礼拝説教要旨 2024年11月10日

このような信仰を

ルカの福音書7:1-10

<はじめに>

今日の舞台となるカペナウムは、イスラエル北方に位置するガリラヤ湖の、そのまた北側に面した町で、イエス様の伝道活動の本拠地とされたところ。漁業を中心とした比較的大きな地方都市で、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブもこの町で網を打っていた漁師でした。当時の道路図を見ると、すぐ近くをエジプトとメソポタミヤ地方を結ぶ幹線道路が通っていて、人やモノが行き来する活気のある町だったと思われます。ローマ帝国に納める税金を集める収税所も置かれ、そしてローマの軍隊もこの地に駐留していました。今日、登場する「百人隊長」も、その駐留していたローマの軍人のひとりでした。百人隊長とはその名の通り、百人を統率する隊長のことです。もちろんユダヤ人ではなく異邦人です。今日の個所はこの百人隊長の信仰にスポットライトを当てて、私たちに、主に喜ばれる信仰について、教えてくれています。

<① イエス様に懇願した百人隊長:肩書、立場は関係なく(1-3節)>

その百人隊長のしもべが病気で死にかけていたと言います(2節)。彼はイエス様の噂を聞くや、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようにと懇願しました(3節)。自分の子どもためにイエス様のところに来るのはしばしばありますが、しもべのためにというのは福音書中、この百人隊長だけかと思います。奴隷の人権などない時代に、彼は、しもべをモノや消耗品のように使い捨てるのでなく、神を恐れて彼らを慈しみ、大切にしていたのでしょう。また、彼はローマ帝国側、すなわちイスラエルを支配する側でありながら、支配される側のユダヤ人であるイエス様に助けを求めて「お願い」しました。ローマ帝国の権威をかさに来て、来い、と命令することもできたでしょうが、礼を尽くしてお願いしました。異邦人である自分が直接行くのも、ユダヤ人に対しては失礼、―ユダヤ人は異邦人を汚れたものと見なしていましたから、-それで、ユダヤ人の長老たちに口を利いてもらおうと考えたのでしょう。と同時に、それはただ人間的に礼を尽くしただけでなく、旧約の時代は、神はイスラエル人をあわれんで神の民としてお選びになり、モーセ律法をはじめ、みことばを与え、ご自身を現されました。その時代には、異邦人はまだ神に受け入れられる恵みが公には明らかにされていませんでした。なので、ある意味、ユダヤ人が、神と異邦人の間をとりもつ、いわば祭司のような役割を担っている面があったのでしょう(出エジプト19:6)。

いづれにせよ、泣く子も黙るローマの百人隊長でありながら、身を低くして、ユダヤ人の長老たちを介して、懇願したのでした。神に近づけられ、受け入れられるためには、この世の肩書、立場など何の意味もない。むしろ、異邦人という、イスラエル人と比べれば、神から遠い存在。その神の定めを謙虚に受け止めつつ、同時に自分が異邦人だからとあきらめるでもなく、しもべのために、ユダヤ人を通して神の恵み、あわれみを乞い願う。彼は神があわれみ深く、恵み深い方ということも、旧約聖書から知っていたのでしょう。彼は神に関する正しい知識と、そして謙虚さと熱心をもった模範的な信仰者でした。

<② ユダヤ人の評価と百人隊長の自己評価:功績も関係なく(4-6節)>

特筆すべきことに、普通は異邦人を毛嫌いするユダヤ人の長老たちも、彼に関しては心から受け入れていたようで、「熱心に」推薦の弁を述べました。彼らは開口一番、こう言いました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」(4-5節)。当時、ユダヤ人のために会堂を一つ建てたというのは並々ならぬ功績でして、ユダヤ人たちはこの百人隊長の功績を評価して、「この人は、そうしていただく資格のある人です。」と太鼓判を押しました。それも、恩着せがましく、何か下心があって…というのでなく、「私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」と手放しで絶賛なのです。

しかしイエス様は、それに対して否とも応とも答えず、百人隊長の家に向かいました。そして家の近くまで来たところ、今度は百人隊長は友人たちを遣わして、イエス様に言伝しました。6節「…主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。」百人隊長の口から出た言葉は、ユダヤ人たちの推薦の弁とは正反対でした。ユダヤ人は「この人は、そうして頂く資格がある」と評価したのに対して、百人隊長本人は「私には資格がありません。」なのです。

ここに彼の驚くべき信仰が一つ、あります。人は、何か神のために大きなことをしたら、それを功績と考えてしまいがちではないでしょうか。人間的に見れば、会堂一つ建てたというのは、大変な功績です。考えてみてください。もし仮に、自分が何千万か、ポーンとお金を出して、所沢に会堂を一つ、建てて寄贈したとしたら、どうでしょう。神にお願いの一つや二つ、聞いてもらってもバチは当たらんだろう、などと愚かにも勘違いしてしまうかもしれません。頭では、こんなこと、何の功績にもならないと理解しても、心のどこかでそれを誇るような気持ちが湧いてくるかもしれません。しかし、この百人隊長は、神の偉大さ、きよさをわきまえていたというのか、自分をわきまえていたというのか。己のわずかばかりの功績にふくれあがって、神との関係を見誤ってしまうことがありませんでした。彼は、自分の目の中の梁として、偽りの「自己義」を勝手に仕立て上げることをしませんでした。これだけのことをしたのだから、神に受け入れられるだろうと。ユダヤ人よりも正しく神のことを知っていました。彼は神の定めとして、異邦人である自分は、神から遠い存在であるとわきまえて、その境界線を勝手に乗り越えることをせず、「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません。」と頭を低くすることをやめないのです。

まさにその通りでした。私たち人間の罪というものは、会堂の一つや二つ、いや、百や二百建てたって、帳消しになるようなものではないのです。そんなもので帳消しになるなら、生ける神の御子が十字架にかかる必要など、なかったのですから。偉大な、聖なる神の御前で私たちの罪は、ただただ生ける神の御子の血潮によらなければ、決して消えることのないものです。だからこそ、御子は、天を蹴って人となって世に降り、自ら進んで私たちのために十字架にかかって、ご自身のきよい血潮を流されたのです。それは、私たちがそれほどまでに愛されているということのあかしでもあります。

<③ イエス様に対する理解:ただ信仰によって(7-10節)>

百人隊長から遣わされた友人たちは言葉を続けます。百人隊長は、自分がイエス様のところに伺うことさえ、ふさわしくありませんが、ただおことばをください、というのです。そうすれば、しもべはいやされますからと。どうして彼がそう思ったか。いかにも軍人らしく権威という観点から理解していました。彼は自分自身も権威の下にいるが、自分の下にも兵士たちがいて、その一人に「行け」と言えば行くし、別の者に「来い」と言えば来る。またしもべに「これをせよ」と言えば、そのようにする。だから、イエス様がただ「癒されよ」とお言葉を下されば、病もただちに言うことを聞いて、癒されるというのです(7-8節)。軍隊という所は、命のやり取りをする戦場にいるわけですから、一糸乱れぬ統制が必要で、命令系統は明確、その命令には速やかに確実に従わなければいけません。一人の不従順が全体を滅ぼしかねない。百人隊長自身も、上官の命令には絶対服従していたはずですし、また自分の部下にも、命令を出せばその通りになることを身をもって経験していたでしょう。権威ある者の言葉は拘束力がある。下の者を従わせる力がある。彼は、イエス様が方々で病の人を癒し、悪霊つきから悪霊を追い出している噂を聞いたときに、自分の経験に照らして、イエス様が神から権威と共に遣わされた聖なる方と理解したのでしょう。病に対してさえも、出て行け、と言えば、その通りに従わせることができる権威。

イエス様は、これを聞いて驚かれ、ついてきていた群衆に言いました。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」(9節)そして使いに送られた人たちが家に帰ると、そのしもべはよくなっていたのです(10節)。

<このような信仰を>

「 わが身の望みは 」新聖歌 363A番

イエス様は百人隊長の言葉を聞いて言われた「これほどの信仰」とは、具体的には何のことでしょう。それは、「イエス様が言ったことは、必ずその通りになる」という強い信仰というよりも、聖書に沿った正しい信仰という意味のように、私には思われます。ですから、節で言うと6ー8節全体を指すと言いますか。7節後半だけを指すのでなく。以下、2点。

一つは、繰り返しになりますが、ユダヤ人が「この人はそうして頂く資格がある」と述べたのに対し、彼自身は「私にはその資格はありません」と言いましたが、資格がないなら、あきらめるか、というとそうではなくて、大切なしもべを癒していただくために、ユダヤ人長老を仲介者として立てて、イエス様に懇願しました。それは資格があるからではなくて、資格がなくても、神のあわれみ、恵み深さに望みを置いてのことでしょう。彼は神の偉大さ、きよさとともに、神があわれみ深く、恵み深い方であることも知っていました。これはとても大切なことです。少しでも功績のようなことを考えてはいけません。それは人を奢り高ぶらせるかと思えば、逆にうまくいかないとひどく落ち込ませ、またできない人をさばくことになります。この百人隊長を見よ、です。彼自身は、会堂を建てたという、人間的には立派なことをしましたし、百人隊長という肩書もありましたし、ユダヤ人たちからも絶賛されるほど人望もある立派な人格者でしたが、それら、人間的に誇れるものには一顧だにせず、ただ神のあわれみ、恵みに望みを置いていました。そしてイエス様も、それらのことには一言も触れず、ただ彼の信仰だけを賞賛されました。あわれみ100%、恵み100%。そこにのみ、より頼む信仰です。このような信仰は、人と比べるのでなく、神の偉大さ、きよさということを知ったときに、初めて自分が神の前にいかなるものか、わかるものなのでしょう。詩篇8:3-4、旧約p. 939。

8:3 あなたの指のわざであるあなたの天あなたが整えられた月や星を見るに
8:4 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。

そしてもう一つ、イエス様が賞賛された彼の信仰とは、彼が、イエス様がどういう方であるかを正しく理解していた点ではないかと思います。つまり、イエス様のことばは必ずなる!と力んで信じる信仰の強さのようなものではなく、イエス様がどういう方か、権威をもって神から遣わされた方だと正しく理解していたという点です。

イエス様をどういうお方と理解するかは、とても大切なことです。ただの博愛主義者、宗教的天才に過ぎないのか、それとも神から遣わされた救い主と信じるのか。このイエスというお方をどういうお方と理解し、信じるかが、その人の永遠の運命を決定するのですから、一大事の中の一大事です。ヨハネ3:16

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエスというお方は、人となられた生ける神の御子。永遠のまことの神であられる方が、私たちを愛して、私たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、天を蹴って肉体をまとって人となられ、十字架にまでかかって下さいました。そして神は御子を復活させて、天に上げられ、キリストは父なる神の右の座に着かれました。このお方が私たちに永遠のいのちを与えて下さるのです。ただただあわれみ、恵みのゆえに。