礼拝説教要旨 2024年8月25日

イエス様のテーブル

ルカの福音書5:27-32

<はじめに>

今日の説教題は「イエス様のテーブル」と、ちょっとシャレたものにしました。そこには、主人であるイエス様が席についていらっしゃいます。テーブルの上には、この世のものとは思えない、ごちそうが並んでいます。それは、罪人のためにリザーブされているテーブルです。ですから、その前には、「パリサイ人様、お断り」と札が立ててあります。そこのメインディッシュは、「神の恵み」という料理で、これは、自分の罪深さを身に染みて知った者だけが味わうことができる、最高のごちそうです。今日は、ごいっしょに、その、イエス様のテーブルにお呼ばれして、最高のごちそうを頂かせて頂けたら、と願います。

<あらすじ①:「レビという取税人に目を留められた」(27-28節)>

「その後」は、直前の中風の人をイエス様が癒された出来事の後のこと。そこでイエス様は、口先だけの罪の赦しを宣言でなく、本当に神の前に有効な、正当な赦しの宣言をする権威があることを示しました。そして、この罪を赦す権威のある方として、イエス様は、レビという取税人のところに来ました。このレビは別名マタイ。マタイの福音書を書いたマタイです。しかしルカは、ここでは使徒として知られている、有名な「マタイ」という名でなく、あまり知られていない「レビ」という名を使いました。マタイに対する配慮からだと思われます。というのは、当時、取税人は罪人の代名詞だったからです。取税人は、異邦人の支配者ローマ皇帝に納める税を、同胞ユダヤ人から徴収する役割です。それだけでも嫌われそうですが、彼らはローマの権力を後ろ盾に、定められた分より多く徴収して、懐を肥やしていました。ローマ帝国はそんなことは見て見ぬふり。そういう旨味でもない限り、そんな仕事、誰もやりませんから。なので、取税人は心底、周りから毛嫌いされていました。特に当時、ユダヤ人の間では、神がメシアを遣わして、異邦のローマの圧政から救って下さると、みな信じていましたから、その神の約束を捨てて、異邦の帝国ローマの手先になるとは、これはもう信仰を捨てて、敵の側に寝返った者として、地獄のたきぎにされる者と蔑まれていました。ちなみに、マタイ自身は、マタイの福音書の中で「イエスは…マタイという人が収税所に座っているのを見て、…」と書いていました(マタイ9:9)。

そんな日々を送っていたレビでした。どういう経緯で取税人になったのか、わかりませんが、心の中は寂しかったのか、あるいは自分でも自分に嫌気が差していたか、それとも神の裁きを恐れていたか。彼の心中はわかりませんが、ただ、何かを感じていたのだろうことは想像できます。重い心を抱えたまま、この日も収税所に座っていたら、そこに、イエス様が通りかかって、彼に目を留められた。彼の心の中まで、すべて見通しておられるイエス様のまなざしだったでしょうか。そしてイエス様は、彼を招かれたのです。「わたしについてきなさい。」。そこをあとにして、わたしについて来なさい。今までの生活をあとにして、わたしについて来なさい。案の定、レビの心の内は、イエス様のこの招きに応じるだけの準備が出来ていたようです。「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」(28節)。取税人として築いた山のような財産に未練はありませんでした。

<あらすじ②:「罪人を招いて悔い改めさせるため」(29-32節)>

今までのあり方を捨て、イエス様の弟子となって、お従いするようになったすがすがしさ。心には喜びが溢れて、この喜びを、仲間にも知らせないではいられなかったのでしょう。レビは自分の家で、かつての仲間たちを集めてイエス様に引き合わせようと、大宴会を開きました。「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。」ここには「自分の家で」すなわちレビの家で、と明記してありますが、マタイ自身が書いたマタイの福音書の方では、誰の家とも言わず、単に「家で」と書いています。マタイの奥ゆかしさがうかがわれます。

ここに、イエス様がついておられるテーブルがあります。その周りには取税人たち、その他、彼らと同じテーブルを囲むことを恥としない人たちですから、やはり社会からそのように扱われていた、同じ層の人々でしょう。30節には、はっきりと「取税人や罪人」と言われています。イエス様と一緒のテーブルについていた彼らは、どんな気持ちだったでしょう。この頃には、イエス様はほうぼうで病人を癒し、悪霊を追い出し、神の恵みと力を現わしていました。前回見た箇所では、あまりの人気に、あとから来た人が家に入れないほどでした。神の国を来たらせるメシア、ダビデの子と言われていたでしょう。神の国になんて、自分たちのような者は入れてもらえない、追い出されるに決まっている。他の人も自分でも、そう思っていたでしょう。それが、です。あたかも、神の国に入れて頂いたかのように、イエス様と同じテーブルについて、いっしょに食事をしているのです。テーブルをともにするというのは、交わりを持つことです。おそらくイエス様は、彼らの心の中の、ほんの小さな、悔い改めの芽のようなものをさえも、めざとく見つけては、大切にその思いを育てて、悔い改めに導こうとしておられたのではないでしょうか。痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、と。聖なる神の御子イエス様は、人間の世界でさえ、罪人と見下げられていた、汚らわしいとされていた人々とさえ、テーブルをともにすることを厭われませんでした。

ところが、この恵みに満ちた光景を、ちょっと離れた所で、眉をしかめてそれを見ている一団がいました。またまた出てきました、パリサイ人と律法学者たちです。彼らは、前回、罪を赦す権威の思い違いをピシャリと指摘されて、かなわないと思ったか、イエス様に直接言わず「弟子たちに」「小声で」文句を言いました。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」(30節)鼻でもつまみながら、「信じられん。我々は、あんなやつらと同じ部屋の空気を吸うだけでも、耐えられんところじゃ。」などと思ったのでしょうか。そんな彼らに、イエス様はまたしても、彼らの思い違いをズバリ明らかにされます。それは彼ら自身の醜さもあぶりだすものでした。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(31-32節)これをパリサイ人たちは、どういう思いで聞いたか。そうか、じゃあ、自分たちは関係ないわい、と思ったか。それとも、そういう視点をまったく欠いていた自分を恥ずかしく思ったか。自分のことしか考えていなかった自分たちに対して、イエス様は一枚も二枚も上だったと、恥じ入るようだと望みがあるのですが。

本当は、すべての人が罪という死に至る病を抱えているのです。社会の法律とかは破っていないかもしれないけれども、神の御前では、すべての人が本来あるべき状態からかけ離れてしまった罪人。そういう意味では、正しい人というのは、いない。自分を正しいと思っている人はいますが。聖書のほかのところには、義人はいない、ひとりもいない、と書いてあります。ただ、自覚しているかどうか、それだけではないでしょうか。そこに気づかせて頂いたときに、はじめて、イエス様が招いておられるテーブルー恵みのテーブルーに着くことができるのだと思います。この恵みのテーブルの前には、最初に言いました、「パリサイ人お断り」という札の横に「罪人 オンリー」「罪人指定席」という札が並んでいます。私たちは、その札を見て、そのテーブルに着くでしょうか。それとも自分とは関係ないと思うでしょうか。

<イエス様のテーブル>

「いさおなきわれを かくまで憐み イエス愛し給う 御許にわれ行く」新聖歌231番

本に載っていたある牧師のあかしを紹介します。少々長いですが。

学生時代の私は、最初は大方の例に漏れず、イエスの教えに魅力を感じ、「あなたがたの敵を愛せよ。」「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」よし、それで生きてみよう、誰よりも清い愛の人になろう…。私のキリスト教はそれに尽きました。今から考えても、高貴な価値ある目標だったと思うのです。やはりそこから始まったのです。そういうキリスト教をひたすら追い求めたのには、個人的な理由もありました。周りの人間の汚さに嫌気が差していたのです。それも自分の親とか親族とか、一番身近にいる人たちの中にある偽りと憎しみ、ほとんど病的な憎しみが耐えられず、「私の代からは、新しい美しいものにしたい」と誓いを立てたのです。その力はきっと聖書から、キリストから来る、と。

学生仲間のO君とは、聖書のことを真剣に語り合ったものです。たまたまある朝の説教で教えられたガラテヤ書の聖句が私たちの心を捕らえました。「御霊の結ぶ実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」よし、それ、全部行こう!まるで自分の力で実を結べるように思った所は幼稚というほかはないのですが、しかしキリストを信じて一生懸命やったら、そこへ行けないはずがない。当時、そう思ったのです。「僕はやるぞ」と。 ところが、ふと不安も感じた瞬間に、O君が言いました。だけども、もし、失敗したらどうする。霊の実じゃなくて、反対に「肉のわざは明らかである」の方になったら。姦淫、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、怒り。そんな人間になるのが落ちだったらどうしようか…。その時、私は不安を吹き飛ばすように自分でもビックリするような声で、こう言ったのです。「もし、そんなのにしかなれないのだったら、クリスチャン廃業してやるよ!」私たちはそのクリスチャン廃業という、聞いたこともない変な言葉がおかしくて、顔を見合わせて笑いました。そのような程度から始まったのです、私の信仰は。

50人ほどいた教会員のうち、40人は本当に廃業になりました。不思議なことに私たちはこうして今も聖書を読んで、イエス様を信じて喜んでいます。本当は私自身、何度も自信をなくした人間です。「これはモノにならない」と思い知らされた人間です。肉のわざがいつまでもついてくる。イエス様の教えをもってしても清まらない、情けない自分。当然「廃業」しているはずの人間だったのですが。それがある時、イエス様に対する見方が変わったのです。目が開かれたのです。自分が前からいやでいやでしょうがなかった周りの偽り人間、憎しみ人間と、自分がまったく同じ罪ある者だという事実に気づいて「我が罪」を知った時、俄然、イエス様の意味が変わりました。それまでは私に高い倫理を教えて「ここまで来い。清いものになれ。」と命じている人だったイエス・キリストが、私の罪を取り除いて清くできるただ一人のお方、聖なる神御自身の「恵み」そのものだとわかったのです。「あなたをきよくしよう。新しいものに変えよう。死んでいるあなたに新しい命を注ごう。私が来たのは、罪人を招くためだ。」と言われるイエス様がやっとわかったのです。引用ここまで。

イエス様は、今も罪人を、私たちを招いておられます。悪いことをした子どもが、親の前に出たがらないように、私たちも、なるべく神の前に出ないように、イエス様でさえ、避けようとしてしまう傾向があります。そんな罪人根性の抜けない私たちのために、イエス様は、わたしは罪人を救うために来たのです、と招いてくれます。虚勢を張ってないで、自分が罪人であることを認めて、わたしのテーブルに来なさいと。イエス様のテーブルには、恵みによる救いというごちそうが用意されています。私たちにいのちを与え、養い、喜ばせる霊のごちそうです。いっさい私たちのガンバリや、立派さによってではなくー私たちが神に受け入れられるためには、そんなものは少しも役に立ちませんーただ恵みとして、与えられる罪の赦し、救いを心ゆくまで満喫しなさいと。

これも、前回のデボ講座で出た話ですが、こうして、イエス様は罪人を招くために来たんだと仰って下さっているのに、それがわかっているのに、自分はあれこれと言い訳をして、自分を正当化しようとしてしまう。素直に認めるのが難しい。プライドというか、意地というか、自己義をまだ握っているんでしょう。それでは、イエス様の恵みのごちそうにありつくことはできない。わたしのために救いとなってくださったキリストがすべて。キリストが私の義、私の恥を覆ってくださった。キリストがすべて、キリストを誇る。自分の義、自分の何かではなくて。そうありたいと願いながら、いつの間にかというか、すぐにそこから外れてしまうんですね。だから何度でも、そこに戻る、キリストだけ、キリストを誇るという所に立ち戻るという悔い改めが必要だと思っています。そのたびに、キリストの恵みを新たな気持ちで受け、喜ぶことができるのだと思います。

イエス様のテーブルに用意されている、このごちそうは、一生涯、食べ続けて飽きることがありません。クリスチャンとしての歩みは、それを知るところから本当の意味で始まり、またその中に留まり続けることによって、私たちは新しく造り変えられ、きよめられ、神を愛する者へと変えられていくのでしょう。第一テモテ1:14、第三版の訳で。

私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

生涯、イエス様のテーブルで恵みのごちそうを味わい続けたパウロ、晩年の言葉でした。