前回はバプテスマのヨハネが、イエス様を本当にキリストなのだろうか、と信仰が揺らいだところを見ました。あの、ヨハネが…。まさか、まさかでした。このとき、投獄されていたヨハネは弟子たちを遣わして、イエス様にその疑問をぶつけましたが、それに対するイエス様の処方箋は、聖書に立ち返るようにということでした。イエス様は、盲人の目を開けたり、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにしたり、重い皮膚病の人を癒したり、死人さえも生き返らせたり、とご自分がなさっていることが、旧約聖書の預言の成就であることを思い起こすようにと、ヨハネの弟子たちに言づけて帰らせたのでした。
今日はその続きです。ヨハネの使いが帰ってから、イエス様はヨハネについて群衆に話し始められました。ヨハネが揺らいだからと言って、彼を見下げないように、彼が宣べ伝えていた悔い改めのバプテスマが効力がないなどと思わないように。イエス様はヨハネの正しい位置づけをされたようにも読めます。それはまた、神の定めたもうた救いの方法について大切なことを教えてくれるものでした。
ヨハネは、投獄される前、イスラエルの中央を流れるヨルダン川の近くの荒野で人々に悔い改めを宣べ伝えていました。そこに全国津々浦々から人々が集まってきていたのですが、イエス様は「あなたがたは、何を見に荒野にまで出て行ったのですか。風に揺れる葦でも見に行ったのですか?」と言われました。ちょっと皮肉まじりでしょうか。風の吹くまま、どの方向にでもなびく葦のように、世論に迎合して、みんなが右といえば右といい、左といえば左というような、まったく当てにならない言葉を聞きに行ったのですか?ヨハネはそんな風に揺れる葦ではありません。領主ヘロデにでも、罪を責めて悔い改めを迫った人です。また25節「では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。」ヨハネはぜいたくに暮らしている人でもありません。荒野で暮らして、ごわごわしたラクダの毛衣をまとい、いなごと野蜜を食べていました。世の欲とは無縁の生活をしていました。そしてイエス様は言われました。「そうでなかったら、何を見に行ったのですか?預言者ですか?そう、その通り。しかしわたしはあえて言いますが、預言者以上の者です」。ヨハネは神から遣わされた預言者です。それも特別な役割を与えられた預言者です。ほかの預言者は、イエス様の何百年も前に、遠い未来のこととして、いつか来る方としてキリストを指さすだけでしたが、ヨハネは直接、イエス様を「この方こそ、キリスト」と世に紹介しました。また彼自身、預言者でありながら、その預言者に過ぎない彼の出現も、数百年前にほかの預言者によって預言されていたという点で、特別でした。その説明が27節「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」二重かぎカッコの中は、旧約聖書の一番最後にあるマラキ書というところにあることば(3:1,p1633)。ここの「わたし」は神。「あなた」はキリストのこと。これは神が、キリストを世に送る前に、露払い役、道備え役として一人の使いを遣わすと預言しているものです。で、あのヨハネが、それだというのです。これも、旧約聖書に預言されていた通り。前回も言いましたが、誰かがイキナリぽっと出て来て、自分がキリストだ、救い主だと言い出した「自称救い主」にだまされないよう、旧約聖書は、本物の救い主を見分けるためのしるしをあらかじめ何百年も前からいくつも記しています。私たちが自分の思い込みでなく、客観的な事実として確認できるように、神は長い年月をかけて旧約聖書を与えてくださいました。
さて、その、神の子とする恵みを人々に与えるために、神はヨハネを遣わしたのですが、そのヨハネを受け入れたのは、一般の民衆であり、取税人たちでした。「ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。」(29節)ヨハネの教えとは、神の国に入れて頂くために、悔い改めよ、と悔い改めを説く教えです。それを受け入れるとは、神を正しいと認めることです。
ところが、パリサイ人たち、律法の専門家たちは、ヨハネの教えを拒みました。不思議なのは神の道です。週に二度断食しているパリサイ人や律法学者の方が、人の目には正しいように見えたでしょう。しかし、彼らはヨハネを拒み、神のみこころを拒んだ。神の子の恵み、身分にはあずかることができなかったのです。かえって弱い者、罪びとの方が、ヨハネを受け入れて、バプテスマを受けました。これが神の知恵なのでしょう。高ぶる者を退け、心の貧しい者に恵みを与える。パリサイ人たちは熱心であり、律法にも通じていました。しかしそれがかえって仇となった。彼らは自分が少しばかり律法を知り、形ばかり律法を守っているからと言って、自分を正しいと誇り、悔い改めを説くヨハネを拒んだのです。何を失礼な、と。神は悲しまれたでしょう。神のみこころは、いつでも、私たちが悔い改めて、罪の赦しによる救いを得ることです。私たちを裁くことではないのです。
悔い改めを神は喜ばれ、尊ばれます。私たちが悔い改めるとき、その悔い改めた心を大事に育んでくださいます。誤解のないように。悔い改めて、正しい完全な生活をしたら神に受け入れられるというのではありません。悔い改めたら、即座に罪の赦しが与えられ、神に受け入れられるのです。神が定めた救いの方法は、罪の赦しによって神に受け入れられるということです。そのための悔い改めです。これからも神に逆らって生きるぞ!と逆らう気満々の者に罪の赦しが与えられるはずがありません。しかし悔い改めた魂には、傷んだ葦も折ることなく、くすぶる燈心も消すことなく、どこまでも赦しに赦してくださいます。神の恵みは尽きることがありません。とことん付き合って、決して見放すことがありません。
神のみこころを拒む彼らのあり方を、イエス様は、広場に座る二つの子どものグループに例えました。一方は結婚式の披露宴ごっこをやりたくて、陽気に笛を吹いているけれども、もう一方のグループは葬式ごっこをしたくて、悲し気な弔いの歌を歌っている。葬式ごっこをしたい方からすると、自分たちは弔いの歌を歌っているのに、相手は笛なんか吹いている。それで互いに「どうして君たちは踊らないのか、そんな陰気な顔をして」とか、「どうして君たちは泣かないのか、そんな馬鹿みたいに浮かれて」とか、悪口を言いあっている。要は、勝手な言い草で文句を言っているということでしょうか。
バプテスマのヨハネは、悔い改めを宣べ伝えるために、神から遣わされました。だから、熱心に断食したのです。もしかしたら、パリサイ人たち以上に、熱心に断食をしていたのかもしれません。そんなヨハネに対して、妬みもあって、「あれは悪霊につかれている」とやじったのか。また、取税人のマタイが悔い改めて救われたときに、喜びのあまり、マタイは取税人仲間を招いて、イエス様たち一行と食べたり飲んだりしました。一人の罪びとが悔い改めたら、天では御使いたちの間に大歓声が湧き起こっています。神にとって、それほどの喜びなのです。一人の罪びとが悔い改めることは。それをパリサイ人たちは、あれは大食いの大酒飲み、酒税人や罪人の仲間とくさす。ヨハネとイエス様は、神のみこころに従って、断食すべき時に断食し、喜ぶべき時に喜んでいたのです。それを批判する彼らの方が、断食すべき時も喜ぶべき時も見分けることができず、ただ子どもの遊びのように勝手気ままに見当違いな批判をしている。それは彼らの勝手な言い草です。結局、彼らは神のみこころに従うことを拒んで、自分のしたいようにしているだけ、自己満足の宗教ごっこをしているだけということでしょうか。
罪の赦しによって私たちを救うという神のみこころを行うために、御子は天を蹴って人となり、世に来てくださいました。そして十字架で贖いを成し遂げてくださいました。アドベントの季節、そのありがたい神のみこころを思い、改めて感謝したいと思います。