6章に入って、この段落と次の段落は、注解書の小見出しに「安息日論争」と記されることが多いようです。しかし改めて見てみると、パリサイ人はひとつも反論できていないので、「論争」と言えるほどのものではないのですが。ここには、熱心である人ほど、おうおうにして陥りがちな間違いと、それをイエス様が正して下さったことが書かれています。
本題に入る前に、安息日について確認しておきます。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とは十戒の第四戒。この日はいっさいの仕事を休んで、神を礼拝することと、休息する日とすることを命じられていました。特に休息に関しては、一家の主人と家族だけでなく、その家で仕えるしもべたちも、さらには家畜まで休ませなければならない、と命じられていました。ブラックは許さない。神はすべてのいのちあるもの慈しみ、家畜のことまで心にかけて、休息=いのちの回復のときを定められました。戒めとは言いながら、「休め」という戒めですから、特に難しいことを命じられているわけではありません。私たちの霊と身体の健康を配慮しての戒めです。放っておくと、欲の奴隷となって、わが身も家族も顧みず、気が付いたときには…、そういう悲惨な例も少なくないように思います。安息日の戒めも、他のすべての律法と同じく、私たちの益となるため、幸せのために与えられているものです。
ところが、熱心なユダヤ人たちは、その罪の深さの故という他はないと思いますが、まじめにこの安息日の戒めを守ろうとしていながら、いつしか間違った方向に突き進んで、この戒めが目指す本来の目的とは真逆のことをするようになっていました。いかに、何もしないか。何もしないことを頑張るか。これをしたらあれに抵触する、あれをしたらそれに抵触する…。網の目のように張り巡らされた「安息日にはこれこれをしてはならない」という戒律にがんじがらめ、休みと言いながらかえって疲れる、変なことになっていたのです。
1節「弟子たちは」とあるので、イエス様はなさらなかったのでしょう。ある安息日、会堂での礼拝のあとでしょうか、通りすがりの誰かの麦畑で、彼らは穂を摘んで、揉み出しては食べていました。よっぽどお腹がすいていたんでしょう。当時、イスラエルでは、貧しい人、旅人のため、あるいは単におなかをすかせた人もでしょうか、手で摘んで食べるくらいは、食べさせてあげるようにという、大変寛大な律法がありました。申命記23:24-25(旧約p.356)「 隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。」かごに入れるほどとか、鎌を使って刈り取るほど、ゴッソリはいけないけれども、手で摘んで自分が食べるくらいは、いいと。けちんぼさんには、そういう旅人がいっぱい来たらどうしよう、うちの畑は人通りが多い道に面してるから損だとか、ちりも積もれば山となる、そういうのもたまれば結構な量に…と考え出すと眠れなくなるかもしれません。が、神は私たちの間に寛容の精神、隣人愛の精神があることを望んでおられます。箴言11:25(旧約p. 1107)「おおらかな人は豊かにされ、他人を潤す人は自分も潤される。」とも。
なので、やたらと細かいことに目くじらを立てるパリサイ人も、弟子たちが他人の畑の麦を食べたことを非難しているのではありません。彼らが問題視しているのは、2節にあるように、安息日に、麦の穂を摘み、手で揉み出したということです。彼らの理屈によれば、「穂を積む」は収穫の労働、「手で揉み出す」は脱穀の労働にあたって、二つも律法違反したことになるわけです。こんにちの私たちから見たら冗談みたいな話ですが、彼らは大まじめにそう考えていたのです。弟子たちは、知ってか知らずか、知ってはいたけど、お腹がすいているから、ま、いいや、と食べたのか。もしかしたら、この時の弟子たちは、連日、食事する間もないほど忙しかったのかもしれません(参考マルコ6:31)。それででしょうか。イエス様も、弟子たちにそのまま食べさせておられた。ところが、イエス様のあとをつけていたパリサイ人たちは、それを見て咎めた。「なぜ、おまえたちは、安息日にしてはならないことをしているのか。」自分たちは安息日の戒めを守るのに神経を使って、我慢しているのに、そんなことはどこ吹く風で、お腹がすいたと言っては、安息日でも構わず道ばたの麦を積んでもみ出して食べている、自由にふるまう弟子たちに対して妬みもあったのでしょうか。律法主義は、我慢しなくていいことまで勝手に我慢して、不満を募らせます。
それに対するイエス様の返答が3節以下。3,4節でイエス様が引き合いに出しているのは、旧約聖書の第一サムエル記21:1-6(旧約p. 519)です。ダビデは、妬みと殺意に燃えるサウル王の手から逃れて、お供の者を連れてあちこち放浪していました。で、食べるものがなくて飢えていた時に、やむなく、祭司のもとに行きました。下手をすると、サウル王に通報されたら終わりですから、またその祭司に迷惑が及ぶといけないから、ダビデとしてもギリギリまで我慢したのでしょうが、限界だったのでしょう。最後の最後に祭司の所に行った。そしたら、ちょうどその時は、祭司の家には普通のパンがなかった。そこに「臨在のパン」とあるのは、聖所の机に常に供えることになっていた供えのパンのことで、当時、一週間に一度、供えのパンを新しいのと取り替えることになっていました。それがちょうどその日で、祭司の家には、その取り下げられたパンしかなかった。けれども、それは神にささげられたパン、神に聖別された聖なるパンで、祭司以外の者は食べてはならないとされていました。ところが、それを、祭司はダビデに与え、ダビデもまたそれを、自分も食べ、お供の者にも与えて食べさせたのです。ダビデたちは、背に腹は代えられないということかもしれませんが、祭司がよくそのパンをダビデに与えたな、と思います。祭司は当然、これが聖なるパンであることを知っていました。飢えてヨロヨロしているダビデたちを目の前にして、それでも「これは、神に聖別されたパンだ。祭司以外の者は食べてはならないと神は禁じておられる。かわいそうだが、与えるわけにはいかない。」などとは考えなかった。目の前のダビデを見て、かわいそうに思った。あわれみに突き動かされて、祭司は、これは聖なるパンではあるけれども、この際、彼らに与えようと考えた。みなさんなら、どうされるでしょうか。まじめな人ほど、悩むと思います。最初の人、アダムとエバは、食べてはいけないと禁じられていた木の実を食べたことが罪となった。食べてはいけないと言われたものを食べるのは、罪ではないのか。しかし、アダムとエバの場合は、飢えていたわけではありません。ほかにいくらでも、エデンの園いっぱいに美味しい木の実がありました。それを、サタンの誘惑に乗せられて、わざわざたった一つの、禁じられていた木の実を食べてしまった。それに対して、このダビデの場合は、このパンしかない。飢えも限界に来て、このまま放りだしたら野垂れ死にしてしまいかねない。それで祭司は、神の定めに背いて、ダビデにそのパンを与えたのです。神に仕える身としては、勇気の要ることだったと思います。そして神は、この祭司の判断を良しとされました。神は、ダビデをあわれまれたからです。かわいそうに思われたからです。神の戒めだからと言って、ダビデがその規則を死守するよりも、極端に言えば野垂れ死にしてもその戒めを守るよりも、そのパンしかないのだから、それを食べて、いのちを保つ方が神のみこころにかなっていたのです。
マタイの福音書の並行箇所では、イエス様はこの時、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。」(12:7、第三版)とも仰っていました。イエス様は、御父の御心を解き明かしてくださいました。あわれみのほうが、まさっているのです。安息日律法を守って、飢え死にするのは、そんないけにえは、神は喜ばれないのです。罪びとは、それを宗教的な英雄的な行為として、ほめたたえるかもしれませんが、それは神のみこころとは正反対なのです。またマルコの福音書では、イエス様は「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。」(2:27)とも仰っています。安息日のために人が犠牲になるのは本末転倒。安息日は、人がいのちを回復する日として、人のために設けられたのです。
最後5節に「人の子(=イエス様)は安息日の主です。」とイエス様は言われました。どういう意味でしょう。安息日は、神を礼拝することと、休息するための日です。これは、いのちの回復の日です。いのちの源である神を礼拝して、私たちの霊が新たに生きる力を与えられ、また休息することによって肉体も疲れを回復する。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の「聖」という概念は、いのちと深い関係があると言われます。罪が死をもたらしたのと対照的に、聖はいのちをもたらす、あるいは強めるものなのでしょうか。そして、罪びとである私たちが、罪赦されて、聖なる神との関係が回復して、永遠のいのちにあずかったのは、ただイエス・キリストの十字架と復活のみわざのゆえです。その意味で、イエス様こそ、私たちに完全ないのちの回復を与える方、安息日の主ということなのでしょう。その完全な安息の成就は、やがてくる神の国においてです。そのとき、いのちの源である神を仰ぎ見、肉体は栄光のうちに復活して、死ぬことのない永遠の身体を着ることになります。罪は完全にぬぐい去られ、聖なる者とされ、神とともなる永遠のいのちを喜びのうちに生きることになります。安息日は、その将来実現するまったき安息のときを待ち望ませるものでもあったのだと思います。だから、すべての世のわざをやめて、神を礼拝し、休息するためにその日を用いる。安息日に家畜も休ませまたのも、そのときには動物も罪の呪いから解放され、本来の状態に回復することを表すのでしょうか。(ローマ8:22-25、新約p. 310)。イエス・キリストは、人間をはじめ、すべての被造物を罪の呪いから贖い出し、本来のいのちに満ちあふれた状態に回復する、被造物全体のまったき安息を実現する安息日の主です。
今日の個所は、いのちの神聖を教えるものだったように思われます。安息日も、いのちの回復のために定められたものです。主は、私たちのいのちを何よりも大切なものとされました。それゆえ神は、私たちにまったきいのちの回復を与えるために、御子を救い主として世に遣わしてくださいました。御子は自ら進んで、私たちの罪を背負って、身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちは、週の初めごとに、安息日の主であるキリストのもとにきて、まことのいのちを回復させていただきましょう。ただキリストの十字架のみわざのゆえにのみ、私たちがまったく罪赦され、神に受け入れられていることを確かめ、神に感謝しましょう。一週間の旅路の間に犯してしまった罪をすべて洗い流して頂いて、キリストの義で覆って頂きましょう。キリストは、私たちにまことの安息を与えてくださる方です。そして私たちの霊にも、身体にも心を配り、養い、守り、支え、ついには全き安息に入れてくださる方です。
最後にイエス様の招きのことば。マタイ11:28