礼拝説教要旨 2024年8月18日

あなたの罪は赦された

ルカの福音書5:17-26

<はじめに>

みなさんは、罪の問題に悩んだことはあるでしょうか。私自身は、クリスチャンになる前は、ほとんどなかったように思います。クリスチャンになって、聖書に親しむにつれて、罪というものがわかるようになってから悩むことがあったように思います。そしてそのときに、キリストによる罪の赦しのありがたさが、よりわかるようになりました。罪に対する真の解決は、気にしないこと、悩まないことではなくて、権威ある罪の赦しの宣言をキリストから頂くことです。今日の個所から改めて罪の赦しの宣言を頂きたいと思います。

<あらすじ①:「あなたの罪は赦された」(17-20節)>

今日の場面は、カペナウムにあったとある家での事です(マルコ2:1)。イエス様が教えておられる家の中、パリサイ人、律法の教師たちがデーンと座っていました。パリサイ人、律法の教師は、当時のユダヤ社会の宗教的エリートで、サンヘドリンという最高議会の構成メンバーを出しているグループ。銀バッチこそつけてませんが、人々から先生、先生と呼ばれて、恐縮されていました。また当時の議会は裁判も行うので、彼らは国会議員と裁判官を合わせたような人たちです。そんなお偉い先生方が、何の学歴もない、正式な資格もない、イエスさまが教えるのを聞いていたというのですから、なかなか殊勝な心がけ…、と思いたいところですが、この後の展開を見ると、どうだったのか。心の中では、フン、てなもんで、今に、化けの皮をはがしてやる、と意地の悪い目で見ていたのかもしれません。

その時、家の外では、床に寝かせた中風の人を、なんとかイエス様の前に運ぼうと悪戦苦闘している人たちがいました。中風とは、脳の血管が破れたり、詰まったりして、手足の麻痺、言語障害などの後遺症のある状態を言います。彼の家族か友人かがこの人を床に乗せて、担架のようにでしょうか、エッサ、ホイサと、イエス様のおられる家の前までやってきた。ところが来てみると、入り口まで人が溢れて入れない。野次馬が多かったのか、順番を待っている病人がいっぱいだったのか。しかし彼らはそこであきらめなかった。是が非でもイエス様の前に、この中風の人を置きたかった彼らは、まったく奇想天外な方法を思いついて、そして、実行しました。家の中にいた人たちは、何だか上の方でガタガタ音がするな、と思ったら、天井からパラパラと何かが落ちてきて、やがて、家の中なのになぜか上の方に空が見えた。そして、なんと、床についたままの中風の人がつりおろされてきた。まさに青天の霹靂。彼らも後で弁償したか、元に戻したのでしょうが驚きです。これに対するイエス様の応答も驚きです。彼らの非常識を咎める事は一言も言わず、彼らの信仰を見て、「あなたの罪は赦されました。」と言われたのです。イエス様が見ていたのは、屋根が壊れたとか、彼らの奇想天外な発想とか、ずば抜けた行動力とか、そういうところではなかった。見ている所が違った。イエス様は、彼らにそういう行動を取らせた、彼らの信仰を見ていたのです。確かに、彼らは御前に連れて行けば必ず%癒されると確信しきっていたからこそ、こんな事ができたのかもしれません。連れて行けば癒されるとわかっているものを、人混みで入れないからと言って、あきらめてなるものか、と。

また、「彼らの信仰」ですから、中風の人だけでなく、運んでくれた人たちの信仰も含まれています。ここの「信仰」は、原文では単数形ですから、彼らが一つ心になって、一つの信仰で、イエス様のところに来た事が伺われます。私たちも、祈祷会や、二人、三人で誰かのために心をひとつにして執り成しの祈りをする時に、イエス様はその人たちの信仰をご覧になっておられるでしょう。あるいは、誰かをイエス様の前に、礼拝に連れて来るときに、イエス様はその連れてきた人の信仰をもご覧になるのではないでしょうか。

イエス様は、彼らの信仰を見て、赦しの宣言をされました。「あなたの罪」と訳されている「罪」は、原文では複数形で、あれこれの罪、たくさんの罪という事でしょう。それらの罪が全部、赦された。彼らは、ただ信仰をもって来ただけです。施しをしたとか、お布施をしたとか、お百度参りをしたとか、何かしたわけではない。ただ信仰をもってイエス様の所に来た。そしたら、赦しの宣言を得た。イエス様は、ご自身の所に来る者に、まったくの恵みとして、罪の赦しを下さるという事。必要なのは信仰だけ。他には、どんな条件もない。

ところで、普通に考えれば、彼らは中風を癒してもらいたくて来たのだろうと思うのですが、イエス様はこのとき、罪の赦しを宣言されました。どうしてでしょう。デボーション実践講座で、マルコの福音書を読んでいますが、前回、ある方がこの同じ記事から教えられた事をお分かち下さって、この中風の人は罪の赦しを求めていたのではないか、と言われました。人はこういう病にかかると、自分が罪を犯したからではないか、神に受け入れられていないのではないか、と考えてしまうもの。特に当時はそういう考えが一般的でした。イエス様は人の心の中の事もご存じなので、その人の本当の飢え渇きに応えて、罪の赦しを宣言されたのではないか。そして罪の赦しこそ、身体の癒しよりもはるかにまさる祝福だと言われました。その方自身も、少し前に身体の検査の結果、心配な事があったので、なおさらこの箇所からそういう事を示されて、励まされたと証して下さいました。確かに、罪の赦しはすべてにまさる祝福、永遠のいのちを含むすべての祝福の源です。

<あらすじ②:「起きて、歩け」(21-26節)>

ところで、この場面を見ていたパリサイ人たちは、すぐに反応しました。これだから学のない者は困る。罪を赦す事ができるのは、神お一人。こんな事を言うのは、神に対する冒涜に他ならない。イエスとやらは、こんな事もわからんのか、と。確かに、彼らの言っている事自体は正しい。罪を赦す事ができるのは、神おひとりです。「あなたの罪は赦された」と言うだけなら、誰でも言えるかもしれませんが、有効ではない。正当な権威を持った人だけが、有効な罪の赦しの宣言することができます。例えば、誰かが犯罪を犯して捕まったとします。その場合、裁判所が無罪を宣言しない限り、他の人がいくらその人に向かって「あなたの罪は赦された」と言っても無効です。あるいは自分で自分に向かって「私の罪は赦されている」と何万遍唱えても、まったく効力を持ちません。それだけでなく、精神的にも、そんなむなしい自己暗示では、真の平安は得られないでしょう。裁判所という、正当に裁く権威のある所だけが、有効な罪の赦しを宣言することができるわけです。

同じ事は神と人の関係についても言えます。聖書によると、すべての人は、やがて最後の審判の時に、神の前に裁きを受けることが定められています。社会の法律には触れないけれども、道徳、倫理に触れること、ちょっとした嘘とか、かげ口とか、そういうことも、その時には裁かれます。さらに、人の世の道徳や倫理には触れないけれども、神の倫理に触れることも、その時には裁かれます。心の中の悪意、ねたみ、憎しみ、汚れた思い、神に対するつぶやき、神にふさわしい感謝を捧げていないこと…。最終的に、すべてのことを裁くのは、すべての事を正しく知っておられる神です。神だけが、人々の罪を赦す権威があるのです。パリサイ人たちの言っていることはその意味では正しいのです。

ただ、彼らの間違いは、目の前のイエス様が正当に罪を赦す権威を与えられている神の御子だと知らなかった事です。本当は、彼らの方こそ、神の御子を冒涜していたのです。が、そんな彼らにも、イエス様は「冒涜しているのはそっちだ!」などと言わず、忍耐をもって、本当にご自分に罪を赦す権威がある事を彼らに示されました。

イエス様は彼らに「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」と問いかけ、「人の子(イエス様の事)が地上で罪を赦す権威を持っている事を、あなたがたが知るために」と言って、中風の人を癒しました(23-24節)。このイエス様の理屈から言うと、「起きて、歩け」と言う事の方が難しい事になります。より難しい方をして見せるから、それより簡単な事もできるという証明になるわけです。もし、「起きて、歩け」と言う事の方が簡単だったら、それをやったところで、イエス様に罪を赦す力がある事の証明にはなりません。「起きて、歩け」と言う方が難しいから証明になるのです。で、よく見てみると、イエス様が比べているのは、「あなたの罪は赦された」と言う事と、「起きて、歩け」と言う事です。みんなが見ている前で、声に出してそのように言う事です。言うだけだったら、「あなたの罪は赦された」と言う方が、罪びとにとっては簡単です。なぜなら、罪が赦されたかどうかは、外から見て分からないから、ウソでもばれない。だから、言うだけなら、平気でうそをつくペテン師でも言える。それに対して、「起きて、歩け」と言う方は、言った事が本当かどうか、ひとめで分かってしまいます。インチキできない。だから、言うだけだったら、こっちの方が難しい。そしてイエス様はその難しい方をしてみせて、ご自分が口先だけではない事、罪の赦しを宣言する権威がある事を証明したのです。

<あなたの罪は赦された>

ある求道者の方が重い病気にかかって、いよいよ、というときが近づいたとき、牧師が呼ばれたそうです。「先生、私に聖書の言葉を書いて下さい」と頼まれたので、牧師はいろいろ考えて「神は愛なり」と書きました。ところが求道者はそれを見て浮かぬ顔をして、「先生、『汝の罪、赦されたり』と書いていただけませんか」と言ったそうです。いざとなったらそういうものなのでしょう。死は単なる自然現象ではなく、神の裁きを直感させるものですから、あれやこれやの罪をため込んだままでは恐ろしいはずです。私も、イエス様なしには死にたくありませんし、他の方々にも、イエス様なしに死んで欲しくはないのです。

本当の赦しを与え、従って本当の平安を与える事ができるのは、罪を赦す正当な権威のある神だけであり、神からその権威を与えられた神の御子キリストだけです。それも、最後の審判まで待つまでもなく、24節に「地上で罪を赦す権威を持っている」とあるように、この地上において、すでに信じる者は罪の赦しを受ける事ができるのです。私たちの心の奥には、知らず知らずのうちに、大小さまざまな罪の記憶、また記録が蓄積しているのではないでしょうか。それは知らず知らずのうちに、私たちの心を重たくし、傷つけ、病ませているのかもしれません。それを、本当に一掃できるのはイエス様だけ。裁判所が無罪宣告をしてくれない限り、他の人や自分がいくら無罪と言っても無効であるように、人の声は、私たちの良心に刻まれた罪の記憶、罪の記録を消す事は出来ません。それを、本当にきれいに消す事ができるのは、罪を赦す正当な権威を持っておられるイエス・キリストただおひとりです。この方の「あなたの罪は赦された」という権威ある宣言のみが、心の底に刻まれていた罪の記憶、記録をすべて消す事ができるのです。

私たちが、イエス様からその権威ある「罪の赦しの宣言」を頂くために必要なのは、ただイエス様が、私たちの身代わりとして、私たちの罪を背負って十字架にかかって、刑罰を受けて下さった事、そして三日目に復活されたと信じる事です。そして私たちのために死んで、よみがえって下さったこのイエス様を、私たちの主として受け入れて、このお方に従って生きていくと心に決める事です。そのように、このお方を信じたなら、これ以上、自分を責める事は一切しなくて良いし、してはいけないのです。サタンは、いつまでも過去の罪に訴えて、罪を糾弾し、神が下さる赦しの確信を揺るがせようとします。信じるだけで罪が赦されるなどと虫が良すぎるぞ、とか、お前がしでかしてしまった事はもう、とり返しがつかない、とか。しかしそんなサタンの偽りに惑わされてはいけません。サタンになど、だれをも罪に定める権威はこれっぽっちもないのです。人を罪に定め、赦す事ができるのは、神おひとりであり、キリストだけです。そしてキリストは正当な権威をもって、完全な罪の赦しを、神の御前で宣言して下さったのです。それゆえ、神は私とともに歩んで下さる。罪の赦しというあらゆる祝福の源を頂いている者として、今日からの一週間に歩み出しましょう。