マタイの福音書の5章に、今日の個所と似たような言葉が記されているところがあります。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」と始まる有名な個所で、山の上で語られたので「山上の説教」と呼ばれます。それに対してルカの福音書にある今日の個所は17,18節を見ると、イエス様一行が山を下り、平らなところに立たれて、そこで大勢の病人を癒したり、教えたりされたときのことと考えられるので、「平地の説教」などと言われます。内容は似ていますが違う所もあって、たとえばマタイは「心の貧しい人は幸いです」ですが、こちらルカは単に「貧しい人たちは幸いです」、またマタイは「義に飢え渇く者は幸いです。」ですが、ルカは単に「今飢えている人たちは幸いです。」となっています。マタイの方は内面的、霊的な面を語っているのに対して、ルカは実際的、即物的なことを言っているように思われます。おそらく、前々回見たところで、パリサイ人、律法学者たちがイエス様に殺意を持ったので(11節)、弟子たちがやがて実際に迫害を受けるのに備えて、イエス様はここであらかじめ心構えを説かれたのでしょう。そしてその後、いつの時代でも、クリスチャンに対する迫害があったときには、その兄弟姉妹方はこのようなイエス様のみことばによって支えられ、励まされ、保たれてきたのだと思います。こういうみことばというのは、自分が実際にそういう状況になったときに、はじめて心に響くものだろうと思います。その意味では、今の日本では幸いなことに、そういう状況ではありませんが、この先、いつ、そういう時代が来ないとも限りませんし、そうでなくても、クリスチャンとしての心構え、価値観、世界観など、確認しておくことは有益だと思います。
20節「イエスは目をあげて弟子たちを見つめながら、話し始められた。」イエス様はお弟子たちに向けて話しました。ここの「弟子」と訳された語は、「学ぶ」という語から来ています。つまり、イエス様に学ぶ者。なので、使徒たちに限らず、私たちクリスチャンはみな、イエス様に学ぶ者ですから、イエス様の弟子。ここでイエス様が語っておられることは、すべてのクリスチャンに向けられています。イエス様は、私たちの贖いとなってくださったばかりか、私たちを忍耐強く、恵み深く、教え、導いて下さる、唯一無二の師ともなってくださったとは、なんとありがたいことでしょう。生ける神の御子である方から教えを受けられるのです。「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」(マタイ23:10)
イエス様を、自分の罪の身代わりに十字架にかかってくださって、私たちに罪の赦し、永遠のいのちを与えてくださった方としては信じているけれども、イエス様から学び、従うということに関しては、けっこうです、好き勝手にやらせて頂きます、うるさいことは無用です、とわが道を行くというのは、根本的なあり方を勘違いしています。その姿勢は悔い改めなければいけません。神に喜ばれる歩みをしたい、イエス様に喜ばれる歩みをしたい、お従いしたい、そういう願いがあるならば、その人は確かに御霊に導かれている神の子どもです。その人は確かにいのちの道を歩んでいます。たとえ不完全で、不十分でも、失敗ばっかりでも、間違いなく御霊によって導かれている神の子どもであり、尽きない恵みの下にあります。神の方を向いているか、イエス様を信じていると言いながら、神に背を向けているか、どっちを向いているかが大切です。その行き着く先も正反対になります。
で、今日の個所は、そのようにイエス様から学んで、従いたいと願う人たちに向けて語られているところです。イエス様は、慈しみをもって見つめて、お語りくださいます。
最初に四つの幸い、その後に四つの哀れが対照的に語られています。最初に「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。」(20節)ここは、機械的に、貧しい者は天国に行けて、富んだ者は行けない、と言っているのではありません。もちろん、世界に存在する貧困を肯定しているわけでもありません。これは、主に従って、貧しさの中にある兄弟姉妹たちを励ますみことばです。これまで見てきた中でも、ペテロやヤコブやヨハネは漁師でしたが、何もかも捨てて、イエス様に従ってきましたし、取税人だったマタイも、何もかも捨てて、イエス様に従っていました。私の神学校の一年先輩に、東大を出て、大手の建設会社に勤めておられたのが、福音のために献身して、牧師になった方がいます。二年先輩に、会社を経営していた方で、みんなから社長、社長と呼ばれていた方もおられました。社長を辞めて、牧師になりました。給料は、半分か、三分の一か、もっとか、わかりませんが、そういう道を歩みました。そういう人ばかりでなく、小さな教会で経済的に苦闘している先生方も多くおられます。貧乏というのは、つらいものだと思います。実際に経験していない人にはわからないのではないかと思います。しかし、イエス様は、そういう人は幸いだと言います。イエス様のゆえに、貧しくなった人、そういう人は、その貧しさを補ってあまりある神の国があなたがたのものだからと。ここでは、神の国は考えられる最高の祝福、豊かさ、また慰めとして語られているのでしょう。キリストがおられるところ、そこは神の国です。私たちの罪は赦され、天地の造り主なる神との関係は回復されて、万物の創造者であられる神が私たちの父となり、私たちはその子どもとされました。その関係に入られていることが神の国です。ここは現在形で書かれているので、今、すでにそうだということです。そして、やがて神が定めておられるときが来たあかつきには、キリストを信じる者たちは栄光のうちに復活し、罪が全くない栄光の御国を受け継ぐことになります。そのことも当然、視野に入っているでしょう。むしろ、クリスチャンの地上の歩みは、そこを目指して歩む旅路です。栄光の御国は、付け足しや気休めではなく、明確な希望です。
以下、同様。「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。」(21節)ひもじいというのは、本当に辛いこと。自分がひもじい思いをするのもそうですが、子どもにそういう思いをさせるのは、もっと辛いでしょう。しかし、やがて与えられる神の国においては、十分に、十二分に満ち足りるようになる(こちらは未来形が使われています)。また、主に従って、涙を絞ることもある。もちろんうれしいこと、喜びもたくさんあります。この世の与えるのでない、天からの、神からの喜びがあります。けれども、時には、心を痛め、涙することもある。貧しさやひもじさによってもそうでしょうし、また愛する人、家族、親しい友人から理解されない悲しみ、痛み。しかしやがて、神の国おいては、それらの涙のすべてをご存じの神が、すっかり癒して下さる。私たちは、心から納得して、慰められて、心から笑える時が来る。そして「人々があなたがたを憎むとき、人の子(キリスト)のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」(22,23節)もちろんクリスチャンはみな、村八分にならなければいけない、ということではなくて、本当は、みなに受け入れられて、良い証しが出来れば一番良いんでしょうけれども、時代が時代なら、ということ。仮にこのような事態になったとしても、むしろ、喜びなさい。喜び踊りなさい。この「踊る」は、いわゆる踊りのことではなく、鹿などがピョンと跳ねるような「踊る」です。なぜなら、天で神からの報いは大きいから、とここでもやはり、天に心を向けさせます。心の置き所が天であり、神にあるのです。そしてそれは、旧約聖書を開くと、真の預言者たちの通った道でした。罪の世にあって、真理を語るゆえに、真理に着くがゆえに、憎まれ、迫害されることを、不思議と思ってはいけない。それでいい。その道でいいのだと。
戦時中、天皇を神とする思想統制が行われましたが、ホーリネス教団の牧師たちは、「天皇とキリストとどっちが偉いか」と言われて、天皇は人であり、キリストは神であるから、比べることはできないと言って最後まで屈せず、結果、殉教した人たちもいたと言います。そんなホーリネス教団は、再臨信仰が強かったそうです。キリストが再び来られる時、神の国が目に見える形で実現するのを待ち望む信仰が力となるのでしょう。世が世なら、そういう状況もあったわけで、自分ならどうか、それに対する備えは…と考えさせられます。
24-26節は、反対に自己吟味を促す言葉です。キリストを捨てて、十字架を拒んで、永遠の神の国の祝福を捨てて、つかの間の、この世の安楽を選び取ってしまっていませんか、それでいいんですか、それは実は、哀れな状態なのですよ、ということ。十字架はどこにあるんですか、その道で本当にいいんですか、と。「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。 今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」今、満腹しているあなた方は哀れです。なんてドキッとします。やがて、ベルトが通らなくなりますから…ではなくて、やがて飢えるようになるから、と言います。天の御国で飢えることなんてあるのか?と考えてみると、そうではなく、むしろ天の御国に入れないということではないか。ルカ13:23-30には、アブラハムや預言者たちが神の国の食卓に着いているのに、そこから放り出されて泣いて歯ぎしりする人たちのことが記されています。今、笑っている者が、やがて泣き悲しむようになるのも同様。御国では嘆き悲しみはないので、これは御国に入れないということ。永遠の嘆きに入れられるということでしょう。もちろん、ここの「笑っている者」は、お笑いを見ちゃいけないということではなくて、楽しく笑うのはいいのですが、キリストに従う道を拒んで、キリストを拒否して我が世の春を謳うようなあり方のこと。人々からほめられるというのも、真理に反して、神のみこころに反して世に迎合して、世からほめられること。偽預言者は、王や民衆に受けのいいことだけを語っていい目を見ていました。彼らは格別に厳しいさばきを受けなければいけません。
以上、前半の4つと後半の4つをざっと見ましたが、イエス様に学ぶ者、イエス様の弟子に、イエス様が与えようとしておられるのは何か。それはこの世のものではなく、神の御国ということに尽きると思います。それは神とともなる永遠のいのちの祝福でもあります。
最後に覚えたいことを一つ。貧しさ、ひもじさ、泣くこと、そして人々から憎まれ、排除され、ののしられ、あしざまにけなされることと言って、考えてみればこれ全部、イエス様ご自身が、この世で味わわれたことでした。イエス様は貧しい家庭にお生まれになり、名前が知れ渡ってからも、しばしば枕する所もないありさまでした。またある時には、歩いていて空腹を覚えられて、道ばたのイチジクを食べようとされたこともありました。ひもじい思いも体験されました。イエス様は、ご自分がつらくて泣いたことはないですが、やがて裁かれ滅ぼされる運命のエルサレムを見て、大声をあげて泣かれました。そして、そして、イエス様は、罪びとに忖度せず、偽らずに、神の御心を行い、語ったために、パリサイ人たちから憎まれ、殺意を抱かれました。十字架上では人々からも拒まれ、あざけられました。
これらすべて、私たちを愛し、私たちを滅びから救い出すため、私たちを神の国に救い上げるために、イエス様は自ら進んで耐え忍んでくださいました。このイエス様のみあとに、私たちもついていく者でありますように。それこそ、まさしくまことのいのちの道、神の国の道なのですから。やがて受け継ぐ栄光の御国から目を離さず、神が聖霊によって私たちを守ってくださり、御国を継がせて下さることを信じて、主のみあとにお従いしましょう。