礼拝説教要旨 2024年12月8日

イエス・キリスト =この方が罪からの救い主=

マタイの福音書1:18~25

二か月に一度の説教奉仕の機会を、私たちにとって、クリスマスの喜びと感謝の季節の中で導かれた。主の日毎の礼拝は、もちろん喜びであり、感謝なひとときであるが、クリスマスの喜びは格別である。また独特とも思われる。今朝は、福音書に記されている、イエス・キリストの誕生の出来事に目を留め、その誕生は「救い主のお生まれ」であると、しっかり心に刻みたい。よくよく知っていることでも、何か見落としていることはないか、との自戒を込めて。

何故に「自戒」なのか? この秋、日本で、そしてアメリカで、と選挙が続いた。これからも続くに違いない。この世の出来事には、嘘や偽りがはびこり、醜くさばかりが増して、一体どこに真実があるのか、はなはだ危うい状態となっている。この世界は破滅に向かっているのかもしれない。それでも、富の追及を止めようとはしない。そんな中でクリスマスが巡って来るのは、私たちの生きる原点を見つめ直すよう迫られるからと思われる。今朝の聖書個所には、マリヤが産む男の子に、「その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と命じられていることを覚えたい。

1、

最初のクリスマスの出来事は、マタイとルカの福音書に記されている。時間的な順序としては、ルカの福音書の記述があり、それにマタイの福音書の今朝の個所が続く。マタイは、アブラハムから始まる系図を十四代ごとに区切りながら、神の救いのご計画は、約束の通り実現していることを告げ、その上で「イエス・キリストの誕生は次のようであった。・・・」と記している。世の多くの人は、キリストの誕生を単なるお話として、おとぎ話のように思っているのかもしれない。実際に巷のクリスマスは、プレゼントかケーキに集中して、キリストの誕生は二の次である。その理由の一つは、「処女降誕」かもしれず、クリスマス物語は、非科学的で現代人にはなじまない、ということかもしれない。「処女降誕」だけでなく、「飼葉おけの幼子」と「羊飼いたちへの御使いの知らせ」、そして、「星に導かれた博士たちの登場」や「エジプトへの逃避」は、物語としては成立しても、本当かは疑わしいと、「キリストの誕生」という中心を脇に追いやってしまっている。

2、

けれども、科学的な思考は、私たち現代人だからできるというものではない。およそ二千年前のローマ帝国の時代においても、人々は十分に科学的な思考や思索を身に着けていた。「処女降誕」については、常識的には有り得ない、そんなことを認めることはできないと、なかなか受け入れられない事柄であった。そのような事情があったので、マタイの福音書は(もちろんルカの福音書も)、その事実をわざわざ弁証するように書き記している。「母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」(18節)この事実はマリヤ本人にとって一大事であり、ヨセフも、どうしたものか・・・と、大いに悩み苦しんでいた。マリヤは、「神にとって不可能なことは何もありません」と、御使いから告げられ、「ご覧下さい。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と語って、神に信頼することができたが、ヨセフにはどう話してよいのか、話さないまま、戸惑いの中で日々を過ごしていたようである。ヨセフの苦悩は、いよいよ深まっていた。(ルカ1:26~38)ようやく彼なりに答を出した時、御使いがヨセフに、安心してマリヤを妻として迎えるよう命じ、胎の子は聖霊によると告げたのである。(19~20節)

3、

ヨセフには、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と、はっきり告げられた。(21節)彼は、神を信じていた。また神の前に自分の罪を認めて生きようとする、神を畏れる「正しい人」であった。マリヤをさらし者にしたくないと考え、先ずは「ひそかに離縁しようと思った」というように、マリヤの最善を願うことのできる人であった。そのように思い巡らしていたところに、御使いが夢に現れて、これは神の御業であると告げられたのである。彼は、幼子の誕生が神の御業であるなら、そのために自分のできることをしようと心を決めることができた。眠りから覚めたとき、「主の使いが命じらたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」(24~25節)ヨセフはマリヤを支え、そうすることによって、神の言葉に従った。ヨセフが神を信じて従ったことの中心に、「イエス」という名の男の子について、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」と告げられたことが心に響いたのに違いない。「罪からの救い」は、人間の力では不可能と知る、そのような意味で「正しい人」であったと思われる。聖霊によってマリヤの胎に宿った男の子を、罪のない方、罪からの救い主と信じた。自分の罪を知る者、罪を認めて悔いる者だけが、必ずや罪からの救いを願う者となる。自分の罪を知らず、認めない者は、罪を悔いることはなく、罪からの救いを願うことなど、決してしないからである。

<結び>

私たちは、今朝、礼拝に集い、イエス・キリストの誕生の出来事に目を留めるよう導かれている。「処女降誕なんて信じられない」と退けるのでなく、かえって、そこまで確かな御業として、罪からの救い主がお生まれになったことを心から感謝し、喜びをもって賛美をささげ、また祈りをささげたい。「イエス」という名には、「主は救い」、あるいは「主は救いたもう」との意味があり、その救いは「罪からの救い」であることを、私たちもはっきりと覚えたい。

生ける真の神に背を向けた人間の罪の現実は、人間の側ではどうすることもできない、恐ろしい悲劇と言うほどの難題である。この世界の現状をどのように理解するのか、それは悩ましいほどである。温暖化に伴う自然災害は、止まることがないほどに拡大し、国と国、民族と民族の争いが激しさを増している。収束の兆しは見えない。国内の犯罪は、益々巧妙になり、暴力的となりながら、背後の闇の世界は底無しである。政治の世界も経済の世界も、不正がまかり通ってばかりで、どうなることかと心が痛む。

私たちは、「イエス」と名づけられる幼子について、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」告げられた方こそが、私たち自身にとっての「罪からの救い主である」ことを心から信じて、この方に従う信仰をいよいよ明確にされることを願いたい。またこの方は、いつでも、どこにいても、私たちと共にいて下さる神、「インマヌエル」と呼ばれるお方としてお生まれになられたことをしっかりと覚えたい。この出来事は、旧約聖書の預言の成就として、確かなこととして起こっていた。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。『見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(22~23節)クリスマスの出来事は「罪からの救い主の誕生」である。お生まれになった方、イエス・キリストは、私たちを罪から救うためにお生まれになり、十字架で身代わりに死なれたことを信じて、この福音を証しすることが導かれるように。今年もクリスマスが、感謝の内に、よい証しの時となるよう祈りたい!!