礼拝説教要旨 2024年9月22日

パリサイ人の罪とキリストの恵み

ルカの福音書6:6-11

<はじめに>

前回に続いて、安息日を巡るパリサイ人とイエス様の問答です。復習になりますが、当時、安息日にはいっさいの「労働」が禁じられて、ただ神の宮に礼拝に行くこと以外は何もしてはならないとされていました。戒めとは言いながら、休みなさいというわけですから、もともとは、いのちの源である神を礼拝し、また休息することによって精神も身体も疲れを癒して、霊肉ともにいのちの回復のために設けられた日でした。それが、いつしか、そんな神の御心・親心から遠く離れて、安息日にいかに何もしないか、ということを競い、神経をとがらせるようになっていたのでした。この安息日には、火を起こすこと、料理することなど多くのことが禁じられていましたが、その、禁じられている労働の中に、彼らは医療行為も含めていたのです。たとえば、普通に酢を飲むのは良いが、歯の治療のために、酢を歯と歯の間から吸うのはダメとか、そんなややこしいことになっていました。

で、前回は、お腹をすかせた弟子たちが、安息日に麦を摘んで、もみ出して食べたことを、パリサイ人が、それは収穫と脱穀の労働、安息日してはならないことだ、と文句を言ってきましたが、イエス様から逆に安息日本来の意義を教えられ、彼らの心得違いを諭されました。が、それがまた彼らにはおもしろくない。ピカピカの学歴、経歴を誇る彼らは、ド田舎のナザレの出の、何の学もない若造に言われたら、癪に障る。たとえそれが正しくても、真理でも、というより、それが正しい、真理であればなおさら、腹が立つ。神への恐れがない彼らには、真理を重んじる心はなく、大切なのはプライド、メンツです。ここに光よりも闇を愛する人間の罪の深さを見ます。私たちも、覚えがないでしょうか。聖書に出て来るパリサイ人の姿は、私たち自身の姿を現わす鏡です。今日のところも、そんな視点から見ることができます。

<あらすじ>

神への恐れがないパリサイ人たちは、何とか一本取り返そうと、今度は、安息日に右手の萎えた人をイエス様が癒すかどうか、目を光らせていました。安息日にしてはならない医療行為をしたと訴えるためでした。ただ、当時でもさすがに、いのちに危険のある場合はその限りではないとされていました。いのちの危険がある時には、いつでも安息日を超越するという例外規定はあったようです。ただ、片手が萎えたというだけでは、いのちに危険があるわけではない。明日でもよいこと。それをあえてこの安息日に癒すかどうか。そこをじっと見ていたのです。「彼を訴える口実を見つけるため」とあるように、イエス様を安息日律法の違反者として騒ぎ立て、裁判にもっていこうとしたのです。もしかしたら、この右手の萎えた人は、パリサイ人たちが用意したのかもしれません。立派な人に罠を仕掛けて足を引っ張ろうとする闇の力は、いつの時代にもあるのでしょう。彼らは、目の前の右手の萎えた人のことなど眼中になく、ただイエス様を訴えるために利用できる道具でしかありませんでした。イエス様を罠にはめたい一心で、この人に対するあわれみ、同情、そういった心はまったくなかった。神のみこころ、イエス様のみこころとは、正反対です。律法の最も大切な愛とあわれみを見失って、彼らは神のみこころから遠く離れてしまっていました。

そんなパリサイ人らの魂胆は百もご存じの上で、イエス様は右手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」と言われました。この人自身の願いは、もちろん、癒されること。彼は喜んだでしょう。そしてイエス様は、パリサイ人たちに先手を打って言いました。「律法の専門家であるあなたがたに尋ねるが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことか、それとも悪を行うことか。いのちを救うことか、それとも滅ぼすことか。」イエス様は、右手の萎えた人を癒すことを善、癒さずに見過ごしにすることを悪とされました。癒すことができるのに、癒さずにそのまま見過ごすことは悪を行うことと。さらに、萎えた手を癒すことをいのちを救うこと、癒さないでそのまま見過ごすことは、滅ぼすこととされました。生きるか死ぬか、と言われれば、確かに、死ぬわけではないでしょう。一刻を争う病気と言うわけではない。だけども、右手というのは、通常は利き腕です。伝説によるとこの人は、石工だったと言います。それが右手が使えなくなってしまって、仕事ができなくなっていたわけです。おまんまの食い上げです。死活問題です。絶望的な気持ちになっていたのではないでしょうか。マタイの福音書の並行箇所では、イエス様はこの時、一つのたとえを言われました。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」と(マタイ12:10-12)。当時でも、家畜を飼っている人たちが、家畜に餌や水を与えるという最低限の仕事は認められていました。それで、羊をどこかの泉か井戸かに水を飲ませに行く途中に、たまたま羊が穴に落っこちてしまった。その時に、人々はためらわずに、すぐその場で、穴に落っこちた羊を助け出す。すぐに死ぬわけではなくても、かわいそうに思い、何の疑問もなくすぐに穴から引き上げる。そしてそれは誰も咎めない。ならば、今、目の前に、絶望的な闇の中に落ち込んでいる人を、今、この場で救い出してあげることに、どうして目くじらを立てるのか…。

しかし、イエス様の問いかけに、パリサイ人たちは答えられませんでした。いや、答えはわかってはいるけれども、答えたくなかったのです。静まり返った会堂の中を、イエス様は見回され、誰も答えないまま、イエス様はその人を癒されました。10節「彼ら全員を見回してから」とありますが、イエス様はこの時、どんなお気持ちで、どんな表情で、見回されたと思いますか?マルコの並行箇所によると、イエス様は何と、怒って彼らを見回し、その心のかたくなさを嘆き悲しまれたとあります(マルコ3:5)。イエス様はこの時、怒られたんですね。こんなわかりきったことに誰も答えない。答えを知らないのではない。知っているけれども、心がかたくなで、認めたくなくて、ダンマリを決め込んでいる。そのかたくなさを怒られたのです。こういうところに、イエス様は怒られるのです。正しいことを、意地だか依怙地だかで、認めないということが、どれほど悪いことなのか、改めて知らされます。あのイエス様が怒られたのですから。あのイエス様を怒らせる罪なのです。私たちもそういうところがないでしょうか。人間というのは頑固というか、依怙地というか。いったん曲がったへそは、てこでも直らないというか。いったんカラスは白いと言ったら、もう誰が何と言ってもきかない。カラスは白い、カラスのどこが黒いんだ、などと平気で押し通そうとする。真理よりも、自分のちっぽけな沽券のほうが大事。そんな捻じ曲がった根性を続けていると、そのうち本当にイエス様の怒りが注がれてしまいますよ、と警告される必要があるかもしれません。どうでしょうか。みなさん、奥さんや子どもに、あるいはご主人や子どもに、あるいは身近な人に、自分が間違っていた時に、自分の非を認めることができるでしょうか。謝ることができるでしょうか。もう相手は、この人は頑固だからとあきらめてしまっているかもしれませんが。そこにわざわざ波風を立てるつもりはありませんが、神を恐れ、真理に従うという姿勢は大切だと思います。

さて、このとき、イエス様がこの人を癒されると、癒された当人はもちろん、見ていた会衆も喜び、神をほめたたえたでしょう。そんな中、パリサイ人のいるあたりだけが、何やらドス黒い空気が覆っていました。彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと、殺意に燃えたと言います。イエス様が、実際に目の前で、会衆の見ている前で、右手の萎えた人を癒してしまったものですから、完全にギブアップ。太刀打ちできない。それが癪に障って仕方がない。当時、こういう奇蹟は、神がその人とともにおられることのしるしとされていましたから、これをやられては、もう完全にパリサイ人たちの負け。敬虔そうに振舞っても、その実、神を恐れる心のない彼らは、イエス様がなさった神のみわざを見てほめたたえるどころか、憎しみに燃え、ギリギリと歯ぎしりするばかりでした。ここでイエス様に敵対するパリサイ人という構図が、決定的になりました。この彼らの殺意が、やがてイエス様を十字架に刺し通すことになります。ですから、肉のプライド、自我、というものは、キリストを殺すものなんですね。神を殺すものと言いますか。実際に神を殺すことはできないんですが、そういうふうに敵対するもの。キリストを十字架につけたのは、私たちのうちにもある、そういう肉の思い、肉のプライド、罪深い自我、そういうものだということが、ここから読み取れるのだと思います。

<パリサイ人の罪とキリストの恵み>

「 岩のごとく 固き心 砕くものは 御力のみ 」新聖歌232番

今日は「パリサイ人の罪とキリストの恵み」という題にしました。パリサイ人の罪については先ほど触れました。正しいことがわかっていながら、プライドや何か肉的な思いのゆえに、認められないかたくなさです。それがイエス様を怒らせ、また嘆き悲しませた罪でした。それは、そのかたくなな心というものが、その人自身の救いを妨げるものだからでしょう。またそれによって周りの人に害を及ぼしているからでしょう。そのようなかたくなさ、意地の張り合い、へそ曲げが、神の祝福を妨げ、逆に、さまざまな争いや悲惨な事態を招く原因となっていることがあるのではないでしょうか。以前、出エジプト記で見ました、エジプトの王パロが、モーセを通してなされた多くの主のみわざを見ても、また痛い目に遭っても、心をかたくなにして、悔い改めることを拒み続けた。その行き着いたところは、恐ろしい悲劇でした。エジプト中に嘆き、泣き叫ぶ声が響き渡る事態になりました。

また、エペソ書4:18(新約p. 389)には、

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

とあります。かたくなさは、神のいのちから遠ざけるものです。そこに平安はありません。生ける神と交わり、歩む喜びもありません。

人の心のかたくなさは、一種の自己防衛反応とも言われます。なので、そう簡単に変えられるものではありません。岩のように硬い。まわりがいくら言っても、ますますかたくなになるばかりです。そのかたくなな心が砕かれるのは、自分の罪の深さに気づかされたとき、そして福音がわかったときなのかもしれません。世界を造られた生ける神の御子が、この自分のために、自ら進んで、身代わりに私の罪を背負って十字架にかかり、私が受けるべき刑罰を受けて下さった。だから、私はありのままで神に受け入れられている。自分の間違い、罪を認めても、神との関係はビクともしない。神の愛はこれっぽっちも変らない。永遠のいのちを失うことはない。だから、自分で自分を守ろうとする必要はない…。神の無条件の愛を本当に知ったときに、かたくなな心は砕かれ、柔らかくされ、自分の非を認めることができるようになるのでしょう。認めても大丈夫だとわかるからです。

ある人が福音を深く学ぶ研修に出て、そこで長年、奥さんに対する姿勢がよくなかったと示され、そのことを奥さんに言おうと決心しました。ところが、いざ、その段になると、なかなか言えない。本当に言えない。蛇が鎌首をもたげるように、自我が頭をもたげて、頭を下げようとしない。ずいぶんと葛藤があって、ようやく、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、それまでのことを謝罪しました。まあ、口先で謝っただけでは、まだまだ本当かどうか、その後もしばらく疑いの目で見られるのだと思いますが、キリストの平和が支配するための一つのキッカケにはなるでしょう。とにかく、それくらい、肉のプライド、自我というのは手ごわいものですが、神の恵みにより、聖霊の助けにより、神のみこころが支配するところとして頂くことができるのだと思います。自分の身近なところに神の国、神の支配を求めましょう。そしてまず自分自身から、神のみこころに従いましょう。

イエス様の十字架は、私たち一人びとりの罪のためです。イエス様は私たちを愛して、私たちを滅びから救い出すために、ご自分から進んで、私たちの罪を身代わりに背負って、十字架にかかって下さいました。この十字架にかかられたイエス様を、わが救い主と仰ぐ。それが、私たちのかたくなさを砕き、真の悔い改めへと向かわせます。そこが真の聖化の始まり、イエス様の似姿へと変えられる歩みの始まり、そしてキリストの平和が支配する、幸いな神の国の始まりです。