礼拝説教要旨 2024年9月1日

新しいぶどう酒

ルカの福音書5:33-39

<はじめに>

私たちが手にしている聖書には、旧約聖書と新約聖書とから成っています。時間的には、天地創造からキリストが来る前までが旧約聖書、キリストが来てからが新約聖書となりますが、実はこれはただの時間の区切りというだけでなく、旧約の時代と新約の時代とでは、神と人との関係が大きく変わりました。で、今日の個所は旧約の時代と新約の時代の違い、キリストが来られる前と来られた後の違いがあらわれているところです。今日はここから、私たちが新約の時代に生かされていることの恵みを改めて覚えたいと思います。

<あらすじ①「花婿がいっしょにいるのに」(33-35節)>

場面は、先週の「イエス様のテーブル」の続きです。レビは、それまでの罪深い生活から、イエス様の「わたしについてきなさい」の一言によって救い出されました。そして、その喜びから、うれしくてたまらず、同業者だった取税人たちやその他、罪人と世間から言われていた人たちを大勢招いて、イエス様と一緒に食事をしてもらおうと、大盤振る舞いをしたところでした。裕福なレビの家には、豪華なごちそうや、山海の珍味、それに年代物の最高級のワインもあったのでしょうか。ペテロたちは、見たこともないごちそうに飛びついて、さぞかしご満悦だったでしょう。そんな様子を見るレビも、うれしかったでしょう。

ところが、同じこの光景に、例のパリサイ人たちがつっかかってきました。前のところで、イエス様に一本取られたので、反撃に出たのでしょうか。「ヨハネの弟子たち(以前出てきたバプテスマのヨハネの弟子たち)はよく断食をし、祈りをしています。われわれパリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちときたら、これ、この通り、食べたり飲んだりしています。」まず、「あなたの弟子たちは」と言っているので、イエス様ご自身は飲んではいなかったのだろうと推測されます。しかし、弟子たちが飲み食いしていることには、何もおっしゃらなかった。そこで、このパリサイ人、イエス様に、なってない!と批判したかったのでしょう。断食は昔から、罪を悲しんでいるしるしとして、しばしば行われていました。それは、敬虔な信仰者のしるしみたいにもなっていたようです。それで、パリサイ人たちは、週に二度も断食していると誇っていました。へりくだって、悔い改めるためにやっているはずなのに、自慢の種になっているようでは、いったい、何のための断食か。他方、ヨハネの弟子たちは、熱心に罪を悔い改めるために、断食していたのでしょう。で、パリサイ人からすれば、イエス様の弟子たちは、断食もしないで、こんなごちそうを飲み食いして、それでいいのか。罪を悲しむことが足りないのではないか、と批判した。

もっとも、本当のところは、半分やっかみもあったのでしょうか。自分たちは断食しているのに、お前たちは食べたり飲んだりして、そのくせ、人々から人気があって、ずるい、納得いかない、と。彼らは、自分から進んで断食しているのでなく、義務的に仕方なくやっているところがあったのでしょうか。そうすると、神に仕えると言っている人が食べたり飲んだりするのを喜べないのかもしれません。あの放蕩息子の兄のように、また、ぶどう園のたとえで、朝早くから働いていた人たちのように。これは、律法主義の症状のひとつです。

それに対してイエス様は言われました。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。 しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」(34-35節)「花婿」はイエス様のこと。ここでは弟子たちは、花婿に付き添う友だちに例えられています。結婚式の披露宴の場面です。要は、披露宴に断食がふさわしくないように、イエス様が共にいるときに断食はふさわしくないということ。それは喜びのとき、祝宴のとき。神の救いの時が来たのだから。弟子たち自身はそんなことも知らずに、飲んだり食べたりに忙しかったのかもしれませんが。しかし、神の救いとは、ご自分が十字架にかかることに他ならないのに、それを喜びのとき、祝宴のときとされているイエス様。なぜなら、それによって私たち罪びとが滅びから救い出されるからです。ご自分の苦しみよりも、私たちの救いを喜ばれるイエス様なのです。私たちが救われるためには、喜んでご自分のいのちをさえ投げ出されるイエス様なのです。

35節「花婿が取り去られたら」は、やがてイエス様が十字架にかかられること。その時には弟子たちは深い悲しみから断食する。イエス様が弟子たちに「断食させる」のでなく、彼らが自発的に断食するのです。週に二回、決まりだからやるというのでなく。

ちなみに、今はどうなのでしょう。イエス様は天におられて、肉体においては私たちと離れ離れですが、しかしイエス様は復活されて、天に昇られるときに「わたしはいつもあなたがたとともにいます。」と仰いました。目には見えませんが、霊においては私たちとともにいて下さいます。いわば、婚約期間というところでしょうか。喜びの期間は喜びの期間。だけどもまだ、まったき喜びには至っていない。正式な婚姻のときは、イエス様が再び、世に来られる時です。その時に、イエス様と教会は永遠に結ばれて、二度と離れ離れになることはありません。それが、まったき喜びのときです。

<あらすじ②「新しいぶどう酒に新しい皮袋」(36-39節)>

36節以下、継ぎ切れの話と、ぶどう酒と皮袋の話ですが、これらは「イエスはまた一つのたとえを話された。」とあるように、二つのことではなくて、一つのことを教えています。それは、キリストに従っている弟子たちに、それまでの古い宗教的なしきたりや、ライフスタイルはあわないということ。キリストが来られた新しい時代、新約の時代には、それまでの古い時代、旧約の時代とは違う、新約にふさわしいあり方があるということです。

まず、買ったばかりの、あるいは仕立て上げたばかりの真新しい服から、わざわざハサミでチョキチョキ、布切れを切って、古い服の継ぎにあてるなど、そんなことは誰もしません。そんなことをすると、せっかくの真新しい服をダメにしてしまうし、また真新しい布切れは古い服には妙にそこだけ新しくて合わない。そのように、せっかくキリストを信じて、罪赦され、新しいいのちを頂いたのに、古い宗教的な決まりやしきたりの型にはめようとしても無理がある。罪赦された喜びを抑え込んで、断食しろ、などと。そんなことをしたら、救われた喜びも窒息して、信仰自体が弱ってしまうでしょう。(これを今の時代に適用すると、イエス様の教えの一部だけを切り取って、生活に取り入れようとしても、うまくいかないということでしょうか。キリスト教は体系的というか、一貫性があるというか、統一的というか。一部だけ切り取り、つぎはぎするような取り入れ方ではなくて、全体が新しくされる必要があるということ。)

それから新しいぶどう酒と皮袋。あちらでは羊ややぎなどの皮を丸はぎにして、大きな袋を作りました。この皮袋に水や乳やぶどう酒を入れて、運搬したり、保存したりしました。新しいぶどう酒は、これから発酵しますからガスが出ます。古い皮袋だと、もう伸び切っているので、次々と湧き出るガスに耐え切れずに、はちきれてしまいます。しかし、新しい皮袋は伸縮性があるので、新しいぶどう酒が発酵してガスを出すにつれて、皮袋の方も延びていきますから、大丈夫。それと同じように、キリストを信じて、罪のまったき赦しを受ける新しい時代、恵みの時代に生きている私たちは、喜びをむりやり抑え込んで、古い時代の型にはめて、断食にいそしむことはできない。新しいぶどう酒は、新しい皮袋へ。キリストを信じ、キリストに従う者たちは、それにふさわしい新しいあり方が必要です。それでこそ、信仰が健やかに成長、成熟していくのでしょう。

では、その新しい皮袋とは何か。いろいろ考えられますが、ここでは祝宴のたとえの続きということで、喜びをベースにした信仰生活と取りたいと思います。旧約の時代はまだキリストが来ていないので、罪の赦しが実現していなかった。従って、神との交わりも不十分なものだった。それが、キリストが来られた新約の時代は、十字架による贖いのみわざが完了したので、信じる者には誰にでも罪の赦しが与えられた。恵みの時代になった。神との交わりが回復し、私たちは今や、神の息子、娘となりました。すべての人を絶対的な力で閉じ込めていた罪と死の牢獄から解放されて、永遠のいのちに生きる者とされました。そして栄光の永遠の神の国を受け継ぐ者とされました。この与えられている恵み、永遠の祝福を深く思い、心の深いところから湧いてくる喜びが、福音を信じた者の生活に常に流れていることが、ふさわしい。それで、新約聖書には、いつも喜んでいなさい、喜びなさい、というみことばであふれているのだと思います。

しかし、人はおうおうにして、古いあり方に留まろうとするものです。その方が居心地が良いですから「古いものはよい」と思ってしまいます。ワインのことは詳しく知りませんが、十分に時間をかけて発酵したもの、古いものは深みが増し、マイルドになるのだそうです。それで、古いものはよいと言われる。信仰の世界でも、古いあり方に留まるのは居心地よく、キリストを信じて従う、新しいいのちに歩む生活は、敬遠されがちかもしれません。ある意味、罪を嘆きながら、浮かない顔をして、その中にとどまっている方が楽なのです。キリストを主と信じるということは、私たちが新しくされること、造り変えられることを受け入れることでもあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5:17、新約p. 361)すでに信じた者も、ウカウカしていると、いつのまにか古いあり方に居座ろうとしまいがちかもしれません。折にふれて、古いあり方を捨て、自分はキリストのうちにあるのだと自覚して、キリストに従う決断を新たにする必要があるのかもしれません。

<新しいぶどう酒>

「 天なる喜び こよなき愛を 携え降れる わが君イエスよ 」新聖歌211番
かなり昔ですが、坂本九さんの「幸せなら手をたたこう」という歌が、一世を風靡したことがありました。「幸せなら、手をたたこう。幸せなら態度で示そうよ、ほら、みんなで手をたたこう。」というあれです。この歌詞は詩篇47篇1節からヒントを得て作られたそうです。「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。」これは旧約聖書ですが、将来の神の救いの時のことを預言して、喜べと言っています。作詞者の木村利人という方は、新聞のコラムで、自分の心の書として聖書をあげてこう書いています。「聖書が世界的ベストセラーであるのは、二千年もの間、喜びのメッセージであり続けているからなのだろう。様々な聖書が年間約十億冊以上も多くの言語に訳されて世界中で読まれている。いのちと心の本当の喜びとは何であるかを『聖書』は今も私に力強く語りかけてくる」

聖書は、喜びのメッセージを伝えるものです。もちろん、罪を悲しんだり、嘆いたりすることも言っていますが、そこで終わるのではない。その先に、キリストによる罪の赦し、悲惨からの解放、生ける神との交わりの回復、永遠のいのち、栄光の天の御国という、まばゆいばかりの神の救いが用意してあるので、喜びのメッセージなのです。バプテスマのヨハネが、人々に厳しく悔い改めを迫ったのが、人々をキリストに導くためだったように、新約の時代の悔い改めは、私たちをキリストに導くためのものです。キリストに導いて、私たちを救いの喜びに、きよめられる喜びに、あずらせるものです。聖書は旧約も新約も、キリスト中心、キリストを目指すもの。キリストこそ、私たちにまことのいのちを与える方、神の尊いご愛を余すところなく表す方です。キリスト抜きに、いのちも喜びもありません。

神のみこころにかなった悔い改めは、ただ自分の罪を嘆くとか、責め続けるとか、あるいは今度からこれをしない、こうしよう、というだけではなくて、―そういう、キリスト抜きの悔い改めではなくて、―キリストをもっと知るための悔い改めです。キリストが与えて下さったまったき罪の赦しの恵みを覚えて喜び、そこに注がれている神の愛を喜び、私たちに聖霊を注いで、全能の御力を、私たちの内面に働かせて、私たちを造り変えて、キリストに似た者としてくださることを喜び、何度失敗しても、キリストが必ずそうして下さることを喜び、ついにはキリストが私たちを輝かしい御国を受け継がせて下さることを喜びをもって感謝する。このキリストから離れないこと。このキリストを喜んでいること。この新しい皮袋を私たちの基本的なライフスタイルとさせて頂けますようにと願います。