<はじめに>
「あなたがたの敵を愛しなさい。」「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」ついに来たか、という感じです。聖書の中でも、もっともインパクトのある、有名なみことばの一つでしょう。一度聞いたら忘れない、クリスチャンでない方もこれはご存知の方が多いでしょう。私が学生時代、クリスチャンになったときにも、友人から「おまえがクリスチャンになったのか。じゃあ、右のほっぺた殴ったら、左も殴らせてくれるのか。」とうれしそうに言われ、私はあわてて「いや、あれはそういう意味じゃなくて、云々。」と答弁したことがあります。彼は筋骨隆々たる柔道部でした。
トルストイと言えば、長編短編、多くの作品を残したロシアの大文豪で、信仰的な民話風の、心温まる作品も多く、私も好きですが、ただ彼はこの聖句から、悪い者に対する、絶対的無条件的無抵抗を説き、警察や軍隊の存在まで否定したということです。しかし、この個所からそういう国家の秩序、在り方を論じるのは、残念ながら正しい解釈とは言えません。また、この箇所は、正当防衛を否定するものでもありません。いのちは神聖不可侵。そのいのちを不当に奪われることから守る権利も神聖不可侵です。ただ愛する友のために自ら進んでその権利を捨てる自由があるだけです。イエス様は私たちのためにそのようにしてくださいました。また、不当な暴力に対して何も抗議の声を挙げないということでもありません。イエス様は、十字架前夜の裁判で、近くにいた役人がイエス様を平手打ちした時に、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかしもし正しいなら、なぜわたしを打つのか。」と抗議されました(ヨハネ18:23)。もう片方の頬を差し出しませんでした。それは腹が立ってでなく、その役人の悪を正されたのでしょう。
今日の個所は前回の続きで、イエス様にお従いする弟子の心構えです。前回の20—26節で、イエス様の弟子となって従うときに、特に当時のユダヤ社会において、迫害に耐え、天における報いを見て喜ぶという、神に望みを置く姿勢を教えましたが、今日の個所はさらに一歩進んで、その迫害してくる敵を愛せよ、と言います。これは人間の生まれながらの性質に反すること。人間の愛では不可能なことです。ですから、自分の肉の性質を十字架につけて、神の愛をもって愛せよということになります。自分自身、神からそのような愛を受けている者として、その神の愛で敵をも愛せよと。それはとりもなおさず、聖霊によってイエス様の似姿へと変えられていくことでもあります。
全体の構成は、27—31節が、こうしなさい、という命令が書かれていて、そのあと32節以下に.どうしてそうするべきなのか、理由と励ましが記されています。
<① 敵を愛する愛:人間の愛ではなく神の愛(27-31節)>
「あなたがたの敵を愛しなさい。」前からの流れを汲むと、ここの「敵」は、キリストに従う人に敵対する人のこと。わかりやすい例が、未開の地に入る宣教師でしょうか。外の世界に対して心を閉ざして、脅えて、入ってくる宣教師を次々と襲う未開の部族もありました。あるいは過激なイスラム教国は、キリスト教徒を敵と見なします。そういう所に遣わされる宣教師たちは、このような敵を愛する心構えが必須でしょう。そして彼らほどではないにしても、多かれ少なかれ、クリスチャンすべてに必要なことでもあるのだと思います。敵を愛することの具体的な行動として、自分を憎む人たちに善を行い、自分を呪う者たちを祝福し、自分を侮辱する者のために祈ることが挙げられます。仮に、最初は感情が伴わなくても、形から入るということは、聖書のほかのところでも勧められていることで、相手が困っているのを見たら、たとえ気が進まなくても、手助けする。そこから意外な展開になることもあるでしょう。神のみことばへの従順は、ときに苦い水を甘く変え、荒れ地を泉の湧くところとします。そこに神が働かれるからです。
「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。」ここも、キリストに従うゆえに、迫害してくる者に対して、普通は怒り、憎しみが起こりますが、そういう感情にブレーキを掛けるためのものでしょうか。最初からこういう心積もりでいなさい、それでこそ、イエス様にお従いする者と。あるいは、もしかしたら、守ろう守ろうと身構えているときに、もう一発食らうより、最初からもう一発やるならやれ、と開き直っている方がダメージが小さいという実際的な効用もあるかもしれません。注射の痛さの感じ方に関する研究というのがあって、こわいこわいと萎縮した状態で注射されるより、これくらい、なんて事ないと思って注射されるほうが、痛みを軽く感じるのだそうです。
「上着を取る者には、下着も拒むな。」ここで言われている下着は、いわゆるこんにちの下着ではなくて、上から下まであるような、ゆったりとした服のこと。そのまま普通に外に出て歩くようなものです。これを肌に直に着たので、「下着」と訳しているようです。その上に、上着(外套、オーバーのようなもの)を着ますが、これは夜には毛布代わりにも使われて、旧約聖書には、どんなに貧しい人からでもこの上着だけは、もし質に取ったとしても、夕方には返さなければならない、という律法がありました(出エジプト22:26)。ところが、この上着をさえ取ってやろうというような者が現れたら、さっさと手放して、その上、下着のほうまでくれてやる心積もりでいなさい。すべてを手放しても、神が面倒を見てくださると信頼して。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけませんと言います。「奪い取る」というのですから、乱暴に暴力的に取るのでしょう。普通はそれに対して怒り、憎しみが起こりますが、そうではなく、むしろ自分から、おまけをつけて、くれてやるつもりでいなさいと。最初からそういうつもりでいなさいというのです。先の片方の頬を打たれたら…も、この上着を奪い取られたら…も、普通は怒り、憎しみで反応するところです。それが生まれながらの人間の普通の反応です。それに対してここでイエス様が言われているのは、神の愛で敵をも愛するということの極端な例なのでしょう。当時の表現形式なのでしょうか、イエス様は時々、極端な表現をされます。
そして31節。「(あなたがたが)人からしてもらいたいと望むとおりに、(あなたがたも)人にしなさい。」これは、ここまでのまとめでしょうが、「自分がしてもらいたいと望むように、人にもする」は、単に彼らが欲しがるものを与えるというより、迫害する人に対して忍耐と寛容をもって愛する者であれ、ということではないかと思います。これは神と自分の関係にあてはめると理解しやすいように思います。神は、神に敵対していた私たちをも愛してくださった。だから救われた。神に逆らっていた時にも、神は私たちに善を行ない、祝福してくださった。水も空気も食べ物も、必要なものをすべて与えて下さっていた。そのことを神に感謝したこともない恩知らずだったときにも。そしてイエス様は、頬を打たれるどころか、ご自分を十字架にかけた者たちのために、「父よ、彼らを赦して下さい。彼らは自分で何をしているか、わからないのです。」ととりなしの祈りを捧げられた。神にそういう風にしてもらわなければ、救われなかった。神がそのように忍耐と寛容をもって私たちに接してくれていたおかげで、私たちは時至って、神の御救いにあずかり、神のご愛を知ることができました。だから、自分がしてもらいたいと望む通りに、人にもしなさいとは、神が私たちにして下さったように、忍耐と寛容とをもって、今はまだ自分に敵対し、侮辱する者たちをも忍び、愛するということではないかと思います。それこそ、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すような…。
そのような敵をも愛する愛というのは、人間の愛ではありません。聖霊によって与えられる愛。御霊の実としての愛です。聖霊によって、神に愛されていることを知ったときに、神の愛が私たちの心に注がれたときに、初めて生まれる愛です。
<② いと高き方の子ども:父にならう者(32-36節)>
32-34節、「罪人たちでも、○○しています。」と、生まれながらの人間の性質が挙げられています。自分を愛してくれる人を愛すること。自分によいことをしてくれる人に良いことをすること、返してもらうつもりで人に貸すこと。これらは普通に生まれながらの人間もしていることです。それに対して35節はキリストに従って神の子どもとされたあなたがたは違うと、対照的にその特質が挙げられます。そこには明確に正反対の性質が求められています。それが、「あなたがたは自分の敵を愛しなさい。」ということ。その表れとして「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。」と言われます。その結果、二つの祝福が約束されます。一つは「そうすれば、あなたがたの受ける報いは大きく」神は、難しいことを要求される時には、ごほうびもそれに応じてすばらしいものにして、奮起を促してくださるのでしょうか。地上での忍耐に、天の御国で神ご自身が報われる、というこの原理、この信仰者のライフスタイルは、前回学んだ通りです。私たちは、天の御国に希望を置くものです。二つ目は、「あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。」子どもが何かお父さんにならって、何か立派なことをした時に、父親が「それでこそ、お父さんの子だ」と誇らしげに頭をなでてやるようなものでしょうか。その良いことをする前からお父さんの子なのですが、そういう言い方をします。それと同じように、私たちがキリストを信じた時に、すでに神の子どもとされていますが、敵をも愛するということをした時に、身分だけでなく内実においても、神の子どもと呼ぶにふさわしい者となるということでしょう。「それでこそ、天のお父さんの子だ」というわけです。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」(36節)
<③ 自分がした通りに:すべてを見ている天の父が報いる(37-38節)>
そしてもう一つ、イエス様の教えに従うべき理由が37-38節に付け加えられます。私たちの、ほかの人に対する態度がそのまま、自分に返ってくるからと。さばいてはいけない。人を不義に定めてはいけない。そうすれば自分もさばかれず、不義に定められない。むしろ、赦すなら、自分も赦される。ちなみに、これは教会のしかるべきところ、小会などが職務上、さばくことを否定しているのではなく、個人が勝手に人をさばくことをしてはいけないと言うことです。まるで自分は神のあわれみを受けていないかのように、人に対してはあわれみの心なく、厳しくさばいていることが、私たちにはありがちではないでしょうか。自分が赦されているのに、人には厳しく、赦さない者を、神もまた赦さないと他のところで言われています。自分があわれみを受けていることと、人にあわれみを示すこととは表裏一体なのです。それから、惜しみなく与えるなら、自分も与えられる。これは人からということもあるかもしれませんが、それよりも天の父から、ということでしょう。天の父が報いずにはおかない。それも、詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前よく量って懐に入れてもらえると言います。すべてを公正に見ておられる、恵み深い天の父は、あなたがたが量るその量りで、あなたがたも量り返してくれるからと。
<敵を愛する>
「 心に御姿 映して生きる 主の民 われら光の子 」新聖歌 352番
善に代えて悪を返すのは悪魔的、善に対して善を返すのは人間らしいこと、悪に代えて善を返すのは神の子にふさわしいこと、とある人は言いました。これこそ、イエス様がなさったこと。そして私たちが神から受けたことです。それゆえ、これこそ神の子とされたクリスチャンが本領発揮すべきことです。天の父はそれを喜び、豊かに報いて下さいます。