前回の8月はお休みしたが、今回はまた、十字架に向かって歩まれた主イエスの教えに耳を傾けることにする。十字架で身代わりの死を遂げる、その時がいよいよ迫っている中で、主イエスは、ユダヤ人の指導者たちの難問を退けながら、最も大切な戒めについて教え、彼らに問い返しておられた。彼らは律法の専門家を自認していたが、すなわち、旧約聖書を知っているとしながら、やや的外れの理解に気づかなかったようである。主イエスは、そのような誤りについて、群衆と弟子たちに教えようとされたのが、今日の聖書個所、23章1節以下である。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。」(1節)
教えを守ろうとするあまり、本筋でない決まりごとが、知らない間に積み重ねられるものである。旧約聖書の時代からの教えについては、例えば、安息日を守ろうとしての教えが、様々な規定として人々の心を縛っていた。(※安息日にしても良い仕事、してはならない仕事の区別や、町の外に出て良い距離等など)人々は、重くて負いきれない荷物を背負わされていた。そのことで苦悩していても、どこからも助けがない状態のことを主イエスは指摘しておられる。(4節)こうした誤りは、いつの時代にも起こり得る落し穴である。
そのような誤りは、どのようにして入り込むのであろうか。主イエスの指摘は明確である。「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。」(5節)神が語られた教えに聞き従うのでなく、神からの教えを知っている、分かっているとばかりに他の人に教え、いかにも信仰深くあるかのように、人に見える部分で振る舞うことになるからである。「彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。」(5節)「小箱」は、「経札」とも訳される革製の小箱で、申命記の聖句等を書いたものを入れ、一つを左腕に、他の一つを額につけた。(申命記6:8)「衣の房」は、衣のすその四隅に、ざくろ型の房をつけ、それによって、神の戒めを思い起こすためのものであった。(民数記15:37~41)いずれも聖書の教えに従っているようでいて、実際には人に見せ、いかにも信仰深そうに振る舞うことになるのである。
人からの称賛や人の評価が第一となるので、「宴会では上座を、会堂では上座を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです」となる。(6~7節)「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。・・・・」(8~10節)「先生と呼ばれるのが好きです」との指摘を、私たちもしっかりと聴くこと、その意味を確かに捉えることが大事と思われる。教会に限らず、私たち人間の社会にある本質的な課題のほとんどは、神を仰ぐのではなく、人の目を意識してのものであろう。肝心なのは、父なる神がおられ、その神がキリストを遣わして下さったことを、心から信じて感謝することである。「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」(10節)
私たちは、十字架の死にまで従い通された主イエス・キリストを信じる信仰を与えられた。その信仰によって、罪の赦しをいただき、神の前に義と認められるという、恵みによる大いなる救いを与えられた。今この地上で生かされる限り、主イエスに倣って、私たちも「皆に仕える者になる」ことを、喜んで目指せるなら、何と幸いなことであろうか。是非そうならせていただきたい。
最後にピリピ人への手紙2章1~11節を読んでお祈りします。