今日の舞台となるカペナウムは、イスラエル北方に位置するガリラヤ湖の、そのまた北側に面した町で、イエス様の伝道活動の本拠地とされたところ。漁業を中心とした比較的大きな地方都市で、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブもこの町で網を打っていた漁師でした。当時の道路図を見ると、すぐ近くをエジプトとメソポタミヤ地方を結ぶ幹線道路が通っていて、人やモノが行き来する活気のある町だったと思われます。ローマ帝国に納める税金を集める収税所も置かれ、そしてローマの軍隊もこの地に駐留していました。今日、登場する「百人隊長」も、その駐留していたローマの軍人のひとりでした。百人隊長とはその名の通り、百人を統率する隊長のことです。もちろんユダヤ人ではなく異邦人です。今日の個所はこの百人隊長の信仰にスポットライトを当てて、私たちに、主に喜ばれる信仰について、教えてくれています。
いづれにせよ、泣く子も黙るローマの百人隊長でありながら、身を低くして、ユダヤ人の長老たちを介して、懇願したのでした。神に近づけられ、受け入れられるためには、この世の肩書、立場など何の意味もない。むしろ、異邦人という、イスラエル人と比べれば、神から遠い存在。その神の定めを謙虚に受け止めつつ、同時に自分が異邦人だからとあきらめるでもなく、しもべのために、ユダヤ人を通して神の恵み、あわれみを乞い願う。彼は神があわれみ深く、恵み深い方ということも、旧約聖書から知っていたのでしょう。彼は神に関する正しい知識と、そして謙虚さと熱心をもった模範的な信仰者でした。
しかしイエス様は、それに対して否とも応とも答えず、百人隊長の家に向かいました。そして家の近くまで来たところ、今度は百人隊長は友人たちを遣わして、イエス様に言伝しました。6節「…主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。」百人隊長の口から出た言葉は、ユダヤ人たちの推薦の弁とは正反対でした。ユダヤ人は「この人は、そうして頂く資格がある」と評価したのに対して、百人隊長本人は「私には資格がありません。」なのです。
ここに彼の驚くべき信仰が一つ、あります。人は、何か神のために大きなことをしたら、それを功績と考えてしまいがちではないでしょうか。人間的に見れば、会堂一つ建てたというのは、大変な功績です。考えてみてください。もし仮に、自分が何千万か、ポーンとお金を出して、所沢に会堂を一つ、建てて寄贈したとしたら、どうでしょう。神にお願いの一つや二つ、聞いてもらってもバチは当たらんだろう、などと愚かにも勘違いしてしまうかもしれません。頭では、こんなこと、何の功績にもならないと理解しても、心のどこかでそれを誇るような気持ちが湧いてくるかもしれません。しかし、この百人隊長は、神の偉大さ、きよさをわきまえていたというのか、自分をわきまえていたというのか。己のわずかばかりの功績にふくれあがって、神との関係を見誤ってしまうことがありませんでした。彼は、自分の目の中の梁として、偽りの「自己義」を勝手に仕立て上げることをしませんでした。これだけのことをしたのだから、神に受け入れられるだろうと。ユダヤ人よりも正しく神のことを知っていました。彼は神の定めとして、異邦人である自分は、神から遠い存在であるとわきまえて、その境界線を勝手に乗り越えることをせず、「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。」と頭を低くすることをやめないのです。
まさにその通りでした。私たち人間の罪というものは、会堂の一つや二つ、いや、百や二百建てたって、帳消しになるようなものではないのです。そんなもので帳消しになるなら、生ける神の御子が十字架にかかる必要など、なかったのですから。偉大な、聖なる神の御前で私たちの罪は、ただただ生ける神の御子の血潮によらなければ、決して消えることのないものです。だからこそ、御子は、天を蹴って人となって世に降り、自ら進んで私たちのために十字架にかかって、ご自身のきよい血潮を流されたのです。それは、私たちがそれほどまでに愛されているということのあかしでもあります。
イエス様は、これを聞いて驚かれ、ついてきていた群衆に言いました。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」(9節)そして使いに送られた人たちが家に帰ると、そのしもべはよくなっていたのです(10節)。
イエス様は百人隊長の言葉を聞いて言われた「これほどの信仰」とは、具体的には何のことでしょう。それは、「イエス様が言ったことは、必ずその通りになる」という強い信仰というよりも、聖書に沿った正しい信仰という意味のように、私には思われます。ですから、節で言うと6ー8節全体を指すと言いますか。7節後半だけを指すのでなく。以下、2点。
一つは、繰り返しになりますが、ユダヤ人が「この人はそうして頂く資格がある」と述べたのに対し、彼自身は「私にはその資格はありません」と言いましたが、資格がないなら、あきらめるか、というとそうではなくて、大切なしもべを癒していただくために、ユダヤ人長老を仲介者として立てて、イエス様に懇願しました。それは資格があるからではなくて、資格がなくても、神のあわれみ、恵み深さに望みを置いてのことでしょう。彼は神の偉大さ、きよさとともに、神があわれみ深く、恵み深い方であることも知っていました。これはとても大切なことです。少しでも功績のようなことを考えてはいけません。それは人を奢り高ぶらせるかと思えば、逆にうまくいかないとひどく落ち込ませ、またできない人をさばくことになります。この百人隊長を見よ、です。彼自身は、会堂を建てたという、人間的には立派なことをしましたし、百人隊長という肩書もありましたし、ユダヤ人たちからも絶賛されるほど人望もある立派な人格者でしたが、それら、人間的に誇れるものには一顧だにせず、ただ神のあわれみ、恵みに望みを置いていました。そしてイエス様も、それらのことには一言も触れず、ただ彼の信仰だけを賞賛されました。あわれみ100%、恵み100%。そこにのみ、より頼む信仰です。このような信仰は、人と比べるのでなく、神の偉大さ、きよさということを知ったときに、初めて自分が神の前にいかなるものか、わかるものなのでしょう。詩篇8:3-4、旧約p. 939。
そしてもう一つ、イエス様が賞賛された彼の信仰とは、彼が、イエス様がどういう方であるかを正しく理解していた点ではないかと思います。つまり、イエス様のことばは必ずなる!と力んで信じる信仰の強さのようなものではなく、イエス様がどういう方か、権威をもって神から遣わされた方だと正しく理解していたという点です。
イエス様をどういうお方と理解するかは、とても大切なことです。ただの博愛主義者、宗教的天才に過ぎないのか、それとも神から遣わされた救い主と信じるのか。このイエスというお方をどういうお方と理解し、信じるかが、その人の永遠の運命を決定するのですから、一大事の中の一大事です。ヨハネ3:16
イエスというお方は、人となられた生ける神の御子。永遠のまことの神であられる方が、私たちを愛して、私たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、天を蹴って肉体をまとって人となられ、十字架にまでかかって下さいました。そして神は御子を復活させて、天に上げられ、キリストは父なる神の右の座に着かれました。このお方が私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです。ただただあわれみ、恵みのゆえに。