みなさんは、罪の問題に悩んだことはあるでしょうか。私自身は、クリスチャンになる前は、ほとんどなかったように思います。クリスチャンになって、聖書に親しむにつれて、罪というものがわかるようになってから悩むことがあったように思います。そしてそのときに、キリストによる罪の赦しのありがたさが、よりわかるようになりました。罪に対する真の解決は、気にしないこと、悩まないことではなくて、権威ある罪の赦しの宣言をキリストから頂くことです。今日の個所から改めて罪の赦しの宣言を頂きたいと思います。
今日の場面は、カペナウムにあったとある家での事です(マルコ2:1)。イエス様が教えておられる家の中、パリサイ人、律法の教師たちがデーンと座っていました。パリサイ人、律法の教師は、当時のユダヤ社会の宗教的エリートで、サンヘドリンという最高議会の構成メンバーを出しているグループ。銀バッチこそつけてませんが、人々から先生、先生と呼ばれて、恐縮されていました。また当時の議会は裁判も行うので、彼らは国会議員と裁判官を合わせたような人たちです。そんなお偉い先生方が、何の学歴もない、正式な資格もない、イエスさまが教えるのを聞いていたというのですから、なかなか殊勝な心がけ…、と思いたいところですが、この後の展開を見ると、どうだったのか。心の中では、フン、てなもんで、今に、化けの皮をはがしてやる、と意地の悪い目で見ていたのかもしれません。
また、「彼らの信仰」ですから、中風の人だけでなく、運んでくれた人たちの信仰も含まれています。ここの「信仰」は、原文では単数形ですから、彼らが一つ心になって、一つの信仰で、イエス様のところに来た事が伺われます。私たちも、祈祷会や、二人、三人で誰かのために心をひとつにして執り成しの祈りをする時に、イエス様はその人たちの信仰をご覧になっておられるでしょう。あるいは、誰かをイエス様の前に、礼拝に連れて来るときに、イエス様はその連れてきた人の信仰をもご覧になるのではないでしょうか。
イエス様は、彼らの信仰を見て、赦しの宣言をされました。「あなたの罪」と訳されている「罪」は、原文では複数形で、あれこれの罪、たくさんの罪という事でしょう。それらの罪が全部、赦された。彼らは、ただ信仰をもって来ただけです。施しをしたとか、お布施をしたとか、お百度参りをしたとか、何かしたわけではない。ただ信仰をもってイエス様の所に来た。そしたら、赦しの宣言を得た。イエス様は、ご自身の所に来る者に、まったくの恵みとして、罪の赦しを下さるという事。必要なのは信仰だけ。他には、どんな条件もない。
ところで、普通に考えれば、彼らは中風を癒してもらいたくて来たのだろうと思うのですが、イエス様はこのとき、罪の赦しを宣言されました。どうしてでしょう。デボーション実践講座で、マルコの福音書を読んでいますが、前回、ある方がこの同じ記事から教えられた事をお分かち下さって、この中風の人は罪の赦しを求めていたのではないか、と言われました。人はこういう病にかかると、自分が罪を犯したからではないか、神に受け入れられていないのではないか、と考えてしまうもの。特に当時はそういう考えが一般的でした。イエス様は人の心の中の事もご存じなので、その人の本当の飢え渇きに応えて、罪の赦しを宣言されたのではないか。そして罪の赦しこそ、身体の癒しよりもはるかにまさる祝福だと言われました。その方自身も、少し前に身体の検査の結果、心配な事があったので、なおさらこの箇所からそういう事を示されて、励まされたと証して下さいました。確かに、罪の赦しはすべてにまさる祝福、永遠のいのちを含むすべての祝福の源です。
同じ事は神と人の関係についても言えます。聖書によると、すべての人は、やがて最後の審判の時に、神の前に裁きを受けることが定められています。社会の法律には触れないけれども、道徳、倫理に触れること、ちょっとした嘘とか、かげ口とか、そういうことも、その時には裁かれます。さらに、人の世の道徳や倫理には触れないけれども、神の倫理に触れることも、その時には裁かれます。心の中の悪意、ねたみ、憎しみ、汚れた思い、神に対するつぶやき、神にふさわしい感謝を捧げていないこと…。最終的に、すべてのことを裁くのは、すべての事を正しく知っておられる神です。神だけが、人々の罪を赦す権威があるのです。パリサイ人たちの言っていることはその意味では正しいのです。
ただ、彼らの間違いは、目の前のイエス様が正当に罪を赦す権威を与えられている神の御子だと知らなかった事です。本当は、彼らの方こそ、神の御子を冒涜していたのです。が、そんな彼らにも、イエス様は「冒涜しているのはそっちだ!」などと言わず、忍耐をもって、本当にご自分に罪を赦す権威がある事を彼らに示されました。
ある求道者の方が重い病気にかかって、いよいよ、というときが近づいたとき、牧師が呼ばれたそうです。「先生、私に聖書の言葉を書いて下さい」と頼まれたので、牧師はいろいろ考えて「神は愛なり」と書きました。ところが求道者はそれを見て浮かぬ顔をして、「先生、『汝の罪、赦されたり』と書いていただけませんか」と言ったそうです。いざとなったらそういうものなのでしょう。死は単なる自然現象ではなく、神の裁きを直感させるものですから、あれやこれやの罪をため込んだままでは恐ろしいはずです。私も、イエス様なしには死にたくありませんし、他の方々にも、イエス様なしに死んで欲しくはないのです。
私たちが、イエス様からその権威ある「罪の赦しの宣言」を頂くために必要なのは、ただイエス様が、私たちの身代わりとして、私たちの罪を背負って十字架にかかって、刑罰を受けて下さった事、そして三日目に復活されたと信じる事です。そして私たちのために死んで、よみがえって下さったこのイエス様を、私たちの主として受け入れて、このお方に従って生きていくと心に決める事です。そのように、このお方を信じたなら、これ以上、自分を責める事は一切しなくて良いし、してはいけないのです。サタンは、いつまでも過去の罪に訴えて、罪を糾弾し、神が下さる赦しの確信を揺るがせようとします。信じるだけで罪が赦されるなどと虫が良すぎるぞ、とか、お前がしでかしてしまった事はもう、とり返しがつかない、とか。しかしそんなサタンの偽りに惑わされてはいけません。サタンになど、だれをも罪に定める権威はこれっぽっちもないのです。人を罪に定め、赦す事ができるのは、神おひとりであり、キリストだけです。そしてキリストは正当な権威をもって、完全な罪の赦しを、神の御前で宣言して下さったのです。それゆえ、神は私とともに歩んで下さる。罪の赦しというあらゆる祝福の源を頂いている者として、今日からの一週間に歩み出しましょう。