礼拝説教要旨 2024年10月13日

皆に仕える者になりなさい

マタイの福音書23:1~12

前回の8月はお休みしたが、今回はまた、十字架に向かって歩まれた主イエスの教えに耳を傾けることにする。十字架で身代わりの死を遂げる、その時がいよいよ迫っている中で、主イエスは、ユダヤ人の指導者たちの難問を退けながら、最も大切な戒めについて教え、彼らに問い返しておられた。彼らは律法の専門家を自認していたが、すなわち、旧約聖書を知っているとしながら、やや的外れの理解に気づかなかったようである。主イエスは、そのような誤りについて、群衆と弟子たちに教えようとされたのが、今日の聖書個所、23章1節以下である。「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。」(1節)

1、

主イエスは、律法学者やパリサイ人たちを批難するためではなく、群衆や弟子たちのために、彼らを見習うことのないよう、警告しょうとして語られた。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座についています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」(2~3節)律法学者たち、ユダヤ人の指導者たちは、民に律法を読み聞かせ、教える立場にあった。ですから、聞かされたこと、教えられたことは「すべて実行し、守り(行い)なさい」と言われたのである。更に「彼らの行いをまねてはいけません」と言われたのは、彼らは「言う」だけで、「行い」が伴わなかったからである。いわゆる「言行不一致」である。群衆も弟子たちも、決して言行不一致に陥ることのないようにと、主イエスは警鐘をならしておられた。

教えを守ろうとするあまり、本筋でない決まりごとが、知らない間に積み重ねられるものである。旧約聖書の時代からの教えについては、例えば、安息日を守ろうとしての教えが、様々な規定として人々の心を縛っていた。(※安息日にしても良い仕事、してはならない仕事の区別や、町の外に出て良い距離等など)人々は、重くて負いきれない荷物を背負わされていた。そのことで苦悩していても、どこからも助けがない状態のことを主イエスは指摘しておられる。(4節)こうした誤りは、いつの時代にも起こり得る落し穴である。

2、

そのような誤りは、どのようにして入り込むのであろうか。主イエスの指摘は明確である。「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。」(5節)神が語られた教えに聞き従うのでなく、神からの教えを知っている、分かっているとばかりに他の人に教え、いかにも信仰深くあるかのように、人に見える部分で振る舞うことになるからである。「彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。」(5節)「小箱」は、「経札」とも訳される革製の小箱で、申命記の聖句等を書いたものを入れ、一つを左腕に、他の一つを額につけた。(申命記6:8)「衣の房」は、衣のすその四隅に、ざくろ型の房をつけ、それによって、神の戒めを思い起こすためのものであった。(民数記15:37~41)いずれも聖書の教えに従っているようでいて、実際には人に見せ、いかにも信仰深そうに振る舞うことになるのである。

人からの称賛や人の評価が第一となるので、「宴会では上座を、会堂では上座を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです」となる。(6~7節)「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。・・・・」(8~10節)「先生と呼ばれるのが好きです」との指摘を、私たちもしっかりと聴くこと、その意味を確かに捉えることが大事と思われる。教会に限らず、私たち人間の社会にある本質的な課題のほとんどは、神を仰ぐのではなく、人の目を意識してのものであろう。肝心なのは、父なる神がおられ、その神がキリストを遣わして下さったことを、心から信じて感謝することである。「あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」(10節)

3、

「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と、主イエスは一連の教えを締めくくっておられる。(11~12節)同じ教えを度々語っておられた。(マタイ20:26、18:4、ルカ14:11、18:14)それほどに、主イエスは、人々に、特に弟子たちには、この教えを心に留めるように願われた。それは今日の私たちにも願っておられることである。「仕える者になる」のは、残念ながら罪に堕ちた人間には、思いのほか難しいことである。しかし、弟子たちにこそ、この教えに聞き従ってほしいと願われた。ただ「仕える」のではなく、「皆に仕える者になりなさい」と言われた。「皆に」である。そこには「分け隔てなく、皆に!」との思いが込められている。
マタイの福音書の中で、主イエスが人々に語られたという記述は、この個所が最後である。教えは23章の最後まで続いているが、その意味で貴重な大切な教えと言える。群衆や弟子たちに、是非とも覚えていてほしいこと、それは「皆に仕える者となる」ことであった。その意味をより深く知り、理解するのは、主イエスが十字架で身代わりの死を遂げられて後となるが、20章でも、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者となりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」と語っておられた。それほどに「皆に仕える者になる」のは、神を信じ、キリストに従う者にとって、大事な大事な生き方の土台、基本そのものなのである。

<結び>

私たちは、十字架の死にまで従い通された主イエス・キリストを信じる信仰を与えられた。その信仰によって、罪の赦しをいただき、神の前に義と認められるという、恵みによる大いなる救いを与えられた。今この地上で生かされる限り、主イエスに倣って、私たちも「皆に仕える者になる」ことを、喜んで目指せるなら、何と幸いなことであろうか。是非そうならせていただきたい。

最後にピリピ人への手紙2章1~11節を読んでお祈りします。