今日は、横田先生から要請していただいたこともあって「神である主の律法について」お話しします。主の律法について考えるためには、まず、律法の本来のあり方を考え、続いて、堕落後の人にとっての律法を考え、さらに、罪を贖われた人にとっての律法を、現在と終わりの日における完成を視野に入れて、考える必要があります。
神は神のかたちとして造られた人の心に、ご自身の律法を記してくださっています。そのことは、ローマ人への手紙2:14-15に記されていることから分かります。そこでは、
と記されています。ここでは、罪によって堕落してしまった人の心に「律法の命じる行い」が記されていることが示されています。このことは、もともと神のかたちとして造られた人の心に、神である主のみこころを表す律法が記されていることを示しています。最初に造られた人であるアダムとエバは、造られた時から、神を知っていただけでなく、神のみこころに対するわきまえをもっていました。最初の人は、自分が直面する状況の中で、何が神のみこころであるかを、誰かから教えられなくても、自分で判断することができましたし、自から、自然に、神のみこころに従って生きていたのです。マタイ22:35-40には、
と記されています。神である主のみこころを表す律法の全体は、十戒に要約されます。さらに、十戒を要約すると、ここでイエス・キリストがまとめておられる重要な二つの戒めになります。そして、この重要な二つの戒めは「愛の律法」です。ヨハネの手紙第一4:8,16に
と記されているように、神の本質的な特質は愛です。それで、神のかたちの本質的な特質も愛です。そして、神である主の律法も「愛の律法」です。神のかたちとして造られた人は、本来、その思いとことばと行いにおいて、神のかたちの本質的な特質である愛を表現します。現実の具体的な状況においては、その心に記されている愛の律法が働いて、その具体的な状況において、どのようにしたら愛を現すことができるかの判断をして、人はその愛のうちに生きていたのです。
実際には、人は造り主である神に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。それで、詩篇14:1に、
と記されているように、造り主である「神はいない」ということを、ものの見方、考え方、行き方の基本とするようになってしまいました。それで、人の心に記されている愛の律法も、また、愛そのものも罪の自己中心性によって歪められてしまっています。
そうではあっても、堕落後のことを記している創世記9:6に
と記されているように、人が神のかたちとして造られていることと、神を知っており(ローマ1:21)、その心に愛の律法が記されている者として造られているということは、人の罪による堕落の後にも、人が人であるかぎり、変わることはありません。
それで、人はどのような人や社会であっても、「神」に当たるものを考え、造り出して、それを祀ったり、それに頼っています。また、人のうちには何らかの「良心」が働いていますし、人の社会には、何らかの決まりや規則があります。それが文字で表されていなくても、その社会の慣習や伝統のように、人の行動や行き方を縛っているものがあります。
先ほどの、「重要な第一の戒め」では、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と言われていています。これは、申命記6:5に記されているみことばの引用ですが、ここでは、神のことが「あなたの神、主」と言われています。この戒めは、人が主の主権的で一方的な愛と恵みによって、すでに神である主の民としていただいていることを踏まえています。ですから、主の律法は主の主権的で一方的な愛と恵みによって、すでに 主の民としていただいている者に与えられたものです。このことは、私たちが律法を理解する上でとても大切なことです。というのは、律法を守らなければならないと考えたり、主張することは、律法主義である/律法主義的であると言われることが少なからずあるからです。しかし、まず踏まえておかなければならないことは、律法主義はどういうことかということです。律法主義は、主の民ではない人が、主の律法を守ることによって義とされる/救われる/主の民とされると考えたり、主張したりすることです。しかし、主の律法はすでに主の一方的な愛と恵みによって主の民としていただいている者に与えられたものであり、主との関係、交わりのあり方を示しているものです。律法主義においては、この順序が、逆になっています。
そもそも、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある」(ローマ3:9)ので、罪の力に捕えられ、縛られています。それで、その人は主の律法を守ることはできません。ローマ8:7に、
と記されているとおりです。それどころか、その人は、かつての私たちがそうであったように、神に敵対しています。ローマ5:10で、神の「敵であった私たち」と言われており、コロサイ1:21で、
と言われているとおりです。また、その人は、ガラテヤ3:10、
と記されているように、主の律法ののろいの下にあるので、主を愛することと、主にあって隣人を愛することに集約される愛の律法を守ることはありませんし、できません。
生まれながらの人は、終わりの日に、この律法ののろいによって最後のさばきを受けることになります。しかし、13節に、
と記されているように、罪がない方であるイエス・キリストは、十字架の上で、私たちが終わりの日に受けるべきであった、この律法ののろいである最後のさばきを、私たちに代わって受けてくださって、「私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」。
これらのことを踏まえて、旧約時代の贖いの御業の典型である、出エジプトの御業のことを考えてみましょう。申命記7:6後半-8には、
と記されています。主は、まず、ご自身の主権的で一方的な愛と恵みによって、また、アブラハムへの約束に基づいて(出エジプト2:24)、モーセをとおして、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を奴隷の状態から贖い出してくださいました。その後に、主はイスラエルの民をご自身がご臨在されるシナイ山にまで導いてくださいました。そこで、律法が与えられたのです。このように、先に、主の一方的な愛と恵みによって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださった御業があり、その後に、モーセ律法が与えられています。
創造の御業においては、神のかたちとして造られている人の心には、初めから、神である主の律法が記されていました。
もちろん、その二つの律法には違いもあります。モーセ律法は、もともと神のかたちとして造られた人の心に記されている愛の律法を、人類の堕落後の状況に適用して、外から与えられたものです。それで、モーセ律法には、たとえば、代表的に十戒の戒めでは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」とか、「殺してはならない。」というように、禁止の命令が多くあります。それは、堕落後の人が造り主である神を神としないからであり、人を憎んだり、さげすんだり、殺したりするようになってしまっているからです。最初の人であるアダムやエバが造られた時には、罪がありませんでしたから、心に記されていた律法には、このような禁止の戒めはありません。ですから、罪により堕落した後の人にあっては、主の戒めである律法は罪を明らかにするものです。ローマ3:20には
と記されています。
しかし、主はエレミヤをとおして、イエス・キリストの血による新しい契約においては、再び、主の律法をご自身の民の心に書き記してくださると約束してくださっています。そのことは、すでにお読みいただいた、本日の説教のための聖書個所であるエレミヤ書31:31-35に記されています。この主の約束のみことばは、全体がヘブル8:8-12に引用されています。また、その一部が10:11-18の中で引用されていて、
と記されています。ここに記されていることとのかかわりでエレミヤ31:31-34に記されていることを見ると、32節に、
と記されています。ヘブル人への手紙の説明では、イスラエルの民が主の契約を破ったことの原因は、古い契約の下で備えられた動物のいけにえは、来たるべき「本体」、まことのいけにえである御子イエス・キリストを指し示す「地上的なひな型」(模型、影)でしかなく、それを「繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができ」ないことにありました。そのため、主の律法は、どうしても、モーセ律法のように、外側から与えられた戒め、規定、規制でしかなかったのです。しかし、キリストは「罪のために一つのいけにえを献げ」てくださって、「罪を除き去」ってくださり、「聖なるものとされる人々を・・・永遠に完成され」ました。これによって、主の律法が私たち主の民の心に記されるようになったのです。このように、ヘブル人への手紙においては、主がエレミヤをとおして約束してくださったことが、実質的に成就していることが示されています。
このことを私たち一人一人の現実としてくださっているのは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を、私たち一人一人に当てはめてくださる御霊です。御霊はイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになられます。これが聖霊降臨節(ペンテコステ)の日に、栄光のキリストが父なる神の右の座から遣わしてくださった御霊のお働きです。このようなことを受けて、ローマ8:1-4節には、
と記されています。また、ガラテヤ5;13-16には、
と記されています。
最後に、これらのことを踏まえて、主の律法について、とても大切な、主の律法は人格的なものであることに触れておきます。私たちは「法律」というと『六法全書』のように律法の条文を考えます。しかし、主の律法は人格的なものです。このことは、主の律法は元々、また、本来、神のかたちとして造られている人の心(人の本性)に記されているものであるということに関わっています。主の律法の戒めは、モーセ律法であっても、基本的に、「あなたは…でありなさい/あなたは…をしなさい/あなたは…をしてはなりません」というように記されていて、律法を与えてくださった主と、与えられた人との関係が「わたし」と「あなた」との人格的な関係であることを示しています。そして、その、基本的に、「あなた」で始まる主の律法の戒めは全体的にまとまっていて、それをまとめていきますと、一つの「人格」、主と兄弟姉妹を愛する一人の「人」(愛に生きる「あなた」と言ってもいいのです)が浮かび上がってきます。そのことは、主の律法の戒めを要約すると、愛の律法に要約されることにも表れています。見知らぬ他人を父とか母とか呼ぶことはできません。父を父として呼ぶこと、母を母と呼ぶことができるのは、その前に、父母と親子関係にあるからです。真に主を愛する人は、その前に、主との「わたし」と「あなた」の人格的な関係にあります。真に兄弟姉妹を愛する人は、その前に、兄弟姉妹との「わたし」と「あなた」の人格的な関係にあります。この主の律法が浮かび上がらせる、あるいは映し出す、主との「わたし」と「あなた」の人格的な関係にある「一人の『人』」は、後からお話ししします「御子のかたちと同じ姿」の人、すなわち、栄光のキリストに似た人です。
このことを踏まえて、ガラテヤ5:22-23に記されていることを見てみましょう。そこには、
と記されています。ここには、主の律法とのかかわりで「御霊の実」のことが記されています。この「御霊の実」の「実」(カルポス)は単数形で、一つの実を表しています。そして、それには「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という、九つの徳があります。それで、この「御霊の実」は、九つの徳がある一人の「人」であると考えられます。そして、この「一人の『人』」が、後からお話しする「御子のかたちと同じ姿」の人、すなわち、栄光のキリストに似た人です。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの徳においては、最初に「愛」があげられていますが、これには意味があります。というのは、それに続いてあげられている「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は、「愛」にあって働くものであるからです。一見、個人的なことに思われる「喜び、平安」も、それが真の「喜び、平安」であれば、「愛」にあって生きる時のものです。第一ヨハネ4:18には、
と記されています。もし、私たちが神のさばきが怖いからとか、愛さないとさばかれるからという思いを動機として、主や兄弟を愛するとしたら、それは最後には自分がさばかれないようにと自分を守るためのことで、真に主や兄弟を愛することではありません。御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちのすべての罪に対する父なる神の聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださったのですから、私たちは刑罰としてのさばきから救い出されており、刑罰への恐れから解放されて、自由にしていただいています。先ほどの、ガラテヤ5:13-14には、
と記されています。また、すでに触れていますが、主の律法のすべては、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という「重要な第一の戒め」と、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という「第二の戒め」に要約されます。そして、第一ヨハネ4:20-21には、
と記されています。神を愛することと兄弟を愛することは一つのことの裏表のように切り離すことができません。
さらに、私たちがこのように、御霊に導かれて、神である主とお互いを愛することによって、神のかたちの本質的な特質である愛が私たちの一人一人のうちに、実際に、根付き、育っていくようになって、御霊の実が私たちのうちに結ばれて、育っていきます。それは、御霊によって、栄光のキリストに似た人が、私たちのうちにかたち造られるということを意味しています。ローマ8:29には、
と記されています。神はその永遠のみこころにおいて、私たちを、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われています。この「御子のかたち」は栄光を受けて死者の中からよみがえられた栄光のキリストのかたちで、神のかたちがより豊かな栄光がある状態になったものです。これは、個人的なことですが、さらに、御子を長子とするとする神の家族に迎え入れられることをも意味しています。このことは、すでに、実質的に、私たちの現実になっています。第二コリント3:18に、
と記されているとおりです。
そして、それは終わりの日に完全な形で実現します。第一ヨハネ3:2に、
と記されているとおりです。その時には、私たちは、もはや自らの内にも外にも罪の陰はなく、まったき自由にあって、神である主を愛し、隣人を愛するようになります。
先ほど引用した第一ヨハネ3:2の冒頭に記されているように、
ローマ8:15には、
と記されています。また、ガラテヤ4:6にも、
と記されています。父なる神を個人的に「アバ、父」と呼ぶことは、本来、御子であるイエス・キリストの特権で(マルコ14:36・ゲツセマネにおいて、イエス・キリストは父なる神を「アバ、父」と呼んで祈っておられます)、御使いたちも、アダムも神のことを個人的に「アバ、父」と呼ぶことはできませんでした。しかし、すでに、御霊によって栄光のキリストと一つに結ばれている私たちは、神の子どもとしていただいており、その御霊によって、父なる神を個人的に「アバ、父」と呼ぶ特権にあずかっています。
このことに基づいて、私たちは、御霊に導いていただいて、父なる神と御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きています。さらには、兄弟姉妹たちとの愛の交わりに生きています。第一ヨハネ1:3には、
と記されています。この「御父また御子イエス・キリストとの交わり」こそ、永遠のいのちの本質です。