礼拝説教要旨 2024年11月17日

泣かなくてもよい

ルカの福音書7:11-17

< はじめに:前回とのつながり >

前回、イエス様に称賛された百人隊長の信仰について学びました。彼は異邦人でしたが、ユダヤ人の長老たち以上に神について正しい信仰を持っていました。それは、聖なる神に受け入れて頂くためには、社会的地位や権威、会堂を建てて寄贈したという功績など何の役にも立たないこと、ただ神のあわれみ、恵みにのみ、望みを置いて懇願することが神に近付く正しい道ということでした。神は偉大で聖なる方であるとともに、あわれみ深く、恵み深いお方であることを彼は知っていました。

続く今日の個所も、神のあわれみ、恵み深さだけが私たちの救いの原因、源であることを教えてくれるところです。そしてそのゆえに、神は、人が罪の世で負ったすべての悲しみを癒してくださる方であることを伝えています。

< ① ある母親の一人息子が:世の悲惨の現実 ( 11-12節 ) >

百人隊長の一件の後、間もなく、イエス様一行はカペナウムから南西の方向におよそ40キロの所にあるナインという町に向かいました。弟子たちと、それに大勢の群衆もゾロゾロとついて行ったと言います。40キロというと、時速4キロで10時間、朝6時に出たとして、休み時間を入れると、ナインに着いたのは夕方の5時、6時といったところでしょうか。これだけの距離、時間、労力を費やしてでも、イエス様のあとについてきた群衆もたいしたもの。もっとも、救い主を求めてなのか、野次馬根性なのか、わかりませんが…。

夕日を浴びながら、疲れた足を引きずって、今日はここに枕することにしよう、と一行は町に入ろうとしました。すると、そこでイエス様は魂を揺さぶられる光景に出くわしたのです。12節「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。」夕闇の迫る中、町の門から運び出される一基の棺。その棺に寄りすがるように、さめざめと泣いている母親。その母親に付き添う大勢の町の人たち…。

およそ、この世にあって、わが子を失うことほど、深い悲しみはないでしょう。それは信仰者も例外ではありません。内村鑑三は、愛娘のルツ子さんを先に天に送りました。葬儀では「これは葬式ではない、結婚式だ、天国に嫁に行ったのだ」と言い、棺をお墓に納める時には「ルツ子さん、万歳!」と手を挙げて叫んだそうです。それを見ていた矢内原忠雄は、キリストを信じるとはただごとではない、命がけのことだ、と思ったそうです。しかし、それからしばらくして内村は「基督信徒のなぐさめ」という本を著し、その中で「愛する者の失せし時」と題する文章を書きました。そこでは、愛する者を失ってからというもの、この無限の空間に身の置き所がなくなってしまった、これこそが無間地獄、永遠の刑罰とはこのことを言うのだと思ったと言っています。牧師の語る慰めの言葉も、親友の勧めも、今は恨みを起こすのみで、自分は荒れ熊のようになり、ただただ「愛する者を返せ」と言うより他なくなってしまったと心情を吐露しています。男親の内村でさえそうなのですから、ましてや、このご婦人の痛手たるや、想像にあまりあります。心からは、赤い血がドクドクと流れ出ていたことでしょう。あまりにも悲しい、夕暮れの光景でした。

そこに、イエス様が来られました。救い主が来られました。罪の世の救い主として来られたイエス様は、この光景に心を激しく揺さぶられずにはいませんでした。

<② 主は深くあわれみ:主を突き動かしたもの ( 13節 )>

13節「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」ここで「深くあわれみ」と訳された元のギリシャ語は、内臓を表す語から来ていて、はらわたが揺り動かされるような深く激しい同情やあわれみを表す語です。ちょっとかわいそうに思ったという程度ではない。はらわたがギュッと絞られるような、わなわなと震えるような、激しい感情。この、一人息子を失った母親の姿が、やがてご自分が十字架にかかられる時に、心を貫かれる母マリヤの姿と重なったでしょうか。そして天におられる御父の悲しみとも。

ここでは、母親の方からイエス様に頼んだとは書いていません。前回見た百人隊長のような立派な信仰でイエス様にあわれみを求めたわけではない。ただ泣いていただけです。この女性も、普段は信仰深い女性だったかもしれません。けれども、信仰深い女性でも、こういう時には泣くこと以外、何もできないほど、打ちのめされるものでしょう。祈ることすらできない状態だったとしても不思議ではありません。そんな彼女をご覧になって、「お前は信仰がないからダメ。」などと仰らない。イエス様は、ただかわいそうに思われたのです。はらわたがわななくほどに。

神は、涙をご覧になって心動かされる方です。大胆な言い方をすれば、情にもろい。と言っても、もちろん嘘泣きは通じません。涙は女の武器とかいって、安い涙をポロポロ流しても通用しません。けれども、本当に、腹の底からの嘆き、嗚咽、そういう涙には、心を動かされるのです。私たちがそのような深い悲しみ、嘆きの中にいるとき、神は、イエス様は、このときのように心を揺り動かされるほどにあわれんでおられるのです。決して冷たく突き放してはおられないのです。

旧約聖書のイザヤ書にこんな記事があります。ヒザキヤというイスラエルの王が、預言者イザヤを通して、あなたは必ず死ぬ、直らない、と言われた。そのとき彼は、一生懸命神に祈り、大声で泣きました。大の男が、それも王が、なりふり構わず泣いた。子供が泣いて何かを親に訴えるように。そしたら神は、どうしたか。男のくせに、王のくせに、何だ、そのざまは、と一喝されたか、というとそうではありません。「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。」(5節)と仰って、彼の寿命をもう15年加えられた。祈りだけでなく、涙を見て、心を動かされる情にもろい天の父でした。親にとって、子どもの頬にツーと流れ落ちる涙というのは、心を絞られるものでしょう。そのようなものでしょうか。

この時も、イエス様は、この母親の止めどなく流れ出る涙をご覧になって、かわいそうに思われ、イエス様の方から「泣かなくてもよい」と御声をかけられました。かけずにいられませんでした。泣くのは不信仰だ、泣くな、我慢しろ、ではない。変に我慢してると、かえってこじらせます。悲しい時は思いっきり、腹の底から泣けばいいのです。イエス様は泣くなと叱ったのではなくて、その悲しみの原因となっているものを取り去ってあげるから、泣かなくていいと仰ったのです。イエス様は、悲しみの原因そのものを取り除くことがおできになる方です。だから、もう泣かなくていい、と仰っているのです。

<③ 主は息子を母親に返された:悲しみを喜びに変えるイエス様( 14-17節 )>

この母親が、人間にはどうすることもできない深い悲しみに沈み切っていたところに、イエス様が来られて、光景は一変しました。死んだ息子を取り戻させてくださいました。ありえないこと、どれだけ望んでもあり得ないことを、イエス様がして下さったのです。深い悲しみは、大きな喜びに変えられました。悲しみが深ければ深いほど、その原因が取り去られたときの喜びも大きくなります。イエス様は、悲しみの涙を、喜びの涙に、嘆きを踊りに変えられます。イエス様は、本当にその悲しみの原因を取り除いて下さいました。悲しいのを我慢させたのではなくて、心の底からの悲しみを、心の底からの喜びに変えてくださったのです。これがイエス様です。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるから」とイエス様は教えましたが、それはご自身がどんな悲しみをも慰めることのできる方だから、そう言うことができたのでしょう。そして、このとき、息子を生き返らせてもらった彼女も、このことを通して、イエス様を信じる信仰を与えられたでしょう。

この時、イエス様についてきた多くの人たちが、この出来事の証人となって方々で言い広め、神をあがめる声が全土に上がりました。この記事は、当時、まだ証人が生きていた時代に、ルカが丹念に証言や資料を集めて書き記したものです。野次馬も用いられました。

「 天の力に 癒し得ぬ 悲しみは 地にあらじ 」新聖歌 443番

アダムの堕落以来、世に罪が入り、罪はおびただしい悲惨、悲しみ、嘆き、そういったものをもたらしました。世にある悲惨は、神のせいではなくて、人の罪のせいです。そしてこの罪が、今、猛威を振るって、悲惨が世に溢れています。今日の母親が棺に寄りすがって泣いていた光景は、罪の世のもっとも悲惨なことの例として記されているのでしょう。これは人類が犯した罪の結果です。その事実をまず私たちは受け止めなければいけません。どれほど文明や科学技術が発展しても、罪はいまだ猛威を振るっており、人々の嘆き、叫びはますます大きくなって、天に届いているでしょう。

神はこれをなんとかしなきゃいけない義理も義務もありません。人間に、それを何とかしてくれと神に要求する資格もありません。しかし、主は、そんな人類をかわいそうに思われた。ただただかわいそうに思われ、心を動かされた。私たちの救いの原因、源は、そこに、そこのみにあります。神が、イエス様が、罪に苦しむ人々を見て、かわいそうに思われた。すべてはそこから始まっているのです。エペソ2:4-5、新約p. 385

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

神が私たちを救おうと思われた究極の原因、源は、ただ神の側にあるあわれみ、愛、恵みです。私たちは信仰によって救われますが、信仰は救われるための手段であって、原因ではありません。神があわれんで下さったから、救い主を遣わした。あわれみがなければ、救い主もありません。神があわれみによって遣わされた救い主を、私たちはただ信仰によって受け取るだけです。神が救い主をお遣わし下さったのは、人間の側に何か功績があるから、資格があるからではなく、信仰があるからですらなく(それは理由ではなく手段)、ただ神のうちからあふれ出るあわれみのゆえです。

もちろん、あわれみ深いということと、甘いということとは別です。神はこの上なくあわれみ深いお方ですが、侮られる方ではありません。義なる方、聖なる方です。一点の妥協もなく、どこまでも義であり、聖であるとともに、どこまでもどこまでもあわれみ深いということが、神の、実に本質的な御性質なのだと思います。そのことが、イエス・キリストの十字架にあらわれていると思います。

過去の罪、心の痛み、思い出すたびに涙が溢れてくること、自分の罪でなく、世の罪のゆえに世から受けた傷…。私たちの中の内なる人は、泣いていないでしょうか。もしそうだとしたら、イエス様がそれをご覧になって、深くあわれんで下さり、「泣かなくてもよい」と御声をかけてくださっています。そして、イエス様にしか、取り除くことができない悲しみ、イエス様にしか、癒すことができない傷、その原因となっているものを、イエス様は死者をも生き返らせる全能の御力をもって取り除き、また癒してくださいます。

それはある場合には、地上で、ある場合には、天国に行ってかもしれません。黙示録に、神ご自身が私たちの涙をすっかりぬぐいとってくださるとあります(21:4)。神が、涙をぬぐい取ってくださるという時は、私たちがやせ我慢でなく、悲しみの原因そのものが取り除かれ、慰められ、喜びに変えられるということです。この世では、ありえないこと、どんなに願ってもあり得ないことも、そのときにはかなえられて。そういう希望をイエス様にあって持つことができます。泣かなくてもよいと言ってくださる、また言うことがおできになる、全能にして、あわれみ深い救い主に心から礼拝をおささげしたいと思います。