。今日の個所で、彼女には罪赦された者の感謝と愛があり、シモンにはそれがありませんでした。罪の赦しによる救いという神が定めた救いの方法は、私たちが心から神を愛するようになるための治療法でもあったということでしょうか。罪の赦しによる救いという方法を定めた神の知恵が正しいことは、その知恵から生まれた子らー罪の赦しを信じて救われた者たちーが証明することの一例だと思います。

彼女のような場合は、自分でも罪びととわかりやすいでしょうが、シモンのように人から何も指さされることのない人が、自分を罪びとと認めるのは難しいことです。みなさんの多くも、この女でなくシモンの方だと思います。でも、安心して下さい。シモンも私たちも、自分で思っている以上にはるかに罪深いのです!だから望みがあります!この箇所は、本当はシモンも同じなのですよ、というのが裏のメッセージなのだと思います。彼女が五百デナリだとすれば、彼も五百デナリだった。ただ自分でそれに気づかずに、せいぜい五十デナリと思っていただけなのです。本当はシモンも私たちも「あなたの多くの罪は赦されています。」との主の宣言を必要としている者です。もし、正直、まだそうは思えないという方は、聖書を読むことをお勧めします。ヘブル書4:12-13、新約p. 441。

4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
4:13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

神は聖書のみことばによって、私たちの本当の姿、罪をあきらかにしてくださるでしょう。それは恵みです。感謝しましょう。聖霊がそのように示してくださったときには、祈りの中で、まずイエス様の御前に行って、そのためにこそイエス様は十字架にかかったのだと、改めて信じて、感謝を新たにする。喜びを新たにする。本来、神の御怒りを受けるべきわが身、神に拒まれて当然のわが身に代わって、神に拒まれ、御怒りを受けてくださったイエス様のゆえに、自分は赦され、神に受け入れられ、神の愛する子とされている。やがて来るさばきの時には、永遠の滅びを免れて、永遠の栄光の御国まで受け継がせて頂ける。その計り知れない恵みを思いつつ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。神との平和のうちに行きなさい」とイエス様から祝福のことばをいただく、幸いな者でありたいと願います。