ここも、前回、前々回同様、弟子たちに向かって語られた教えです。イエス様の弟子=イエス様に学ぶ者=イエス様にお従いする者=すべてのクリスチャンに語られた心得です。ここにはいくつかのたとえが記されていますが、39節「一つのたとえを話された」とあります。これら一連のたとえは、実は一つのことを教えているものだということです。
まず「盲人が盲人を案内することができるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか」と始まります。これはまず福音=救いの道に目(心の目、霊的な目)が開かれる必要があるということ。自分が救いの道が見えていない人に、ほかの人に対して救いの道を案内することはできません。
では、イエス様のようになると言って、具体的にどういうことなのか、改めて文脈を考えてみると、直前は前回見たように「あなたの敵を愛しなさい」という教えでした。最終的にはここが目指すゴールと考えていいでしょう。それを聞いて、「そんなの無理だ!」と思ったかもしれない弟子たちに、いや、無理ではない、あなたがたもそのようになるのだよ、と励まし、戒められたのでしょう。そこから逃げてはいけないと。
米印がついて説明があるように「ちり」は木屑、おが屑。「梁」は丸太と思ってください。どちらも材質は木。でも、木屑と丸太では大きさがまるで違う。そのように、他人の些細な罪にはよく気が付くが、自分の目には巨大な罪がデーンと構えているのではないか。なぜそれに気が付かないのか…。そう、これが気が付かないのです。あまりにも当たり前になってしまっていて。自分の一部になってしまっていて。その自分の目にある丸太とは何のことか。大きく言えば「自己中心」とも言えるかもしれませんが、より限定的には「自己義」のことと思われます。盲目的に自分を正しいとすること。これが根底にあるから、自分の罪には気が付かない。無意識に見過ごす。過小評価する。実際に自分が正しいから正しいというのは良いのです。正しいのに、正しくないというのも偽善です。むしろ神は、正しいことを悪、悪を正しいとすることを憎まれます。私が言わんとしているのは、あることが正しいとかどうとか、そういうことの前に、もう最初から、盲目的に自分は正しいというのがあるし、無意識に自分を正しいとしようとする、その心の性質のことです。ほとんど本能と言っていいような、罪びとの本性に深く根差したものです。それが真実や真理を見えなくさせている。隣の芝生は、やたらと青々とよく見えるかと思えば、また、人のアラはよく見えるというのは、罪びとの悲しい性です。自分の貧乏揺すりは全然気になりませんが、人がやると気になるもの。同じことをしても、自分はしていることすら気づかないけれども、他人がやると気になる。一事が万事その調子で、自分の罪には気が付かないから、自分はそこまで罪びとではないと思っている。その結果、神のあわれみが必要だと心底思っていない。神の一方的なあわれみがどれほどありがたいか、身に染みてわからない。救いの道を正しく知るには、ただ神のあわれみ以外にないということを、自分のこととして知ることが必要。それで、ペテロをはじめとする使徒たちも、あの痛恨の出来事が必要だったのでしょう。
イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来られました。福音を正しく知るためには、まず自分の目にある自己義という丸太を取り除かれることです。それを可能にしてくれるのも福音です。つまり、自分がどんな罪びとでも、どんな状態でも大丈夫。神のあわれみ、キリストの十字架の贖いのゆえに、どれほど罪深くても大丈夫なんだと安心できるから、認めることができる。それがないと、恐ろしくて、認めることができないでしょう。神の大きなあわれみを知っているから、自分の罪を認めることができ、従って、真の悔い改めをすることができる。そこに聖霊が働いてくださいます。
自分を義とする丸太を捨てましょう。それが真実を見えなくしています。盲目的に自分を正しいとする、正しくない態度を悔い改めましょう。それは無駄な努力です。降参しましょう。そのとき、神が備えてくださった救いの道がハッキリと見えます。100%まったくの恵み、まったくのあわれみによって、私たちを救って下さるという、神が備えてくださった救いの道がハッキリ見えるのです。これっぽっちも、私たちの側の自分の義によらず、ただただイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった完璧な義のわざ、十字架上でなされた完璧な贖いだけが、生まれながらの罪人である私たちが神に受け入れられるための、唯一の道であることがわかります。そこから喜びがわいてくるでしょう。
そして良い木と悪い木。良い木は良い実を結ぶ。悪い実を結ぶことはない。悪い木は悪い実を結ぶ。良い実を結ぶことはない。リンゴの木はリンゴの実を結ぶのであって、ミカンをならせることはできない。柿の木は柿の実をならせるのであって、桃の実をならせることはできない。それは努力が足りないという問題ではなく、リンゴの木はリンゴの実を結ぶような仕組みを持っていて、当然にリンゴの実を結ぶ。ミカンの木は、ミカンの実をならせる仕組みになっているから、桃の実でなくミカンの実を結ぶ。同じように、私たちが良い実を結ぶためには、木そのもの、すなわち、私たちの心そのものが良い木でなければできないこと。それは努力が足りないという問題ではなく、私たちの心の仕組みがそうなっている。罪深い心からは罪深い実しか、出てこないのです。いくら頑張っても。ただ良い心から良い実がなるのです。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。」(45節)よーくその人の言うことを聞いていると、その心にあることがわかります。多少ごまかしたり、取り繕ったりしても、よーく聞いていると、本心がわかります。いちじくのような、甘い、人の心を喜ばせる、また活気を与える言葉が出てくる人。いばら、野ばらのように、とげとげしい、人の悪口やけなす言葉ばかり出てくる人。感謝、賛美が口から良く出てくる人、不満、呪いが出てくる人。その人の口から出る言葉をよーく聞いていると、わかります。心に、キリストへの愛、神への感謝、賛美が満ちていれば、そういうものが、いろんな形を取って、いろんな言葉となって、その人の口から出てくるし、肉の思いだけだと、滅びをもたらす怒り、叫び、憎しみ、批判、とげとげしさ、苦々しさが出てくる。それにも、それなりの理由があるのも事実でしょう。でも、一つ言えることは、それを続けていては、決して自分も幸せになれないということ。自分をも、また周りをも不幸にするということです。
では、ここの良い木とは、具体的にどういう心のことか。それは、目から丸太を取り除かれて自分の罪がわかり、ただただ神のあわれみによって救われたという、感謝にあふれた心のことだと思います。自分はただあわれみによって救われた。尽きざるあわれみ、忍耐、寛容によって、尊い救いに入れて頂いた。尊いキリストの犠牲によって救われた。そのことがわかった心が「良い倉」であり、そこから良いものが出て来るのでしょう。同情心、へりくだり、あわれみ、などの良いものが。そこに「敵を愛せよ」というイエス様の似姿へと近づけられる道があるのでしょう。
イエス様の似姿という、とんでもない目標に向かって、クリスチャンは一歩一歩、進んでいく者です。目が開かれたと言っても、すぐにまたいつのまにか、大きな丸太ができていたりもします。常に神の御前に悔い改める用意が必要です。私たちには福音があります。神のあわれみ、キリストの十字架の贖いがあります。それも何度も、何度でも、神のあわれみ、キリストの恵みは尽きることなく、私たちはただただその神のあわれみ、恵みの中で赦され、生かされ、良きものを頂いています。だから、あなたがたも、七度を七十倍するまで、赦しなさいとも、言われているのでしょう(マタイ18:21-22)。
「だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようになる」とイエス様は言われました。そうか、自分は訓練も受けないで、はじめっから、できない、無理だと言ってちゃだめなんだ。十分に訓練を受けなければいけない。そしたらやがては、イエス様の似姿に近付かせて頂ける。イエス様も、そのことをきっと喜んで下さる。それがイエス様へのせめてもの恩返しと思って、イエス様にお従いする道を歩ませて頂きたいと思います。